2021年1月26日火曜日

後醍醐天皇と天武天皇

  天武天皇のことがよくわかりませんが、後醍醐天皇から考えることができるのではと思いました。 後醍醐天皇についてはウィキペディアに丁寧な説明があります。

大覚寺統の天皇。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り[2]、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。

 南北朝の時代ですが、後醍醐天皇、南北朝時代の項に

廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した。宝算52(満50歳没)。

とあります。吉野は山の中ですが、東西に移動できる交通の要衝であり、五十年以上存続しています。吉野朝廷といいますが、スケール的には朝廷といえるのかと思います。コンパクトな政権に感じます。各地域に自分の皇子を派遣しますが、地方分権的なもので、中央の吉野は簡素な行宮であっても成立したように思われます。

懐良親王(かねよししんのう[注釈 1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。外交上は明の日本国王として良懐(りょうかい)を名乗った。(ウィキペディアより)

 独立した地方の国家のおもむきがあります。九州は薩摩から始まりますが、これもおそらく太平洋航路で吉野とつながっていたと思います。 これからの類推ですが、天武天皇も吉野に宮をおいたのも同様で、各地域に使者を送って同盟関係を各地に求めていたことが考えられます。天武八年に吉備の石川王が吉備で薨じたとの記述があります。それまでは吉備のことが出ていないように見えます。それまでに筑紫は出てきますが、太平洋側からの航路を使っていた可能性があります。国内の記事があまり出てきません。書紀では国内統一された様相ですが、天武天皇はこの時代、国内統一過程にあったように見えます。天武天皇十二年、天武天皇は

「およそ都城・宮殿は一ヵ所でなく、必ず2・3ヵ所造るものである。そのためまず難波に都を造ろうと思う。そこで百官のものは、それぞれ難波に行って、宅地をもらい受けよ」と仰せられた。(『日本書紀➂』、新編日本古典文学全集4,小学館)

 この時期には統一の目処がたった時期として書紀は描いています。天武天皇は壬申の乱にて新時代が始まったように思われますが、吉野にある程度の期間(南北朝の五十年ほどではないですが)いて、統一に邁進していた時期ではなかろうかということです。飛鳥浄御原宮が前期難波宮に較べて劣っているように見えるのも納得できます。

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