2023年3月1日水曜日

論語と千字文の伝来

 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10)の感想です。

65頁に「百済から伝わった『論語』」が書かれています。

仮名が漢字の影響を受けて創られたと同様、我が国の文化は中国の文化を大きく受けて形成された。

なかでも中国の南北朝時代に南方にあった梁という国は、ようやく国としての統一ができて国家の基盤を創り上げようとしていた日本に大きな影響を与えたのではないかと考えられる。

伝説的な話として、『古事記』と『日本書紀』には、応神天皇の十五(二八五)年、百済の王仁が我が国に『論語』と『千字文』を伝えたと記されている。

『千字文』が梁の周興嗣(470年~521年)によって作られたところからしても、伝来の年号が日本の歴史を古く遡らせてあることは明らかであろう。

『日本書紀』などの記述はおかしいわけで、年代だけでなく、百済というのもおかしいと思われます。つまり、梁から直接に伝来したのではなく、朝鮮半島経由とした理由があるはずです。おそらく唐に慮ることがあるのか、朝鮮半島との結びつきを強調したいのかだと想像します。

またここに記される『論語』も同じく梁の学者、皇侃が著した『論語義疏』を指すものと考えられる。

また、67頁の「『玉篇』という字書」にも梁のことが書かれています。読みは(ぎょくへん、ごくへん)とのことです。

梁の時代には、顧野王《こやおう》(五一九~五八一)によって画期的な『玉篇』という字書が作られた。「玉」は「霊」を意味する。つまり、漢字を「霊」として、「存在」と一対一対応するものという考えで、漢字を並べ字書としたものである。

そして、『玉篇』という名称は、これ以来、「字書」の代名詞として、我が国では明治時代まで、朝鮮半島では今日まで使われている。 ーーー 途中省略 ーーー はたして、『玉篇』は、我が国で八三三年に編纂された『令義解』や八六八年頃に編纂された養老令の注釈書である『令集解』など「令」の解釈に使われている他、永観二(九八四)年に朝廷に献上された平安時代の医学書である『医心方』、その他の仏教の経典などに夥しい引用がされている。

つまり、奈良時代から平安時代の人々は、我々が『広辞苑』などの辞書を使うと同じように『玉篇』を使っていたのである。

少し、飛んで、69頁には、「文は『文選』」とあります。

さて、梁の時代に作られた『玉篇』『千字文』の両書が我が国に漢字を教える重要な書物であるとしたら、『論語』は、孔子という聖人が人のあり方を教えるものとして我が国に伝わった。 そして『千字文』や『玉篇』が言葉を教え、『論語』が人倫の理想を伝えるとするなら、それを利用して思いを伝える文学の書物も、梁には作られた。 梁の武帝の長子であった昭明太子、名を蕭統《しょうとう》(五〇一~五三一)が編纂した『文選《もんぜん》』である。

ーーー 途中省略 ーーー

そして、我が国では平城宮跡、秋田市秋田城跡などから『文選』を写した八世紀頃の木簡が発見されている。また、『日本書紀』や『万葉集』には『文選』を利用して書かれた部分が相当あり、平安時代には『枕草子』に「文は『文選』」と訳され、文学の教養を身につけるための書物として重要な役割を果たしていたことが知られるのである。

梁の影響の大きいことが述べられています。いろんな文物を朝鮮半島経由と考えて良いのかと感じます。

また、このあとの70頁には、「皇帝菩薩」と呼ばれた武帝として

以上のように後世に大きな影響を与えた書物を作った梁は、中国の南方(現在の上海から南京)の肥沃な大地を背景に発達した国であった。 『三国志』で知られる中国三国時代に、孫権が長江流域に建てた国は「呉(二二二~二八〇)」と称され、都は現在の南京に当たる建業であったが、梁は、ほぼこの「呉」の国をそのまま版図にした国である。 中国西北の長安を中心とした「漢」に対して、この地方は「呉」と呼ばれ、方言も、それぞれ「漢音」「呉音」と異なっていた。ーーー 以下省略 ーーー

仏教の発展に寄与したのが武帝とのことです。

梁の武帝は、仏教を信仰して中央集権化による国家体制を確立することに努めた聖徳太子にも大きな影響を与えているのである。

と書いてます。理想の人物として『日本書紀』にモデルとして取り入れられたということだと思います。

武帝の時代は、ウィキペディアでは(502年5月1日 - 549年6月12日)となっていて、時代的にもあってきます。

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