インターネットで古地図が公開されていました。切り取っています。
左側が北、右が南方向です。
図の中央に赤の長方形の小坂村の左に、蓮如杉があり、そのまた左に石山本願寺と思いますが、石山御堂という山のようなところがあり、当時籠城門徒四萬人余り の記述があります。さらに渡辺橋川幅二百六十間の川の北側に織田方鉄砲備えがあり、天満山に織田信長本陣とあります。
中央下側には柴田勝家陣があり、包囲の布陣のようです。中央の赤の枠内の小坂村と書かれていてこれが、地名の大阪の元になったとの事のようです。
図の端に、大阪旧薩摩藩邸出入、大工棟梁鮫島某所蔵
とあって、図そのものは石山本願寺攻めを示しているようですが、新しいものかもしれません。図ではカットしましたが、百姓一揆とかの場所があり、一揆はグループの意味のようです。忍びの者とかあり、忍者がいたのとか、酒人とかは酒造りの人だろうかとか、舩場は今の船場で、海の方につながっていたのかとか見てるとおもしろいです。
地名:大阪
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9052.html
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2017年12月12日火曜日
現時点の確認3
中世
中世の始まりと武士の起源
中世の始まりをいつからと考えるか、教科書では鎌倉幕府の成立から院政の開始へシフトしてきているようです。日本史研究の動向を示すものとして、岩波書店の日本史の講座を例に取ると、一九七〇年代の「岩波講座 日本歴史」までは古代としていた院政が、一九九〇年代の「岩波講座 日本通史」から中世として扱われるようになっている。これが教科書に反映されているようです。これには中世を、権門体制と荘園公領制としてとらえるように変わってきたとのことです。上皇は、公家権門・武家権門・寺社権門の頂点に立つ「国王」として君臨したということで、この辺は私には勉強不足で、ギャップが大きすぎます。古い時代からの発想の脱出は簡単にはできそうにないので、以下終了とします。思い込みから離れて冷静に考えることは難しそうです。
この本でのメモ
北条政子という名は戦後出てきたらしく、「北条」は居住地・本拠地に由来する苗字《みょうじ》であるから、北条の地を家を離れた政子が「北条」の苗字を冠して呼ばれることはない。しかし定着してしまい、そのまま使われているということでした。
近年では、室町時代の政治過程の分析が進み、若手研究者の研究成果が相次ぎ、今一番ホットでおもしろいのは、室町時代だと言って過言はないらしく、この時代がきちんとわかってそれよりも古い時代が見直しされるようにも思います。
中世の始まりと武士の起源
中世の始まりをいつからと考えるか、教科書では鎌倉幕府の成立から院政の開始へシフトしてきているようです。日本史研究の動向を示すものとして、岩波書店の日本史の講座を例に取ると、一九七〇年代の「岩波講座 日本歴史」までは古代としていた院政が、一九九〇年代の「岩波講座 日本通史」から中世として扱われるようになっている。これが教科書に反映されているようです。これには中世を、権門体制と荘園公領制としてとらえるように変わってきたとのことです。上皇は、公家権門・武家権門・寺社権門の頂点に立つ「国王」として君臨したということで、この辺は私には勉強不足で、ギャップが大きすぎます。古い時代からの発想の脱出は簡単にはできそうにないので、以下終了とします。思い込みから離れて冷静に考えることは難しそうです。
この本でのメモ
北条政子という名は戦後出てきたらしく、「北条」は居住地・本拠地に由来する苗字《みょうじ》であるから、北条の地を家を離れた政子が「北条」の苗字を冠して呼ばれることはない。しかし定着してしまい、そのまま使われているということでした。
近年では、室町時代の政治過程の分析が進み、若手研究者の研究成果が相次ぎ、今一番ホットでおもしろいのは、室町時代だと言って過言はないらしく、この時代がきちんとわかってそれよりも古い時代が見直しされるようにも思います。
2017年12月10日日曜日
現時点の確認2
・唐風化する天皇
平安時代初期では、桓武天皇と嵯峨天皇が重要とのことです。桓武天皇では、勘解由使の設置と健児の採用とが出ています。坂上田村麻呂らを派遣した蝦夷の戦いなど勉強不足で良くわかっていません。
