「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」という番組で一乗谷が取上げられていました。北陸道と美濃路の交通の要衝のようなところに一乗谷が位置するようです。太平洋側の尾張、美濃、一乗谷、三国湊で日本海側につながるとの話から、ひょっとして大海人皇子と出雲のつながりが、壬申の乱の時の美濃に存在したときにあったのかもしれないという気がしてきました。古代にもこのルートが成立していた可能性大です。浜松市に井伊直虎の墓があるという龍潭寺(りょうたんじ)がありますが、その引佐町(いなさちょう)にある渭伊神社の社殿後背の薬師山山頂には磐座祭祀遺跡である天白磐座遺跡(静岡県指定史跡「渭伊神社境内遺跡」)があります。 町名の「いなさ」ですが、出雲の稲佐の浜(いなさのはま)が頭に浮かびます。ここは「八百万の神々をお迎えする、神迎え神事の浜」とのことです。引佐町の磐座にこの地方の神様が集合して、ここから出雲へ旅立つ出発地のイメージです。古代の神様は美濃路を通り、日本海側を海路で進まれたと想像されます。大海人皇子も美濃にいる時、このコースで出雲とつながったのかもしれません。 愛知県津島市に津島神社(つしまじんじゃ)があります。尾張津島天王祭で有名なところです。
社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。(ウィキペディアより)
対馬→津島とのことで、広域なつながりですが、須佐之男命=天武天皇とすれば、こちらのルートもあり得ます。荒唐無稽な話ではありますが、出雲と大海人皇子のつながりを暗示しています。
東海地方を拠点とした織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を重要視して、関係の深い神社として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋の木瓜紋は津島神社神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、厚く保護した。(津島神社、ウィキペディア)
織田信長の四国の長宗我部とのつながりも津島神社との関係から発展したのかもしれません。大海人皇子と出雲のつながりも太平洋側の海路により繋がりを持った可能性もないとはいえません。古い時代から海上交通があったはずだとの妄想に近い話ではあります。
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