2021年1月23日土曜日

五十音図

 五十音図についても、『百人一首の図像学』、岡林みどり著、批評社に書かれています。62頁あたり。

契沖の著作「万葉代匠記」には水戸光圀の後ろ盾があるとされて影響力が強かった。そして契沖にはもう一つの著作がある。これは5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保も帰依を受けて湯島に広大な寺領を拝領した浄厳という真言僧の『悉曇三密抄』を下敷きにして『和字正濫鈔』によってかな文字の50音図を公刊してしまったのである。これにより平安時代に貴族が創出したと信じられてきた「かな文字」が悉曇文字とその理論を下敷きにした体系であることを宣言してしまったわけである。具体的には各行の頭に「加、左、太、奈、波、末、也、良、和」という字をおき、その下に「人、宇、工、袁」を母音の代わりに加えた合成字で50音図を作った。これを英文字の子音と母音に置き換えればそのまま「オ・ヲ」を除いて現在の「訓令ローマ字」へ一括変換できる画期的なものだった。

五十音図の表がこの本に載ってますが、活字化されています。引用は『五十音図の話:馬淵和夫』よりとあります。表をコピーするのはどうかと思いますので、

和字正濫鈔』巻一の19頁にあります。これをスラスラ読めるようになりたいものです。

『五十音図の話』ですが、五十音図の起源を「悉曇起源説」と「漢字音韻学起源説」の両説を立てるとよいとあります。後者の説を理解できてないのですが、岡林みどり氏のように言い切って良いのではと思います。 『五十音図の話』に浄厳と契沖のことが書いてます。

契沖は十三歳より十年間高野山で修学しているからその学問は高野山の仏教学であった。中でも言語については仏教言語学である悉曇学を学んでおり、ことに当時、真言宗第一の学者であった浄厳と深い交流があったという。契沖と浄厳とは出生に一年の差しかなく(浄厳が前)、没年も一年の差しかない(浄厳が後)し、浄厳は十歳より三十三歳まで高野山で修行し、契沖は十三歳より二十三歳まで高野山で修行しているから、大体同時代に高野山に居たことになるが、供に年若く、学問上師資の関係にあったとは思われない。・・・

 仏教が律令体制以降に大きく貢献しているはずなのに、何かしら明治以降に江戸時代や仏教を過小評価している影響が残っているようにも感じます。大雑把な理解ですが、お坊さん達が梵字や漢字の仏典を読むために必死になって「かな」を使い、それが広まっていったと考えても良さそうです。

簡単には分かりそうにはないので、「五十音」も後回しです。

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