漢字で書けば、「ヤマト」は「山外」で、「カワチ」は「川内」と考えます。山と川、内と外ということです。山と川は地域に合っていてそうであろうと思われます。ヤマトの人が自分から外ということはないので、カワチの人が名づけたと思っていました。しかし、ヤマトの人がこの名づけ方に納得するようには思えません。律令制の時代に国名が、たとえば備前・備中・備後とかになったときに、備後の人が「後」はいやなので備前にしてくれとは言えません。国の中央からの位置関係によって問答無用で決定されます。この時は前後で位置関係を表すのが、古い時代は内と外で表したということです。その時の国の中心がカワチではなく、倭国であった吉備であったということです。
倭国が吉備とおとしめられ、それと対応して、「わ」国を越えた大いなる「わ」としてヤマトに大和の漢字を当てたことが考えられます。時代として、大和とされたのは七世紀のことになります。倭国から和国にスムーズに移ったものと、今まで錯覚していたように思います。古事記や日本書紀はヤマトの正統性を訴えているものですので、七世紀前半までは完全に怪しいことになります。国名からみると、倭国に律令制の兆しがあったことも考えられます。
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