・終わらない日中交流
八九四年、遣唐使の廃止であったのが、停止・中止と記述が変わってきているそうです。鎖国的な状況とは考えられず、民間レベルの交流は拡大したと考えられているそうです。今、手元にある本(a)で、最澄の後継者・円仁《えんにん》のところに遣唐使で密教を学ぶため、五台山巡礼をしていて、その旅行記をライシャワーが世界に紹介し(一九九五年)、その後、駐日大使となったそうです。その後、円珍が八五三年、唐の貿易商、欽良暉《きんりょうき》の船に乗り、途中、暴風雨で台湾に漂着したりがあったが、福州に着岸したそうです。円珍は、唐から多くの品(四四一部1千巻)を持ち帰り、五四歳の若さで天台座主(第五世)になったそうです。円珍没後に、円仁と円珍の弟子たちで派閥争いが起こり、山門と寺門(天台別院園城寺)に分裂したそうです。話がずれてきましたが、遣唐使だけが日中交流ではなかった例としてメモっておきます。
・貴族社会を支える受領《ずりょう》
律令国家の地方行政は、都から派遣される国司によって運営されていた。九世紀後半には、国司の最上席の受領に権限が集中することになる。一〇世紀には、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名《ふみょう》」にして、租税の納入を請け負わせた。これを「負名体制」と称している。とのことです。負名体制の成立によって地方豪族の執務場所の郡家《ぐうけ》が衰退し、受領の執務場所である国衙《こくが》の重要性が増したとのことです。受領とか全く知りませんでした。負名というのは、「名」という文字を使っていて名字と関連してるはずです。完全に抜け落ちてました。勉強不足を痛感しています。今後の課題です。
・更新される摂関政治論
「重視される母后《ぼごう》の力」というタイトルで、天皇の外戚《がいせき》が後見《うしろみ》として大きな発言力を持ったと一般に考えられているが、天皇の生母である母后の役割の大きさにも注意が向けられるようになってきている。とのことです。これに関して、図説日本史通覧には奈良時代に妻問婚《つまどいこん》のコラムがあります(六九頁)。奈良時代に女帝が多いのも婚姻形式に原因があるように思えます。どうして貴族社会で婿入婚《むこいりこん》になったのか、ややこしすぎる気がしてきました。
「維持された太政官の機能」のところでは、摂関期においても、太政官は最高機関として機能しており、摂政・関白が好き勝手したというのは過去のイメージであるとのことです。
(a)近江から日本史を読み直す、今谷明 著、講談社現代新書1892
2017年12月9日土曜日
現時点の確認1
このブログも投稿記事が二〇〇ほどになってきました。自分でもおかしなことを言ってるとは思います。しかし、今から見直すのも大変になってきました。私の感覚を確認するために、図書館で
ここまで変わった 日本史教科書、高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬真一著
吉川弘文館、二〇一六年一二月一〇日第五刷発行
を、借りてきました。感想を時系列に並べていきます。
原始・古代
・時代区分をめぐる攻防
稲作をめぐる認識の変化について、大陸から伝来した水田耕作は、完成された技術体系を持っていたとのことです。垂柳遺跡の水田遺構の写真がありますが、うねっているので、多分人力によって開発されたように見えます。これが、条里制にどうつながるのかが興味あるところです。
・邪馬台国論争のゆくえ
畿内説と九州説があるとのことで、邪馬台国と古墳時代の連続性を考えなければどちらでも構わなくなりますが、基本は不連続と考えた方が良いので、九州説として考え、問題あれば、畿内説に宗旨替えしても良いように思います。
・見直される倭国と半島の関係
「やまとせいけん」の表記の違いについて書かれています。朝廷という言葉は使われなくなってきているそうです。大和という地名表記が八世紀まで下るとのことで、ヤマト政権が良さそうに思いました。任那《みまな》の表記は消え、「加耶《かや》」、「伽耶《かや》」、「加羅《から》」と記すことが多いそうです。任那日本府が植民地のような支配・経営を行っていたという見方は否定されているそうです。「宋書《そうじょ》」倭国伝に、倭の五王が出てきて、倭王武が雄略天皇と呼ばれる人物にあたるとのことですが、現時点では誰でも良いように思われます。というか偏見を持ってしまうようで良くないです。稲荷山古墳の出土太刀名から、ヤマト王権のことまでは断定できないように思います。私自身まったくわかっていません。現時点ではパスです。
