2018年4月26日木曜日

なぜ、三内丸山遺跡のそばに安田の地名があるのか

 前投稿で、安田=条里制としましたが、言い過ぎでした。
 安田仮説では、安田の名前が岐阜県に多いのはなぜかということから始まっています。これは百済滅亡により、難民が岐阜県にやってきて、そこで条里制の田を開発したことで、そこから安田=条里制となったという仮説です。従って、天智五年(六六六年)以降の話です。条里制が岐阜から始まったのではなくて、すでに条里制はあり、最初の名称は不明ですが、安田となったのは岐阜県での開発以降のことです。
 近畿地方に安田の地名が検索であまり出てこないのも、条里制がすでに施行されていたことが理由になるかもしれません。実際に、安田が用いられるのは七世紀末ぐらいと想定されます。日本書紀では、持統天皇からイメージしたアマテラスの持つ良き田のトップに安田が出てきます。条里制の田を広めるのが当時の国家目標であり、神話の中に取り入れられたと考えられます。日本書紀は八世紀前半の成立ですからこの頃には安田=条里制が確定していたと思われます。

 さて、遺跡のそばに安田ですが、なぜ地名としてつけられたのかということです。それも郡名とかでなく字《あざ》の名としてです。字というものを理解してはいませんが集落的な単位であろうと思います。日本人の名前に「田」のつくものが多いといわれます。これは日本に田が多いからだということですが、大雑把すぎると思います。田の区別をするために、集落を区別する字《あざ》の名的につけられたものが名字につながっていくのだと思います。安田もこの一つだと考えられますが、何らかのその土地の由来による「安」があった所なので安田としたのではなく、中央の勢力が条里制ということを理解してその土地に安田をつけたと考えます。
 三内丸山遺跡も縄文時代から続く栄えたところなのだと思います。その地域に進出してきた律令制度を信奉する勢力が、侵略的か友好的かはわかりませんが、とりあえず、近くに条里制のモデルプラントかパイロットプラントのようなものを作り、そこを安田としたのではと思います。各地域に進出したときにまず最初に作った条里制を安田と呼んだように想像されます。
 阿倍比羅夫や坂上田村麻呂などの蝦夷征伐も兵站の確保とかあるので、大量の人員の移動は古代にあっては難しく、各地に拠点を作っていかないと難しいと思います。登山でいうところのベースキャンプみたいなものを作り、前進基地を進めていくやり方であって、そのような拠点に安田があったのかもしれません。これも想像です。

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