2019年1月16日水曜日

備中七城

 備中七城とは、備前と備中の境にある七城で(境目七城)、防衛ラインに城を配置したもののようです。戦国時代、天下統一を目指す織田信長は、豊臣秀吉に毛利輝元の統治する中国攻めを命ずる。備前の宇喜多直家が最終的に秀吉側についたことから、備前と備中の境界ラインが重要となってきた。
[カラー版]地形と立地から読み解く「戦国の城」、萩原さち子著、マイナビ出版p144からの引用です。この本に図がありますが、似たような図がネットにありましたので、参考にしてください。
備中七城
図の上が北で、右が備前側、城が配置されているのが備中側です。秀吉はこれらの城を攻略していくのですが、備中高松城は攻めあぐね、近くを流れる足守川の流れをせき止め、備中高松城に引き入れて、有名な水攻めを行っています。この時には、本能寺の変が起こり、毛利側との講和をすばやく取りまとめ、これまた有名な中国大返しで、明智光秀を山崎の合戦で討っています。戦国時代にこのような防衛ラインが作られているのですが、ネットの図では左上に鬼ノ城があり、古代からつながりがあり、何かしらのつながりがあったのではと思います(妄想ですが)。
この本には、
尼子十旗(あまごじっき)も紹介されており、戦国時代に出雲を支配した尼子氏が本城の月山富田城の防衛ラインとして支城を配置したとのことです。
「本城と支城、支城と支城の間をスムーズに伝達できるよう、街道に宿駅を配備して、使者や物資を運ぶ交通制度を伝馬《てんま》制(駅伝制)という。いざ戦いが始まれば、迅速に軍事物資をリレー式に送るのが目的だ。伝馬制は古代律令制から戦国大名にも採用され、北条、武田、今川、徳川、上杉氏などが主に用いていた。・・」とも書いてあります。
安田に伝馬制と関係する意味があるのだろうかと思います。

広島県の安田

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