安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2015年10月18日日曜日
常陸国
なっていました。常陸国は今の茨城県です。飛び地であるとしていましたが、知識が増えて
きましたので、現時点のメモ書きとしてアップします。
常陸風土記とは、ウィキペディアによれば、奈良時代初期の官選の地誌とされていて、その
写本が5つ残っていてその一つです。この風土記の編者は、当時常陸守であった藤原宇合が
有力とされています。出だしの常陸国総記の中に
・・難波長柄豊崎大宮臨軒天皇(注で孝徳天皇)の時代に、高向臣・中臣幡織田連らを遣わ
して、坂(前の方の相模の足柄岳の坂か?)より東の国を総領めしめき(注で東国の八国を
統治)。・・・
とあり、彼は後期難波宮造営の責任者で、孝徳天皇を意識していてそうかもしれないと私は
思いました(弱い理由ですが)。納得いく説明は
「常陸国風土記」の世界-古代史を読み解く101話-、井上辰雄著、雄山閣の第100話
にあります。
常陸国は藤原氏とつながりが強いようで、藤原氏の氏神を祀る奈良の春日大社は、・・768年
(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた
天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている
(ウィキペディア春日大社より)となっています。常陸国を藤原氏が注目していたのだと思います。
さて鹿島神宮の武甕槌命が春日大社に白鹿に乗ってこられたとのことですが、どのような交
通手段であろうかと思います。もちろんイメージの話です。私は海上ルートではと想像します。鹿島神宮の位置は東が海で、名前の通りヒタチ(日立)を見ることができます。これはアマテラスを皇祖神とする伊勢神宮と同じパターンで伊勢神宮-熱田神宮-鹿島神宮が海上ルートでつながるような気がします。東海道というものがあります。今は電車が走っている地域を思ってしまいますが元々の意味は東の海の道のはずです。飛び地であっても船を使えば移動は問題無いように考えられます。
あと、常陸風土記を詳しく見てないですが、侵略的な雰囲気を感じます。
古老の話のスタイルになっていますが、倭武天皇の話などそれほど古い話ではないのではな
いかとも思います。地名の話なども中央からの目線を感じます。
藤原氏などの律令制を採用した中央集権的な体制の大和の勢力が、前方後円墳の文化を持つ
、地方分権的な共同体組織であった地域を制圧していく過程が風土記にあらわれているような気がします。防人も捕虜的な扱いであったことにつながるはずです。
七世紀から八世紀にかけて劇的な変化が起こっていて、この前後の時間的な関係がシビアで
あることは認識しました。今は妄想段階で、どうなるかわかりませんが、現段階のメモとして残します。
参考:常陸国風土記
編著者:沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉
2020年11月22日日曜日
辛國《カラクニノ》神社
御野国味蜂間郡春部里戸籍の続きの話です。
人名の辛国ですが(辛國だったかもしれない)、神社に辛國神社というのがあるのを見つけました。藤井寺市藤井寺一丁目一九ー一四にあり、旧表示は堺県河内国丹南郡岡村春日山となっています。この話は『式内社調査報告第四巻 京・畿内4』を見てのもので、出来るだけ旧漢字にあわすつもりですが、読みの間違いの可能性もあります。春日山は、古市郡の高屋城主畠山氏が大和の春日明神を勧請してからと伝えられているそうです。さて辛国の由来ですが、この本では
この辛國とは、四世紀ごろの大和朝廷の初め、朝鮮半島南部にあった加羅(加耶・加那とも書く)と國交があり、一般的に外國を「韓國《カラクニ》」と呼んだ。「辛國」とは呼び名の当て字であり、主に朝鮮半島の国をこのやうに表示した。その後の飛鳥時代には、中国の隋や唐を「唐國《カラクニ》」と書いて同音であっても、表示では一応の区別をしてゐたやうである。
従ってこの「辛國」の表示は韓神の祭祀された社であると思はれるが、諸書の祭祀する神は、所論が混乱してゐる。所在する場所が村の南の春日山にあったため、「春日さん」とも呼ばれてゐる。とあります。
戸籍に出てきた名前も、唐ではなく、朝鮮に関係する人物の名前として良さそうです。
この本での祭神については『大阪府神社名鑑』(昭和四十六年刊)では、「饒速日命・天児屋根命、素戔嗚尊」となっている。とあります。読みは「にぎはやひのみこと、あめのこやねのみこと」のようです。いろいろと書いてあり、理解できるレベルではないですが、韓國の祖神を祀るのだろうということのようです。この神社の過去については良くわかりませんが、私は「素戔嗚尊」を天武天皇と考えているので、祭神は天武以降に整えられ、「素戔嗚尊」が加わったように思えます。
この本には、新羅國神の言葉も見えます。天武天皇は百済の人と思ってましたが、新羅系の人であったかもしれません。また近くに野中寺があり、百済系渡来氏族の船史《フナノフヒト》の氏寺であったと書いてあります。新羅・百済が入り乱れていて、今のところは天武天皇は渡来人?ということにします。
追記:H201126
祭神ですが、辛國神社のHPに
ご祭神は主殿
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
素盞鳴命(スサノオノミコト)
室町時代に河内守護職の畠山基国が現在地に神社を造営し、して春日大社から春日神、天児屋根命を勧請し、合祀したとのこと。以後春日社と呼ばれるようになったようです。明治四十一年に式内社「長野神社」を合祀しています。長野神社は葛井寺の境内の南西に鎮座していました。辛国神社の祭神の内、素盞鳴命は長野神社の祭神です。
天武天皇の時代といえるのかということです。しかし、雄略天皇の御代に開かれたとのことです。