『日本書紀』 欽明天皇、十三年十月に仏教公伝の記事が出てきます。百済などの百済などの朝鮮半島の話が続く中での一つの話として出てきます。百済や任那の正当性を主張するところの中にあります。主張は、誰に対してかといえば唐に対するものになります。日本書紀の記述された時代に、唐では仏教が盛んであったはずで、合理的な主張であることを示すためのエピソードのように思われます。
天皇は蘇我稲目に仏像を預け、礼拝させてが、疫病などが起こったので、物部尾輿・中臣鎌子の反対で、役人に難波の堀江に流し棄て、また寺に火をつけた。寺は全焼して何も残らなかった。その時、天に風雲もないのに、突然大殿に火災が起こった。(『日本書紀②』、新編日本古典文学全集3,1999年、小学館)
とあります。神仏の争いまで記述されています。これは、大宝律令の神祇官などの役職があるように、神道体制から、聖武天皇の国家仏教に移行する時代に、『日本書紀』が編纂されているので、神仏論争が実際にあって、これを反映していると思います。
また公伝ですが、私的な物でも十分のように思われますが、実際に仏教公伝的なことが、鑑真が来日して行われています。『日本書紀』でも、時代はずれていますが、意識されていて、欽明天皇のところに入れられたのかもしれません。
鑑真の記述です。
天平勝宝5年12月26日大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。(ウィキペディア、鑑真より)
『日本書紀』では、このあたり、百済・任那の記事が多いです。私は、朝鮮半島南部は日本の範囲外の感覚を持っていましたが、書紀では、日本の中に朝鮮半島南部が含まれていたことを執念を持って記述しているように感じます。唐・新羅に敗れたもののあきらめてはいないようで、唐・新羅が対立により、唐と連合することも考えていたかもしれません。書紀の執着具合から、白村江の戦い以前に、実際に倭国が朝鮮半島に何らかの権益を持っていたこともありえたと思えます。
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