2021年1月2日土曜日

吉備国成立

 『岡山県の歴史』山川出版社を見ています。本の最初の方ですが、第二章「古代国家の発展と吉備」の二節「律令国家の成立」という47頁からです。著者は、大化改新詔に畿内国とかあるが、国の体制が出来ていないと考えているように思われます。

吉備地域の「国」制に関する『日本書紀』『続日本紀の記事を抽出すると次のようになる。

年月記事
(1)天武天皇元年六月吉備国守当摩公(たぎまのきみ)広島
(2)天武天皇二年三月備後国司白雉(しろきぎし)献上
(3)天武天皇八年三月吉備大宰(おおみこともち)石川王没
(4)天武天皇十一年七月吉備国言(もうす)、五穀不登(みのらず)
(5)文武天皇元年閏十二月播磨・備前・備中以下五国飢

(2)の記事を見ると、吉備の分国はいかにも進んでいるようにみえるが、(4)にはまだ吉備国とある。(5)以降は吉備国のような表現はみられらくなるから問題はない。・・・

非常にわかりやすいように表になっています。吉備が国として組み込まれるのは(4)から(5)にかけてかなと思えてきます。(3)に「吉備大宰」についても詳細にあります。引用では端折りますが、

大宰がおかれたのは吉備と筑紫に限られ、・・この地域は天智朝に古代山城がきずかれた場所であることも想起したい。

 鬼ノ城のことだと思いますが、ヤマトの戦略拠点としての城とは考えにくいと思います。現代で言えば、東京の防衛拠点を北海道とかに作ることは考えにくいです。重要拠点の近くに防衛拠点が作られるはずです。つまり鬼ノ城の近くに重要拠点があり、さらに防衛拠点を作るだけの経済力をその地域が持ってないたことになります。何をいいたいかというと、吉備国が自己防衛のため(ヤマトとかを考えず)に長期戦を覚悟して、鬼ノ城を作ったと考えることができるのではということです。それぞれの地域の自立性があって(統一された日本はまだ無くて)、それが文武天皇の時代までなにかしら続いていた、と考えられます。 この本では

吉備において分国が完成をみるのは、天武天皇十二年(六八三)十二月から同十四年十月にかけて、全国的に実施された国境の確定作業を待ってであろう。そして最終的に分国が実現するのは、持統天皇三年の浄御原令の施行後であったと見られる。

と書いてます。

奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土した木簡に、「吉備道中国加夜評/葦守里俵□」、読みは「きびのみちのなかつくにかやのこおり/あしもりのさと」で備中国を「吉備道中国」と表記している。七世紀末にある時期に行政区画の「ーー道」があった。・・『日本書紀』ではこのことをうかがわせる記事は一切無い。・・天智・天武朝の短い期間であったとみられる。・・・

とのことです。以上、個人的なメモ書きですが、この時代、天武天皇は何をしていたのかは隠されていて、妄想力に頼るしかないかもしれません。

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