・変容する「聖徳太子」
以前の教科書では、聖徳太子が主体で、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した、推古朝の主役であったのが、現在は、蘇我馬子や推古天皇など三人が、政治権力の中核をなしていたとする見方が強いとのことで、聖徳太子の業績も婉曲的な表現になってるそうです。私自身は、聖徳太子も推古天皇も蘇我馬子もいなかったと考えています。遣隋使も「隋書」の第一回の六〇〇年のものも重要視されるようになってきているそうです。
・天皇・日本・藤原京
天皇は古いか新しいかということで、推古朝説と天武朝説があるそうです。日本書紀の遣隋使の国書の記事に天皇があるというのが、推古朝説の根拠のようです。日本書紀があてにならないので、推古朝説は成立しないと思います。天武天皇からということだということです。古墳時代から律令国家への体制は不連続なものと考えます。
藤原京について、京城の規模が以前は東西約二キロ、南北約三キロというのが、一九九〇年代以降の発掘調査と研究によって、見直され、京城は約5.3キロ四方の正方形で宮が中央に置かれていたとする見方が有力になってきており、規模が平城京に引けをとらず、宮の位置関係が異なるなど、藤原京の位置づけを問い直す必要が出てきたと言うことです。これに関して、私は前期難波宮の位置づけが問題になると思います。
・律令国家の最盛期はいつか
かっての教科書の内容が最初に示されています。七世紀までの王族や豪族は、屯倉《みやけ》や田荘《たどころ》と呼ばれる私有地を所有していたが、大化改新で公地公民制の方針が示され、大宝元年(七〇一年)大宝律令の制定で完成され、班田収受制が確立された。ところが、口分田不足から、開墾が奨励され、三世一身法で期間限定の所有が認められ、、墾田永年私財法の発布で、永久私有が認められ、公地公民制は崩れ、律令体制の動揺を招いた。このような見方は大幅に修正されている。とのことです。私自身はこの考え方でしたので、驚きの事件です。一九八六年からの長屋王邸宅跡から多数の木簡が出土し、その研究によるとのことです。長屋王家の私有地経営の様子が明らかになり、教科書に取り入れられたようです。父の高市皇子からのものが、奈良時代になっても所有し続けていたということで、公地公民制が実現していたのか、また大宝律令の制定で律令制が完成したとする考えに強い疑問が投げかけられたようです。墾田永年私財法を契機に、所有を認めるのであるが、税を納める輸租田《ゆそでん》とされ、国家の土地支配が強化され、律令国家の支配が深まったという認識らしいです。
長屋王の変も、律令制を阻害する私有地経営が違反とされて起こったかもしれず、長屋王は特殊な例の可能性があり、教科書の通りかはわからないとは思います。
・皇位を揺るがす権力者
奈良時代後半の政治家として、藤原仲麻呂と道鏡があげられています。仲麻呂は光明皇太后をバックに、政治の実権を掌握していくのであるが、孝謙太上天皇と対立し、恵美押勝の乱で敗死する。この後に、孝謙が重祚《ちょうそ》して称徳天皇となり、宇佐八幡神託事件が起こる。道鏡を天皇にすれば天下は太平になるという宇佐八幡神の託宣が伝えられる。これには道鏡主体説と称徳主体説があり、教科書も一定していないとのことです。奈良時代の皇位継承について、女帝が多く、また上皇の力が強いようでもあり、良くわからないところがあります。今後の問題です。
だらだらと書いてきましたが、良く考えれば、日本書紀の扱いが問題で、大化改新までの神話部分を無視するか、配慮するかで全然話が違います。教科書では、古墳時代と律令の時代に断絶があることを明示していません。
ここまで変わった 日本史教科書、高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬真一著
吉川弘文館、二〇一六年一二月一〇日第五刷発行
を、借りてきました。感想を時系列に並べていきます。
原始・古代
・時代区分をめぐる攻防
稲作をめぐる認識の変化について、大陸から伝来した水田耕作は、完成された技術体系を持っていたとのことです。垂柳遺跡の水田遺構の写真がありますが、うねっているので、多分人力によって開発されたように見えます。これが、条里制にどうつながるのかが興味あるところです。
