2019年1月25日金曜日

安田の地名と古代道路の根拠

 備後から出雲への安田のあるところを結んだルートの根拠です。
投稿記事:スサノオが出雲に降ったところ
 古代道路と条里制が密接に結びついています。
「古代道路の謎、近江俊秀著、祥伝社」からの引用します。七一頁からです。道路をつなぐ駅路の敷設目的の説明です。
「ここで、注目されるのが、先ほどお話しした、条里制との関係である。条里制とは、耕地を区画するためのものであるため、その施工範囲は当然のことながら、水田を造るのにふさわしい低地である。そして、条里と駅路とが同時に発掘調査で見つかっている静岡平野などでは、条里の地割り方向と駅路がぴっったりと合致している。このことは、条里施工と駅路建設とが強い関連性を持っているだけでなく、駅路は条里制による土地区画の基準線としての役割をはたしていたことがわかるのである。」
とあります。
まず道路を造り、その両側に条里制の田を展開します。条里制を表す名前が安田ですので、出雲への道も安田の地名が連なっていて関連があると思っています。中継ポイントを作ることで、現地での食料調達を可能にし、ある程度の人数の移動を容易にし、軍事的な意味があったと思われます。しかし平安時代の延喜式には山陽道と山陰道が記されのみで、京都が中心の中央集権体制では不要とされたのか、このルートが消えてしまっています。古代道路の原点の地域のようにも思われますが、よくわからない状態になっています。今は都市を考えるときに面的に考えますが、古代では点の感覚であって、結びつけるための線となる道路や海路が重要であったのだと思います。出雲への古代の道を考えるときに、山陰道をイメージするのは間違いの元となります。

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