日本書紀、巻二十九、天武天皇下(新編日本古典文学全集4)を見ています。
壬申の乱が終わってからの話です。天武天皇二年に即位し、関係者の係累の説明があります。三月に「備後国司が白雉を亀石郡で捕らえて貢上した。そこで、その郡の課役をことごとく免除し、天下に大赦した」とあります。ここで亀石郡ですが、注には広島県神石郡とあります。つまり、吉備包囲網の安田の地名がある地域です。天武天皇の時代、吉備の包囲網が残っていた可能性があります。
同年閏六月に、耽羅《たんら》(注では済州島)、都羅《つら》が朝貢、新羅の使いも同月に来ています。高麗(新羅の傀儡政権の注あり)なども見えます。天武三年三月には対馬国司が出ています。天武四年二月には、国名が羅列され、大倭がありますが、吉備はありません。二月には新羅の朝貢があります。三月に土佐大神が神刀一口を進上したとあります。土佐は高知県で安田の地名があるところです。意図的に出てきているように感じます。高麗・新羅の朝貢があります。新羅の皇子が難波に到着した。天武五年、前年の耽羅の客に船を送ったことや、大伴連国麻呂らが新羅から帰国したことが出ています。また新羅に使いを送っています。情報交換していることが書かれています。
天武六年には多禰島人《たねのしまひと》らを饗応した記事があります。新羅などとの往来の記事が繰り返しあります。天武八年三月には吉備大宰《きびのおおみこともち》、石川王《いしかわのおおきみ》が病気になり吉備で薨じたとあり、十一月には多禰島に使いを遣わすとあります。そして十二年三月に戻っているようです。天武天皇の時代、唐と新羅との戦いの敗戦処理で往来があり、種子島ともおそらく南側の防衛ラインになり、重視したと思われます。
ここで種子島の人がどのような経路でやってきたかということを想像します。「種子島」は戦国時代に鉄砲の意味があり、これは種子島に鉄砲伝来があり、堺などに伝わったと思います。この経路は四国の南を通る南海路であろうと私は思います。紀伊国には根来衆・雑賀衆などの鉄砲集団がおり、秀吉の紀州征伐では抵抗したようです。この時の鉄砲の火薬などが南海路で持ち込まれたように思われます。これは戦国時代の話ですが、もっと古い古墳時代に鳴滝遺跡(和歌山市善明寺)という倉庫跡の遺跡があります。これは古墳時代に南海路を通して交易が行われていたと思います。天武天皇の時代に南海路を利用していたのかということです。高知県に安田町があります。ここが南海路の中継ポイントになっていて、安田という名前から七世紀後半に整備されたことになります。黒潮の流れに乗って、種子島からやってきたとして問題ないように思われます。キビとヤマトの対立があり、瀬戸内海航路を採れない場合に南海路をヤマトは考えていたとしておかしくはなさそうです。
ヤフーマップにポイントしています。
①種子島
②高知県安田町
③大阪府堺市
④鳴滝遺跡(和歌山市善明寺)
です。①→②→④→③のようなイメージです。あくまで概略です。
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