・邪馬台国論争のゆくえ
畿内説と九州説があるとのことで、邪馬台国と古墳時代の連続性を考えなければどちらでも構わなくなりますが、基本は不連続と考えた方が良いので、九州説として考え、問題あれば、畿内説に宗旨替えしても良いように思います。
・見直される倭国と半島の関係
「やまとせいけん」の表記の違いについて書かれています。朝廷という言葉は使われなくなってきているそうです。大和という地名表記が八世紀まで下るとのことで、ヤマト政権が良さそうに思いました。任那《みまな》の表記は消え、「加耶《かや》」、「伽耶《かや》」、「加羅《から》」と記すことが多いそうです。任那日本府が植民地のような支配・経営を行っていたという見方は否定されているそうです。「宋書《そうじょ》」倭国伝に、倭の五王が出てきて、倭王武が雄略天皇と呼ばれる人物にあたるとのことですが、現時点では誰でも良いように思われます。というか偏見を持ってしまうようで良くないです。稲荷山古墳の出土太刀名から、ヤマト王権のことまでは断定できないように思います。私自身まったくわかっていません。現時点ではパスです。
・変容する「聖徳太子」
以前の教科書では、聖徳太子が主体で、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した、推古朝の主役であったのが、現在は、蘇我馬子や推古天皇など三人が、政治権力の中核をなしていたとする見方が強いとのことで、聖徳太子の業績も婉曲的な表現になってるそうです。私自身は、聖徳太子も推古天皇も蘇我馬子もいなかったと考えています。遣隋使も「隋書」の第一回の六〇〇年のものも重要視されるようになってきているそうです。
・天皇・日本・藤原京
天皇は古いか新しいかということで、推古朝説と天武朝説があるそうです。日本書紀の遣隋使の国書の記事に天皇があるというのが、推古朝説の根拠のようです。日本書紀があてにならないので、推古朝説は成立しないと思います。天武天皇からということだということです。古墳時代から律令国家への体制は不連続なものと考えます。
藤原京について、京城の規模が以前は東西約二キロ、南北約三キロというのが、一九九〇年代以降の発掘調査と研究によって、見直され、京城は約5.3キロ四方の正方形で宮が中央に置かれていたとする見方が有力になってきており、規模が平城京に引けをとらず、宮の位置関係が異なるなど、藤原京の位置づけを問い直す必要が出てきたと言うことです。これに関して、私は前期難波宮の位置づけが問題になると思います。
・律令国家の最盛期はいつか
かっての教科書の内容が最初に示されています。七世紀までの王族や豪族は、屯倉《みやけ》や田荘《たどころ》と呼ばれる私有地を所有していたが、大化改新で公地公民制の方針が示され、大宝元年(七〇一年)大宝律令の制定で完成され、班田収受制が確立された。ところが、口分田不足から、開墾が奨励され、三世一身法で期間限定の所有が認められ、、墾田永年私財法の発布で、永久私有が認められ、公地公民制は崩れ、律令体制の動揺を招いた。このような見方は大幅に修正されている。とのことです。私自身はこの考え方でしたので、驚きの事件です。一九八六年からの長屋王邸宅跡から多数の木簡が出土し、その研究によるとのことです。長屋王家の私有地経営の様子が明らかになり、教科書に取り入れられたようです。父の高市皇子からのものが、奈良時代になっても所有し続けていたということで、公地公民制が実現していたのか、また大宝律令の制定で律令制が完成したとする考えに強い疑問が投げかけられたようです。墾田永年私財法を契機に、所有を認めるのであるが、税を納める輸租田《ゆそでん》とされ、国家の土地支配が強化され、律令国家の支配が深まったという認識らしいです。
長屋王の変も、律令制を阻害する私有地経営が違反とされて起こったかもしれず、長屋王は特殊な例の可能性があり、教科書の通りかはわからないとは思います。
・皇位を揺るがす権力者
奈良時代後半の政治家として、藤原仲麻呂と道鏡があげられています。仲麻呂は光明皇太后をバックに、政治の実権を掌握していくのであるが、孝謙太上天皇と対立し、恵美押勝の乱で敗死する。この後に、孝謙が重祚《ちょうそ》して称徳天皇となり、宇佐八幡神託事件が起こる。道鏡を天皇にすれば天下は太平になるという宇佐八幡神の託宣が伝えられる。これには道鏡主体説と称徳主体説があり、教科書も一定していないとのことです。奈良時代の皇位継承について、女帝が多く、また上皇の力が強いようでもあり、良くわからないところがあります。今後の問題です。
