『ローマ文化王国ー新羅』の可能性がありますが、
新羅のトンボ玉のことがあり、 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19) を借りてきました。
後半に新羅のガラス器のことがあります。214頁から
中国大陸全体が動乱の時代であったこの魏晋南北朝と同じ頃、朝鮮半島では三国が鼎立する初期国家時代、三国時代(四世紀頃~六六八年)を迎えていた。この三国時代の古墳から多数の西方製ガラス器が副葬品として出土している(表8)。大半が新羅《しんら》の都である慶尚北道慶州とその周辺の古墳から出土しており、高句麗《こうくり》・百済《くだら》の墓からいまだ出土していない。出土した慶州の古墳は王陵と王族の墓がほとんどで、五世紀後半頃から六世紀前半までに築かれた積石木槨墓《つみいしもっかくぼ》であった。王陵の皇南大塚南墳北墳から出土した一二点をはじめ、約一〇基の古墳から二〇点強のガラス器が出土した(図59)。
図や表は省略してます。少し飛ばします。
新羅の古墳から出土した文様を持つガラス器は、皇南大塚北墳出土の円形切子杯(ササンガラス器)以外は、その器形と類例から後期ローマンガラスであると考えられている。多数の類型品がユーラシア各地から出土しており、特に黒海沿岸、南ロシア、カフカスといった地域に出土が多い(由水一九九二b)。
これまでは東地中海地中海、またはライン川流域などで作られたローマンガラスがこの地まで運ばれたと考えられていた。が近年行われたこれらガラス器の化学分析から、皇南大塚南墳出土ガラス器が中央アジアにおける製作の可能性が浮かび上がってきたのである(谷一・工藤二〇一一)。とはいえ器形は明らかに後期ローマンガラスの形式を継いでいる。このため、ローマンガラスの工房の工人が中央アジアに移住して製作を行ったのか、といった疑問も生じる。中央アジアのガラス製作の詳細は不明であり、謎が深くなるばかりである。
続いて、ガラス器の搬入ルートです。
この新羅の五~六世紀半ばの古墳からは、ガラス器以外にも西方系の遺物が多数出土している。ーーー例については省略ーーー
新羅自体はその馬具や金製装身具などからも北方遊牧騎馬集団との密接なつながりがあると考えられており、これらガラス器や搬入金製品も北方遊牧騎馬集団とのつながりの中でもたらされたと考えられるものである。ーーー省略ーーー
当時ガラス器だけでなく多数の西方の文物が、草原ルートで新羅にもたらされたと考えられている。またオアシスルートで中央アジアに入ってのち、天山山脈近辺で北上し草原ルートに合流するルートも考えられよう。中央アジアで製作されたガラス器ならば、製作地の場所次第でどちらのルートを通ったか明らかだろう。
シルクロードのことは、最初の3頁にあります。 地図があるので見れば良いのですが、 オアシスルートは、中央アジアのオアシス都市を結ぶルートです。海上ルートは船を使うルートです。草原ルートは一応文章を写します。
草原(ステップ)ルートは黒海沿岸を起点とし、南ロシアの草原地帯からカザフ高原、アルタイ山麓、モンゴル高原を経て中国の北方長城地帯に至り、平城《へいじょう》(現在の大同)に達するルートである。ユーラシアの大草原(ステップ)地帯を通るため、この名が付いている。
これらのルートは組み合わせて使われる場合もあるとのことです。
シルクロードの先はどうなってるか、新羅の朝鮮半島にどのように入ってきたか、草原ルートから中国には入らず高句麗をへてもたらされた可能性も十分にあるとのことです。 ただ、金官伽耶の遺物に鮮卑族とのつながりがあり、北朝の鮮卑族を経由した可能性もあるとのことです。
ようやくトンボ玉の話になります。トンボ玉は装飾珠と表記されています。三国時代の装飾珠について、219頁です。
この他、西方製ガラス製品として装飾珠が出土している。その数量は多くない。最も興味深い装飾珠は、慶州の味趨《みすう》王陵地区C地区4号墳(五~六世紀)から出土したものだろう。王とみられる被葬者がつけていた首飾りの珠類の一点として出土した。直径一・八㌢のガラス珠は、紺色ガラス地に白い鳥・人面・花の枝などが文様として象嵌されている。この珠は黒海沿岸や、地中海周辺における製作などが想定されるものである。ガラス器と同様、ローマ文化圏で製作された珠が新羅に伝来したものだろう。アジアではこのような文様を持つモザイク珠は日本の香川県多度津町盛土山古墳(五世紀)や、ジャワ島(六世紀)で出土している。この他、縞文の珠が、百済の忠清南道公州市武寧王陵や南西部の墳墓、慶州の古墳などから一〇点ほど出土している(古代歴史文化協議会編二〇一八)。縞文の中でも雁木文の珠の類例は広くアジア各地でも出土しており、日本の福岡県こうしんのう塚古墳(六世紀)や、ベトナムのオケオ遺跡などから出土している。特に雁木文の珠は西方製だけでなく、南海製の可能性も考えられる。
これらの装飾珠は東南アジアから出土していることから、海上ルートでも伝来も考えられている。しかし人面装飾のあるモザイク珠は、ガラス器などとともに草原ルートを経て新羅へもたらされた可能性が高いのではないだろうか。
ーーー新羅では六世紀半ば以降に出土しなくなった話になりますが、省略ーーー
これからの調査研究になりますが、トンボ玉も海上ルートの可能性もありそうです。
しかし、この本では草原ルートのことが詳しく述べられています。熟読していないので、ミスってるかもしれませんが、80頁には
紀元前三世紀を過ぎると強大な国家が登場する。西方社会の巨大化していく国家がローマであり、東方のそれが漢えある。さらにその頃、中央アジアにおいても遊牧騎馬民族を出自とする巨大国家パルティアが登場、北方草原地帯には遊牧騎馬民族国家匈奴が登場し、ユーラシア全体のつながりとシルクロードの発達の上で重要な役を演じる。
パルティアのところは省略します。
さらにユーラシアの北方草原地帯には強力な騎馬遊牧集団である匈奴がその勢力を広げていた。匈奴はモンゴル高原を本拠地とする遊牧騎馬集団で、中央アジアの草原ステップ地帯を強力な政治力ではじめて統括した。前二〇九年には冒頓単于《ぼくとつぜんう》によって統一され、オアシス諸国家を抑えた匈奴は強大な勢力となった。ユーラシアのハイウェイである草原ルートとオアシスルートの双方を抑え、東西交渉にまさに大きな役割を担ったのである。
匈奴を中華思想の影響で蛮族という偏見を持っていました。ウラル・アルタイ語族とか軽視してましたが、間違ってたと思います。
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