安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2019年2月23日土曜日
前期難波宮と藤原京
この二つの都の関係が今まではっきりとしてはいませんでした。しかし、後の南北朝のように二つに分かれていたと考えれば、問題ありません。藤原京の構成が唐の都の長安と合っていないのも、おそらく前期難波宮が唐風スタイルを目指したのに対抗した可能性があります。天武天皇の時代にヤマトの勢力がキビの勢力と対立していたことと整合性があります(これぐらいの時から)。平城京に遷都して、唐の都の長安をモデルにしたのも、キビの勢力を併合していったからだと思って矛盾はありません。東アジアの緊張が高まる中、外交政策の対立(唐との関係)が国内の対立をもたらしたと考えられます。皇国史観で単一の王朝のように考えれば、前期難波宮がなにやらわからないものになりますが、まだこの時点で地域王国が残っていたとすればすっきりとしてきます。これは前期難波宮のグループとキビの勢力が同一か同盟関係にあったことが前提となります。現時点ではこの考えで行きたいと思います。もちろん、考え方が極端ですので、たとえば、長岡京に遷都しようとしたときに、造長岡宮使の藤原種継が暗殺されています。このような政権内での対立であって分裂まで至ってないのかもしれません。
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