2019年1月31日木曜日

宇佐八幡宮神託事件

 奈良時代の神護景雲三年(七六九)、宇佐八幡宮より称徳天皇に対して「道鏡が皇位につくべし」との託宣を受け、紛糾した事件です。和気清麻呂が派遣され、皇位継承が血統を重視することになったということです。当時、道鏡は法王であり、藤原永手が左大臣、吉備真備が右大臣であり、反発があったものと想像します。経緯については誤解があるかも知れませんが、大事なのは宇佐八幡宮の託宣が重要視されたことに驚きます。宇佐八幡宮は全国にある八幡宮の総本社で、石清水八幡宮・筥崎宮《はこざきぐう》(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つとされるそうです。問題児の神社であるのか、平安時代前期には、この宇佐神宮から勧請された石清水八幡宮が代わりに崇敬されることになったようです。天平一〇年(七三八)藤原宇合の長男・藤原広嗣は太宰府に左遷され、天平一二年(七四〇)に挙兵することになります。結果、官軍により乱は鎮圧されます。神託事件や広嗣の乱などを考えていると、筑紫に地域王国が少し前まで(少なくとも七世紀)存在し、ヤマトの勢力に多大な貢献したという意識が残っていたように思われます。太宰《だざい・おおみこともち》はその地に駐在する単なる担当者というか、ヤマトとのメッセンジャーの意味のような気もしてきました。地域王国論にだいぶ洗脳されています。

追記:H310204
神社の勧請
宇佐-石清水-鶴岡と繋がる八幡宮の勧請ですが、神託事件の影響が大きいように思われます。朝廷にとって宇佐神宮では遠く、神託事件でこりて石清水八幡宮を勧請したと思われます。鎌倉幕府の時も、万一、宇佐神宮から託宣がおり、困ったことであれば、宇佐神宮はともかく、石清水まで行くのでも大変になります。おかしな神託の影響を受けないように、やはり鎌倉にまで八幡宮を勧請したように見えます。
石清水八幡宮ですが、室町幕府第六代将軍、足利義教はこの石清水八幡宮でのくじ引きにより将軍に選ばれたとのことです。石清水が権威あるものと考えられていたようです。おそらく現代の感覚とはまったく異なっていたのかもしれません。

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