2021年1月3日日曜日

聖徳太子=孝徳天皇?

 今年は聖徳太子の一四〇〇年忌にあたるということが、日経新聞元旦第四部の記事にありました。仁徳天皇=孝徳天皇から「徳」つながりでの発想です。以下日経記事から取り込んでいます。

聖徳太子は死後につけられた諡(おくりな)だ。日本書紀などには様々な名前で登場する。厩戸皇子、豊聡耳法大王、上宮太子ーー。

聖徳太子関連年表
574年誕生、厩戸の前で急に産気づいて生まれ、その地に建てられたのが橘寺
585年父、用明天皇が即位
587年用明天皇死去 蘇我馬子らが物部守屋を滅ぼす、太子も従軍
592年馬子が崇峻天皇を暗殺 推古天皇が豊浦宮で即位
593年皇太子となる 四天王寺の建立開始
600年遣隋使を派遣
603年推古天皇、小墾田宮へ遷る(雷丘東方遺跡に「小治田宮」と墨書した木簡が出土したという) 冠位十二階を制定
604年十七条憲法を作る
605年斑鳩に移る 太子道を黒駒にまたがって通ったと伝わる
607年斑鳩寺(法隆寺)を建立、遣隋使に小野妹子らを派遣
622年妃の膳部大郎女と相前後して死去 墓は叡福寺北古墳(宮内庁がの治定)
643年太子の子・山背大兄王を蘇我入鹿が攻め、一族滅亡
670年斑鳩寺全焼

 年表を見て孝徳天皇と結びつくのは四天王寺です。前期難波宮の南に四天王寺が位置し、飛鳥の北西に法隆寺が位置しています。しかも現法隆寺の前の若草伽藍は配置が四天王寺と似ているようです。四天王寺は聖武天皇や光明皇后の時に整備されたので変化してるかもしれませんが、後期難波宮も前期のものを尊重しているようです。寺院配置は創建した人の考えが反映され、この時代もいろんな形式が乱立するようですが、孝徳天皇の関与するものと考えると納得できます。

大阪と奈良を結ぶ道はいくつかのルートあったが、それら諸道のなかでも両地域を最短距離で結ぶ街道が奈良街道と 呼ばれた。この街道には竜田道(竜田越)と暗越の二ルートがあった。竜田道は、古代に平城京と難波宮を結ぶ主要道であった。この道は、天王寺から大和川の旧河道沿いに植松(現八尾市)・柏原(現柏原市)と東行し、大和川亀ノ瀬の北岸の竜田山を抜けて大和に入り、法隆寺(現生駒郡斑鳩町)・大和郡山(現大和郡山市)を通って奈良に至るルートである。

もうひとつのルートである暗越は、竜田道の北側を通るルートである。・・・近世には大和郡山藩主の脇往還として利用された・・・

竹内街道 この街道は、和泉・河内と大和南部を結ぶ幹線道であり、河内と大和の国境の竹内峠を越える道である。古代国家の手によって設定された「丹比道」と呼ばれる難波と飛鳥を結ぶ官道の後身と考えられ、近世以後、「竹内街道」と呼ばれるようになった。 『街道の日本史33 大阪』、今井修平・村田路人編、吉川弘文館、2006年七月 の抜書き

 法隆寺は竜田道にあり、難波宮の影響が強く出た場所にあります。古代のルートと考えられる竹内街道ルートに近いところに法隆寺があったはずですがそうではありません。孝徳天皇との結びつきを感じます。643年に山背大兄王一族滅亡の時に法隆寺も焼失すれば良いわけで、理由不明ですが、670年に焼失は孝徳天皇の時代に近く、何らかの意味があるはずです。今はわかりませんが。 聖徳太子に関連して、兵庫県揖保郡太子町に鵤寺があります。 太子町ホームページの斑鳩寺のところに

1,400有余年前の推古天皇の時代、聖徳太子が勝鬘経、法華経などを天皇に講じられ、これに深く感動された天皇より播磨国の水田を賜り、太子はこれを仏法興隆のため法隆寺に寄進されました。( 『日本書紀』によると、寄進の時期は推古14年(606年)7月、水田の規模は100町、『聖徳太子伝記』では同じく、太子44歳御時、360町とある。諸文献に諸表記がある) 後の平安時代に、この地は法隆寺の荘園「法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)」へと発展し、その中心に荘園経営の中核的存在として、政所とともに斑鳩寺が建立されました。 この創建以後、鵤の地はながく、この地方の太子信仰の中心としても栄え、播磨の国の中における特異な文化興隆地域を形成することになりました。

とあります。播磨国にどうして法隆寺の荘園があるのかですが、孝徳天皇の時代に寄進があったとすれば、難波宮の位置から瀬戸内海の制海権があり、誰かの土地をかってに寄進すれば問題になりますが、播磨地域の新田開発により新たに生まれたところを寄進することが出来たのではと思います。法隆寺と播磨ですが、この往来も海上を利用したはずで、難波宮の存在があって可能になったと考えられます。

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