2019年1月14日月曜日

H31.01時点での古事記の考え方

 私の話のベースは
現時点でのまとめ
にあります。古事記も持統天皇の時代の影響を受けていなければならないのに反映されていません。多分これが、古事記の問題で日本書紀が新たに作られたものと思われます。古事記序に天武天皇が「朕聞く、諸々の家の賷《も》てる帝紀と本辭と、既に正実に違ひ、多く虚偽を加へたり。今の時に当りて其の失を改めずは、幾ばくの年を経ずしてその旨滅びなむと欲《す》。斯れ乃《すなは》ち、邦家《みかど》の經緯《たてぬき》にして、王化の鴻基《おほきもとゐ》なり。故惟《かれおもひ》みれば、帝紀を撰錄し、舊辭《ふること》を討覈《たづねきはめ》、僞を削り、實《まことを》定めて、後葉《のちのよ》に流《つた》へむと欲《おも》ふ」と仰せられたということです。
 文字については違うところあるかもしれませんが、この部分を見て感じるのは、天武天皇のいうところの事実と異なる記述が多くあり、天武天皇の正統性が疑われる状況があったということだと思います。天智天皇から天武天皇への移行が世間的に認められておらず、正統性を示す必要性があったのではと思います。個人的には帝紀などは無かったと思います。あわてて作ったために、祖先の歴史を記述することが難しく、神話的な要素が強くなったような気がしてきました。古事記は持統天皇までを記述することを目標としていたと思いますが、当時の重要な問題だった、唐・新羅との軍事的な衝突をどう古事記に含めるか悩んでいたと思われます。天武天皇は天智天皇の対外戦略が失敗した後に交替した勢力であって、天智天皇を引き継いで、唐などに対抗することはまったく考えていなかったはずです。日本の国の敗戦といって良い、白村江の戦いなどを含めて、古事記を再構成したのが日本書紀であったろうと思います。改めて感じることですが、日本の古代史において白村江の戦いなどを軽視しすぎているように思ってきました。つまり明治時代以降の皇国史観にたてば、過小評価せざるを得なかったということかもしれません。しかしこの敗戦が契機となり、異常かもしれない律令制が広まっていった可能性もあり得ます。外圧が無くなり、律令制が消滅していったこととが一見して、対応しているようにも思えます。

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