2019年1月12日土曜日

吉備の山城


「古代山城・鬼ノ城を歩く、村上幸雄・葛原克人編、吉備人選書」を見ています。吉備の山城には備中の鬼ノ城と備前の大廻《おおめぐ》り小廻りがあり、この二つは「日本書紀」や「続日本紀」の中にまったく名前が出てこず、謎だらけということです。私は吉備と大の勢力争いがあり、倭国の痕跡を示すこれらの城を隠す意図があったのではないかと思います。今回は備後にある二つの山城です。常城《つねき》と茨城《いばらき》です。こちらはなぜ存在がわかるかといえば、「続日本紀」の養老3年(719)12月の条に「備後の国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」とあるそうです。しかし詳しいいきさつは不明です。両城の解明を目指した故豊元国さんは、1968年(昭和43)に刊行された「奈良時代山城の研究」のなかで、比定地を挙げていて、
それによると常城は、広島県芦品郡新市町大字常と府中市本山町にまたがる標高500メートルの火呑山にあり、・・とのことである。山がどこにあるのか不明であったが、現在の広島県福山市新市町常(〒 729-3107)付近であろうと考えてマーキングしてみた。こちらは地名に「常」があるので間違いがなかろうと思われます。一方、茨城は広島県福山市蔵王町(〒 721-0971)にあったようです。こちらも郡名から考えれば大幅にずれることはなさそうです。図の赤のポイントで左上が常城で右下が茨城を表しています。これらの山城の成立年代は不明ですが、吉備とヤマトの勢力の対立があり、ヤマトが出雲と7世紀に同盟関係を結び、この山城の西方にある世羅や三次などの出雲に連なる包囲網を築いていった時の吉備側の軍事的に対抗するためのの山城のように思えてきます。

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