三関ですが、ウィキペディアでは
当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の三つを指した。
壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が初動で不破道を塞ぎ、優位に立ったことが知られている
とあります。 場所を見ていると、どうも近江国、つまり近江朝廷を包囲しているように思えます。近江側から各地への援軍要請を遮断しているようです。不破の関は東国への援軍要請を遮断する意味があります。愛発関は今まで考えていませんでしたが、近江から出雲へ援軍を頼むときに、敦賀とかの日本海側に出る必要があります。そのルートを遮断して、大海人皇子が先回りして出雲と同盟関係を築いたということになります。壬申の乱の戦域を近江国付近に限定させたのも大海人皇子の作戦だったかもしれません。突発的に起こったような日本書紀の壬申の乱の記述ですが、周到に準備されていた可能性もあると思います。
不破の関の役割 三関のうち、現在までにその遺構が検出されているのは、不破の関のみである。一九七四年からの五次にわたって行なわれた調査において、八世紀の不破の関の形状が、ある程度明らかになった。それは、藤古川に面した急峻な斜面を西に控え、東・北・南の三方を土塁で囲み、その中央に、役所かと推定される掘建て柱の建物がいくつか並ぶというい状況である。東山道に対して美濃側に関の中枢施設を設けていたものと思われる。(『名古屋・岐阜と中山道』街道の日本史29、吉川弘文館発行)
これは大海人皇子の当時も同様で、他の関も同じく近江側を向いていたと考えて良さそうです。壬申の乱以後も近江の反乱をおそれて三関が維持されたように思えます。
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