だらだらと書いてきましたが、良く考えれば、日本書紀の扱いが問題で、大化改新までの神話部分を無視するか、配慮するかで全然話が違います。教科書では、古墳時代と律令の時代に断絶があることを明示していません。
2017年12月7日木曜日
現時点でのまとめ
ブログを更新してきましたが、どんどん考え方が変わってきています。自分の考えを整理しておこうと思います。
日本書紀の考え方ですが、古事記をベースに、バージョンアップされたものです。古事記と日本書紀の比較表です。
収録期間の違いがなぜ生じたか? 安田仮説では、推古天皇=持統天皇と考えています。古事記+追加分=日本書紀と考えます。それぞれの終わりをそろえたのが次の図です。
日本書紀では、推古天皇の時代はまだフィクションで、大化の改新ぐらいまで続きます。蘇我氏の滅亡で、そこにあった国書が消え、ここでリセットされます。唐突に孝徳天皇が出てきて、つながりの不自然さを皆が感じるとは思いますが、これで神話の世界は終わり、歴史の世界が始まると考えています。前期難波宮が遺跡としてあるので、孝徳天皇は実在の人と考えています。もちろん日本書紀の潤色は続きます。
この図表は、「歴史エッ!声」のものです。ブログと本の連動ができてません。
日本書紀の考え方ですが、古事記をベースに、バージョンアップされたものです。古事記と日本書紀の比較表です。
収録期間の違いがなぜ生じたか? 安田仮説では、推古天皇=持統天皇と考えています。古事記+追加分=日本書紀と考えます。それぞれの終わりをそろえたのが次の図です。
日本書紀では、推古天皇の時代はまだフィクションで、大化の改新ぐらいまで続きます。蘇我氏の滅亡で、そこにあった国書が消え、ここでリセットされます。唐突に孝徳天皇が出てきて、つながりの不自然さを皆が感じるとは思いますが、これで神話の世界は終わり、歴史の世界が始まると考えています。前期難波宮が遺跡としてあるので、孝徳天皇は実在の人と考えています。もちろん日本書紀の潤色は続きます。
この図表は、「歴史エッ!声」のものです。ブログと本の連動ができてません。
2017年12月6日水曜日
【村がつく名字】、人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!
先週の番組です。十一月三十日の放送でした。
http://www4.nhk.or.jp/onamae/x/2017-11-30/21/13209/2291027/
この中で「木村」の「木」は何かと言うことでNHKの説が紹介されていました。番組では衝撃の事実が明らかに!ということですが、ここでの引用も許されると思います。紀貫之とかの「紀」氏の村の意味と言うことです。紀伊の国に地盤を持つ豪族が紀氏で、好字令により、木から紀伊に変わったので、元は木だったそうです。「木」氏の村です。木村の地名は「紀」氏の勢力範囲にあったとのことでした。
「紀」氏は東北にも進出していたようです。
和歌山県紀の川市で粉河祭というのがあり、
「祭りの中心行事の渡御式は、粉河寺を創始した大伴孔子古(おおとものくじこ)の子・船主が坂上田村麻呂将軍の奥州征伐に出陣し、賊徒を退治して凱旋(がいせん)した姿を伝えるものと言われている。渡御式は現在、隔年で開催している。」
引用はhttps://wakayama.keizai.biz/headline/678/
坂上田村麻呂の前は紀古佐美《き の こさみ》が征東大将軍だったそうです。粉河寺の横が岩出市です。岩出→いわで→いわて→岩手で、岩出の人が東北遠征で岩手県に常駐したのではと私は想像しています。岩出の話もつながってくるかもと思いました。
好字令
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/12/blog-post_4.html
http://www4.nhk.or.jp/onamae/x/2017-11-30/21/13209/2291027/
