2018年4月14日土曜日

三内丸山遺跡と安田の地名

 安田の名字を考えてきましたが、安田という地名も各地にあります。途中で挫折するかもしれませんがまとめていきたいと思います。
 今回は、特別史跡三内丸山(さんないまるやま)遺跡の近くに安田という地名のところがあります。三内丸山は日本最大級の縄文集落跡です。

角川日本地名大辞典からの引用です。
やすた 安田(青森市)
青森平野の中央西部に位置し、西側は大釈迦丘陵の東端にかかる。昭和四八年から同五二年にかけて、近野遺跡(字近野)の発掘調査が実施され、縄文早期~後期から平安期の集落遺跡と確認した。沖館川と三内川合流点の南に広がる標高約20mの低台地にあり、縦穴住居跡・小竪穴などの遺構を検出したほか、多数の各種遺物の出土をみた。縄文中期後半・後期初葉の土器・土製品・石器・石製品で、なかでも土偶は一〇八点にのぼった。中期の竪穴住居跡には長径19.5m、短径7mの長円形の大型もあった。平安期の竪穴住居跡からは土師器・須恵器をはじめ、鋤先・刀子などの鉄製品、木製櫛も出土した。近野遺跡の大半は、現在県立総合運動公園となる。
[近世]安田村 江戸期~明治二二年の村名。津軽郡田舎庄のうち、弘前藩領
[近代]安田 明治二二年~現在の大字名。はじめ大野村

 この地域は、平安時代に条里制の水田が開発され、その時に安田の地名がついたことが考えられます。縄文時代から開けたところに(その近くに)、新たに新方式の水田が開発された可能性があると思います。侵略的に開発されたか、自発的かはわかりませんが、縄文時代から平安期まで継続的に発展していったと思われます。運動公園になって、田の痕跡は残っていないかもしれませんが、平安時代の名残が安田の地名にあると想像します。
 もう一つ青森県には安田だったところがありました。

今は浅井 あさい(五所川原市)
津軽平野北部、岩木川支流十川右岸の平坦地に位置する。
[近世]浅井村 江戸期~明治二二年の村名、津軽郡田舎庄のうち、弘前藩領。当村は宝永元年、開拓された俵元新田八か村のうちの一村。はじめ安田村と称したが、享保一一年に浅井村と改称。

 新田開発が江戸時代なので、条里制から安田がでてきたとはおもわれません、前述の安田村と同じ津軽郡田舎庄なので、誰かが名前を持って移ってきたかもしれません。

 ついでですが、田舎庄の田舎は「いなか」と読むようです。「夷中」ということで蝦夷などの領域の中にこの地域を開発したからとの説もあるようです。

  地図をリンクしました。右下の総合運動公園のあたりが安田の地域です。




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