「吉備の古代史 王国の盛衰、門脇禎二著、NHKブックス」をチラ見しての感想です。七六頁には、「日本が地域王国の段階では、地域王国同志の交渉や日本列島外の国々との関係も外交で、具体的に言えば、吉備王国が百済と折衝するのも外交、大和王国と折衝するのも外交、筑紫王国が大和王国や新羅と折衝するのも外交、こういう段階を想定すべきだと思う。」、「だから、よく誤解されるのは、外国史料の倭王は地方の地域王国の王とみるのか問われる。しかし、史料的には、高句麗が南下した五世紀以後の倭国のことが記される『宋書』から以後は、大和王国は百済と中国の南朝と交渉した。ただしこの時期、倭人が、かって魏の時代のように北朝側とどう折衝したかという史料は少なく、主に百済を接点にした南朝側との外交関係であったから、当然その関係の上で出てくる倭王は大和王国の王とみて不当ではない。けれども、それはこの段階ではまだ日本の国を代表する確固とした外交関係ではなかったと思う。だからこそ、やがて、地域王国の間のトラブルが起こったときには、外交関係がはっきり錯綜してくるのである。」、「それなら日本列島は、四世紀から五世紀はまだ混沌としていたのかというとそんなことはない。すでに共通の「倭人」社会が形成され、発展しつつあった。古墳文化の意義の重要さは、実は、この点にかかわってのことであり、ただそれは政治的に統一された権力体制を語るものではない。その権力体制を、わたしは地域王国論で理解しようとするのである。」
と書かれています。
私は、歴史の流れはその通りだろうと思います。しかし地域王国がおそらく七世紀にあっても存在し、壬申の乱以降も、錯綜した状態のように感じられます。門脇氏の考えをベースに、時代を後ろに移動するという修正をすれば、すっきりと理解できそうです。白村江の戦いで敗れた時に、日本の中がどういう状況にあったか不明ですが、イズモとキビが提携関係にあり、新羅と結びついていれば、ヤマトにとって重大な脅威になります。そのためにヤマトはイズモにくさびを打ち込んだということかもしれません。神話にイズモがクローズアップされている理由とも思えます。この辺は妄想です。、何を言ってるんだということですが、激動の時代ですのでありえない話ではありません。
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