この中で「木村」の「木」は何かと言うことでNHKの説が紹介されていました。番組では衝撃の事実が明らかに!ということですが、ここでの引用も許されると思います。紀貫之とかの「紀」氏の村の意味と言うことです。紀伊の国に地盤を持つ豪族が紀氏で、好字令により、木から紀伊に変わったので、元は木だったそうです。「木」氏の村です。木村の地名は「紀」氏の勢力範囲にあったとのことでした。
「紀」氏は東北にも進出していたようです。
和歌山県紀の川市で粉河祭というのがあり、
「祭りの中心行事の渡御式は、粉河寺を創始した大伴孔子古(おおとものくじこ)の子・船主が坂上田村麻呂将軍の奥州征伐に出陣し、賊徒を退治して凱旋(がいせん)した姿を伝えるものと言われている。渡御式は現在、隔年で開催している。」
引用はhttps://wakayama.keizai.biz/headline/678/
坂上田村麻呂の前は紀古佐美《き の こさみ》が征東大将軍だったそうです。粉河寺の横が岩出市です。岩出→いわで→いわて→岩手で、岩出の人が東北遠征で岩手県に常駐したのではと私は想像しています。岩出の話もつながってくるかもと思いました。
好字令
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/12/blog-post_4.html
2017年12月5日火曜日
懐風藻
奈良時代、天平勝宝三年、孝謙天皇の時代に作られた漢詩集です。編纂に淡海三船がかかわったというのが有力視されている。とのことで図書館から借りてきました。最初、林古渓 、懐風藻新註、昭和三十三年、明治書院を借りてきましたが、私にとって旧漢字はかなり読みにくく、また違う本を借りてきました。
懐風藻全注釈、辰巳正明著、笠間書院発行(1)です。また
懐風藻、江口孝夫著、講談社学術文庫(2)です。こちらは小型なので持ち運びできます。非常にマニアックな書物のようで、万葉集などと比べて注目されていないようです。 万葉集と同じく、東大寺大仏建立に触れていないようで、これは万葉集と呼応するところがあると、(1)では述べられています。本藻序文に、作者六十四名、詞の数一二〇首と記されていて、読まれた時代は、近江朝から奈良期末で、天皇・皇族以下官吏僧侶とのことです。当時の状況を高級官吏的な視線で記述されているような気がします。懐風藻序は、訳を見てですが、公式見解的な日本書紀の話をコンパクトにうまくまとめているようです。最初に天智天皇の第一子の大友皇子が取り上げられていて、なぜかと思いますが、淡海三船が大友皇子ー葛野王ー池辺王ー淡海三船とつながることを考えればそうかなと思われます。大友皇子には、伝記があります。その中で、
「皇子はある夜夢を見た。天の中心ががらりと抜けて穴があき、朱い衣を着た老人が太陽を捧げ持って、皇子に奉った。するとふとだれかが脇の下の方に現れて、すぐに太陽を横取りして行ってしまった。驚いて目をさまし、怪しさのあまりに内大臣の藤原鎌足公に事細かに、この旨お話になった。」との記述があります。天智天皇の天下を、天武天皇が武力で簒奪したということを言っているように思えます。「天」智天皇から「天」武天皇が壬申の乱で武力で横取りしたと言ってることになります。
次に河島皇子が出てきます。天智天皇の第二子です。持統天皇の時代になり、大津皇子の謀反の密告をしたことに対する弁明が述べられている。そして、次に大津皇子について、天武天皇の第一皇子で、新羅の僧に惑わされてしまったように書かれています。次が釈智蔵、僧侶です。唐に留学したときに、同僚からねたまれ狂人のふりをしたらしく、有間皇子を想像させます。
次が葛野王で、天智天皇・天武天皇の孫で、淡海三船の祖父になります。太政大臣であった高市皇子(天武天皇の皇子、壬申の乱で活躍、長屋王の父)が薨去後に、持統天皇が次の皇太子について相談され、議論紛糾したときに、葛野王が、兄弟ではなく、子孫が相続するのが、古来よりの決まりであるとのべ、高市皇子の兄にあたる弓削皇子が何かを言おうとしたが、葛野王が叱り、決まったということです。皇位継承が確固としたものではないことから、天武系から天智系に変わっていったのかもしれません。懐風藻は漢詩なので、偏りがあるのか、長屋王宅で読まれたものが多くあります。藤原氏も不比等から始まり、藤原房前(総前)、藤原宇合、藤原万里が収められています。ただ、四兄弟でも藤原武智麿はないようです。藤原四兄弟でも温度差があるようです。その中で宇合が一番優遇されているようです。良い漢詩を作っているからかもしれませんが。懐風藻が淡海三船の編纂で、天皇の漢風諡号を考えたとして、漢詩から天武系の長屋王につながる部分があったことは確かであろうと思います。淡海三船や藤原宇合は、天智と天武の二つを融和できるものと認識していたことは宇合の漢詩の中に感じられます。漢詩が現代語訳でしか読めないので、確としたことは言えないのが残念なところです。しかし長屋王の変で、宇合が長屋王邸を六衛府を率いて包囲したことについて、長屋王宅の漢詩を作ったこととギャップがありすぎます。懐風藻が宇合に好意的な気はしますが、これは今後の課題としておきます。
