『熊本のトリセツ』 昭文社 (2021/10/8)は熊本県のことがいろいろ書かれています。古代に重要な地域であったことがわかります。
関連する部分のメモ書きです。
[熊本発の土器「曽畑式土器」がなぜ沖縄や韓国で発見されるのか?]
曽畑式土器(そばたしき)の説明があります。
曽畑式土器の文化圏を見ると、韓国や沖縄まで分布しています。中心は鹿児島県や熊本県にあるように見えます。
『熊本のトリセツ』では熊本愛の本なので、
曽畑貝塚を残した人々は、曽畑式土器の文化を創り上げると同時に、航海術を発展させて、はるか南方の沖縄まで到達するようになっていたのだろう。曽畑人は朝鮮半島から沖縄に至る長大なルートを自由に往来して、曽畑式土器の技術を伝えていたのである。
とあります。ギリシャ文明の発展は地中海に意味があったということで、倭国=吉備説では瀬戸内海が重要であったと考えてますが、有明海・八代海はやはり内海で、熊本県の地域に文明が発達していてもおかしくないと言う気がしてきます。海上交通が古代には重要であったということです。
[弥生時代の熊本は、鉄器製造の一大産地だった?]
『熊本のトリセツ』の70ページの図がわかりやすいです。『弥生時代鉄器総覧』ベースで作成されていますが、1位の熊本県が1607点、2位の福岡県が1445点で、他の地域よりはるかに多いとのことです。中国大陸から鉄器がもたらされたようですが、
弥生時代の熊本県はかなり早い時期から、日本有数の鉄器の生産地であり、最先端技術を誇る職人集団がいたのではないかとされている。
この地で鉄器の生産が発達したのは、周囲の阿蘇黄土から、鉄の原料となる褐鉄鉱(リモナイト)が産出したためと考えられている。人々はこれを元に赤色顔料であるベンガラを生成、他の地域と交易したこともわかっており、それらの地域では、褐鉄鉱を原料として鉄精錬が行われていた可能性も高いと指摘されている。
吉備の地域に、岡山県総社市西阿曽で、古代たたら製鉄の話があります。この地名の「アソ」が関係ありそうで、熊本→岡山と伝わってきたように思えます。
[熊本を中心に、装飾古墳群をつくったのはだれだったのか?]
装飾古墳とは、内部の壁や石棺に浮き彫りや線刻、彩色などの装飾ある古墳のことで、4世紀末頃から7世紀ころまで造られており、全国に約700基、熊本県内では約200基がある。・・・
山陰地方や関東地方にも部分的に分布しているが、それらは九州から伝播していったと考えられている。しかしなぜか、古墳が集中している奈良を中心とした近畿地方では極端に数が少なくなる。古墳時代後期に、熊本を中心とした地域に、いわゆるヤマト政権の文化とは異なる独自の文化圏が存在し、一定の勢力を有していたと考えられるのはそのためだ。・・・
火の国が倭国である吉備と連携して、ヤマトと対抗していたことにつながってきます。そのため、律令体制になり、肥前肥後の国は冷遇されていたように個人的に思えます。 いれずみ(黥面)のことがあるかもしれません。
[丘陵に建つ山城・菊智城は何のために築かれたのか?]
大野城(福岡県)や基肄城(佐賀県)に武器・食料を補給するための支援基地だったとされる。
白村江の戦いの時にはまだ日本は統一されてはおらず、地域連合的な集合体であって、菊智城はあくまでも、肥国を防衛するための城のように思えます。
[阿蘇神社と浜の館に見る阿蘇氏の栄枯盛衰の歴史とは]
阿蘇市にある阿蘇神社は、全国に約500社ある阿蘇神社の総本社であり、肥後国一の宮として人々の心の支えとなっている。その歴史は、健磐龍命の子である速瓶玉命が、紀元前282(孝霊天皇9)年に、両親を祀ったのに始まるとされる。つまりヤマト政権の全国統一以前にまで遡るのだ。・・・
古代から中世まで続いているようです。
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