『日本書紀』欽明天皇のところに、百済との交渉に河内とか吉備の名が出てきます。それからの発想です。 天武天皇の後継者として、草壁皇子と大津皇子が出てきます。母は、鸕野讃良皇女(持統天皇)、大田皇女ですが、ともに、父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘といい、姉と妹の関係です。母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂であるのがあやしいところです。
第41代天皇である持統天皇は、四條畷とかかわりの深い天皇でした。天皇は名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。このうち「讃良」は、四條畷市全域と寝屋川市・大東市の各一部を含む古代「讃良(さらら)郡」の地名からとられたものです。また、「鸕野」も、『日本書紀』によれば讃良郡の中にある地名として「鸕鷀野邑(うののさと)」が出てきます。この地名は、市内の清滝にあった古代寺院正法寺にのちにつけられた山号が「小野山(おのさん)」であることなどから、現在の四條畷市域の一部を指すのではないかといわれています。
このように地名を皇族の名に使う場合、その地で生まれ育ったか、領地をもっていたか、その地出身の豪族から乳母が出たためその豪族に養育されたといった理由が考えられると言います。いずれにしても、持統天皇の名には四條畷市域のこととみられる地名が使われており、四條畷とゆかりの深い天皇だったと言えるでしょう。四條畷市のホームページより
持統天皇には河内との結びつきがあります。一方、大田皇女ですが、大伯皇女も産んでいます。大伯は岡山県です。吉備とのつながりを感じます。天武天皇をモデルとした雄略天皇(私の想像)の後継者の清寧天皇(大津皇子と想像)の時の後継者争いで、吉備が出てきます。天武天皇の後継者問題で地域間の対立があり、これを反映していると考えられます。『日本書紀』は地域間の対立を隠したかったので(おそらく万世一系の天皇にそぐわないので)、鸕野讃良皇女と大田皇女を姉妹としたと妄想します。そこに、架空の蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智娘を持ち出したということに思えます。乙巳の変はまったくの空想物語であったということとつながります。
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