2018年4月28日土曜日

兵庫県の安田

兵庫県の地名Ⅱ、日本歴史地名大系29Ⅱを見ています。

姫路市安田一-四丁目
 船場川の東、三左右衛門堀(外堀川)の間。近世の町名、姫路藩領。古い時代のことは書かれてませんが、南側に三宅というところがあり、ここの説明に、
飾東郡に所属、野田川上流右岸の平坦な沖積平野上に位置し、村内の一部は町場化して三宅町になっている。「播磨国風土記」餝磨郡の条の末尾に「餝磨の屯倉」が見える。同書によると、仁徳天皇の世に意伎《おき》・出雲・因幡・但馬の国造が召喚された際、お召しの使いを水手として京に向かったため罪を得たが、播磨国へ退去して贖罪のために水田を造成し、そこで作った稲を収納する御宅を飾磨の御宅と名付けたという。現姫路市飾磨区三宅が遺称地とされる。
とあります。仁徳天皇の時代というのは問題ですが、条里制の水田が作られた所が安田で、採れた稲を近くの屯倉に収めたとすれば、辻褄があってきます。


多可町中区中安田
 安田郷があったとされる地域、安田は東安田・中安田・西安田と分かれている。多可郡の説明では中区の多可寺廃寺は七世紀後半の建立で巨大な塔心礎が遺存し、平安初期まで続いた寺院で、郡の仏教文化の中心であった。地図では安田川が流れています。安田の記録は、源平の合戦のころで、吾妻鏡文治二年(一一八六)六月九日条に梶原景時が安田庄を領家若狭局から預かったと称して横領していることがあげられ、後白河法皇がこれを糾弾していると書かれています。安田に関する古い史料は無さそうです。


安田村、加古川市尾上町安田
 以前の投稿記事がありますが、角川日本地名大辞典28を少し引用しておきます。
加古川下流左岸に位置し、中央部を別府《べふ》川が流れている。また、播磨の古刹刀田山鶴林寺の追儺式で鬼役を勤めた鬼吉太夫は安田家の者と謡曲「安田吉道」にあるが、地名と関係あるか不明である。・・・
平凡社の方に、天文三年(一五三四)の鶴林寺文書に安田・東安田・中安田・西安田に鶴林寺散田の作人が見える。
とあります。東西がつくなど、多可町と似ています。


篠山市安田
 篠山盆地の東部、籾井川下流域、地名はこの付近で最も耕作しやすいところであることによる(多紀郷土史考)。城山は別名白尾山とも称し、中世籾井氏が拠った城跡がある。安田はこの城の大手口であったという。(角川の方)
 安田の北東にある山に籾井城があったようです。


安田園《やすだのその》・柏原庄 丹波市
 この安田園の成立は平安時代で、条里制とは関係ないようです。
現柏原町の市街地一帯にあった山城石清水八幡宮の所領。平安時代は安田園と呼ばれていた。成立の経緯は延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に示されている。八万大菩薩を安置したにもかかわらず、旧司と寄人が他行し、相伝荘厳する人がなかったため旱魃・病患が絶えなかった.治安三年(一〇二三)八幡大菩薩をないがしろにしたためであるという託宣があり、神殿を建て大切に祀ったところ五穀成熟、郷土安穏となったという。そこで国司が長元八年(一〇三五)作田一〇町と寄人二〇人の臨時雑役を奉免し安田園が成立した。・・・柏原神社を中心に市街地と」その周辺地域に及ぶと推定される。その後、柏原庄となったとのことです。安穏の田ということで安田の名になったとの解釈のようです。この頃には安田の意味がわからなくなってきており、一生懸命にその意味を考えていたような気もします。
 安田園は不明なので、柏原太神宮の場所を見ています。


 兵庫県は安田の地名が多く残っているところでした。しかも海辺や内陸部などあちこちにあります。何となく同時期に開発されていったように思えます。その時代が七世紀後半といって良いのか、仁徳天皇を実際は孝徳天皇と解釈できるのか、興味ある場所ではあります。

(注)鶴林寺
開山は上宮聖徳太子
縁起は、刀田山と号し、古来「刀田の太子様」「播磨の法隆寺」と呼ばれ今日に至る。寺伝によると聖徳太子16歳の時、(589?)、高麗僧の恵便法師が、物部守屋の難から逃れて、当地に隠棲した際、太子が来臨して教えを乞い、秦川勝に下命して一宇を建立しそこに釈迦三尊.四天王を祀り、「四天王聖霊院」と称したのが始まりという。
この部分は、聖徳太子が建国神話なので、伝説的な話と考えられます。
その後、養老二年(718)武蔵国太守大目身ひと部春則が、七堂伽藍を建立、寺領二万五千石を有し、三百坊を擁した。この時寺号を「刀田山四天王寺」とした。
と社寺縁起伝説辞典、戎光祥出版にありました。8世紀の成立がもっともらしく、それ以前に条里制の田が成立したと考えて、整合性があります。

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