2019年4月2日火曜日

大嘗祭(ダイジョウサイ、オオニエノマツリ)の悠紀国・主基国

事典 古代の祭祀と年中行事、岡田荘司編、吉川弘文館発行からの説明をほぼ引用しています。
 天皇代替わりの即位儀に続いて斎行された天皇一代一度の祭儀。斎田の稲穂の確保のために、即位時期により七月以前はその年の十一月、八月以降は翌年の十一月になるという。祭儀は大嘗宮の正殿(悠紀殿《ゆきでん》・主基殿《すきでん》)において、皇祖天照大神に新穀の神前を捧げ、神と天皇が共食し、国家の安寧を祈念する国家最高の「饗《あえ》の事」と言える。
とあります。この本では大嘗祭の成立について、天武二年説と持統五年説があり、
天武二年には「大嘗」の文字が見え、国郡卜定が播磨と丹波にあったと推定されるようです。天武五年に、悠紀・主基の国郡卜定(これは新嘗のため)が初見されるようです。この卜定は、祭儀に備える新穀を用意する国郡を決めることのようで、毎年の新嘗祭は畿内ですが、大嘗祭は畿内ではなく、この悠紀国・主基国は東西に広がるようです。
これから、その時代の勢力範囲を想像できるかもしれません(もちろん違うかもしれません)。
 持統天皇では悠紀国・主基国は播磨と因幡、文武天皇は尾張と美濃ということです。これで見ると持統天皇の時には因幡も勢力範囲に入っていたことがうかがえます。
 年表を見ると、持統四年(690)には、持統天皇の即位があり、庚寅年籍、高市皇子の藤原京の地の視察など行なわれていて持統体制が固まりつつある時に気がつきました。朱鳥元年(686)一月に難波宮火災、九月に天武天皇崩御とあります。持統天皇の即位後の様子が不明ですが、キビ・ヤマトの勢力の争いの決着が難波宮火災でついたと考えることが出来ます。まだまだ半信半疑ですが。

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