2019年1月19日土曜日

吉備国の過小評価

 最近、思い違いをしているような気がしてきました。情緒的な話になります。第2次大戦というか太平洋戦争の時に、戦艦大和という軍艦がありました。当時の日本の軍事力の象徴であったと思います。日本の国力をかけて建造した船ではありましたが、戦争が巨艦主義から航空兵力重視の流れの中で時代遅れになってしまったようです。戦力としては誇れるものであったのですが、実質はそれほどでもなく無力化したということだと思います。何の話かと思われますが、前方後円墳のことです。サイズについて大きな古墳を作っている地域が、中心的な地域であるとの認識ですが、それで良いのだろうかと思います。吉備国では大きな古墳が作られましたが、その後さらに大きい古墳が大和の地域で作られたようです。古墳のサイズを基準に考えれば、ヤマトの地域が中心であろうと思われます。しかし前方後円墳が時代遅れのものであるという認識を吉備国が持てば、無駄なことをせずにもっと国力の向上に役立つことに力をそそぐことになると思います。つまり何らかの律令制的なシステムを採用する方向に向かうと思われます。当時、東アジアのキビしい情勢を認識していて、前方後円墳など作っているヒマはなかったということです。吉備が先進的な地域でヤマトは遅れた地域であった可能性があります。当時では、中国から新しい知識をえるようなことが重要課題となります。遣隋使のことですが、日本書紀では記述がおざなりで、当事者としての意識が希薄に思われます。吉備国が倭国であって中国に使いを送ったと考える方が感覚的には無理がないように思われます。倭の五王の話も、どの天皇に対応するのかと考えるのも、こじつけを考えているようで、全くの無意味な作業に思われます。五王も吉備国の王であったかもしれません。吉備が倭国であったと考える人がどの程度存在するのか不明です。現時点では、感覚的な妄想的ですが、以下に「古代を考える 吉備、吉川弘文館二〇〇五年三月第一刷」からのなるほどと思われた部分のメモ書きです。
最初の一,吉備 その風土と起点で、門脇禎二氏が書かれているところが興味深いです。キビ王国とヤマト王国があり、六世紀にヤマト王権にとりこまれてしまった。との説に対して批判があったようです。キビの部民遺制地域分布表が示されていて、キビ王国にすでに実現された統治機構があり、それを元にヤマト朝廷に対応したとのことです。聖徳太子が実在したとの考えがあるので、六世紀と考えられていますが、実在しないと考えれば、七世紀まで下がることになります。各種の品部で鍛冶部が見当たらない。伊福部《いふきべ》が吹くにつながり精錬作業になるのかもしれませんが、まあ無いであろうとのことです。キビは鉄の生産地として有名であるので、キビ国王がヤマト王権の部民の指定を拒否したと考えたいとしています。出雲神話にも刀の話があったようにも思い、古代の鉄生産が重要事項であっったことは確かであろうとは思いました。
白猪屯倉と児島屯倉についてもヤマト王権の戦略的な拠点であったこと。「日本書紀」敏達一二年(583)是年条の百済の日系官人で敏達の懇望によって来朝した日羅《にちら》に関する記事で、「日羅等、吉備児島屯倉に行き到る。朝廷《みかど》、大伴糠手古連《おおとものあらてこのむらじ》を遣《たま》いて、慰《やす》め労《ねぎら》う」と記されているそうです。つまり遣隋使の返使として来た裴世清も同じで吉備にやってきた可能性が高まります。
最後の方に、吉備津神社の神階の問題が挙げられています。承和一四年(847)十月に初めて従四位下を授けられた後、従四位上を経て、仁寿二年(852)二月には四品を授けられ、貞観元年(859)正月には二品となっている。これはきわめて特殊な事例であり、仁和四年(888)の大神宝奉献社では、宇佐神、石清水神両社の一品につぐ品階であり、品階が与えられているのはこの三社のみであり、吉備津彦神に格別の意味が込められているようである。とあります。なにかしら吉備国に復権の動きを感じます。吉備真備や和気清麻呂に影響したように書いてあるように感じました。

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