懐風藻全注釈、辰巳正明著、笠間書院発行(1)です。また
懐風藻、江口孝夫著、講談社学術文庫(2)です。こちらは小型なので持ち運びできます。非常にマニアックな書物のようで、万葉集などと比べて注目されていないようです。 万葉集と同じく、東大寺大仏建立に触れていないようで、これは万葉集と呼応するところがあると、(1)では述べられています。本藻序文に、作者六十四名、詞の数一二〇首と記されていて、読まれた時代は、近江朝から奈良期末で、天皇・皇族以下官吏僧侶とのことです。当時の状況を高級官吏的な視線で記述されているような気がします。懐風藻序は、訳を見てですが、公式見解的な日本書紀の話をコンパクトにうまくまとめているようです。最初に天智天皇の第一子の大友皇子が取り上げられていて、なぜかと思いますが、淡海三船が大友皇子ー葛野王ー池辺王ー淡海三船とつながることを考えればそうかなと思われます。大友皇子には、伝記があります。その中で、
「皇子はある夜夢を見た。天の中心ががらりと抜けて穴があき、朱い衣を着た老人が太陽を捧げ持って、皇子に奉った。するとふとだれかが脇の下の方に現れて、すぐに太陽を横取りして行ってしまった。驚いて目をさまし、怪しさのあまりに内大臣の藤原鎌足公に事細かに、この旨お話になった。」との記述があります。天智天皇の天下を、天武天皇が武力で簒奪したということを言っているように思えます。「天」智天皇から「天」武天皇が壬申の乱で武力で横取りしたと言ってることになります。
参考、天智天皇と天武天皇
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2017/11/blog-post_16.html
次が葛野王で、天智天皇・天武天皇の孫で、淡海三船の祖父になります。太政大臣であった高市皇子(天武天皇の皇子、壬申の乱で活躍、長屋王の父)が薨去後に、持統天皇が次の皇太子について相談され、議論紛糾したときに、葛野王が、兄弟ではなく、子孫が相続するのが、古来よりの決まりであるとのべ、高市皇子の兄にあたる弓削皇子が何かを言おうとしたが、葛野王が叱り、決まったということです。皇位継承が確固としたものではないことから、天武系から天智系に変わっていったのかもしれません。懐風藻は漢詩なので、偏りがあるのか、長屋王宅で読まれたものが多くあります。藤原氏も不比等から始まり、藤原房前(総前)、藤原宇合、藤原万里が収められています。ただ、四兄弟でも藤原武智麿はないようです。藤原四兄弟でも温度差があるようです。その中で宇合が一番優遇されているようです。良い漢詩を作っているからかもしれませんが。懐風藻が淡海三船の編纂で、天皇の漢風諡号を考えたとして、漢詩から天武系の長屋王につながる部分があったことは確かであろうと思います。淡海三船や藤原宇合は、天智と天武の二つを融和できるものと認識していたことは宇合の漢詩の中に感じられます。漢詩が現代語訳でしか読めないので、確としたことは言えないのが残念なところです。しかし長屋王の変で、宇合が長屋王邸を六衛府を率いて包囲したことについて、長屋王宅の漢詩を作ったこととギャップがありすぎます。懐風藻が宇合に好意的な気はしますが、これは今後の課題としておきます。
2017年11月30日木曜日
志賀の大仏《しがのおおぼとけ》
崇福寺跡に向かう途中にあります。元の山中越え(志賀の山越)で、大津の入り口に位置するこの場所と対で京都の北白川に石仏があるそうです。この石仏は、高さ3.1メートル、頭部は耳も彫り出された厚肉彫りの阿弥陀如来像です。十三世紀頃に作られたと説明板にありました。しばらく道を進むと、切通しのようなところがありました。鎌倉七口といわれる切通しがどんなものかわかりませんが、鎌倉時代の痕跡のように思えてきました。鎌倉の玄関にある長谷の大仏のミニチュア版のように見えないこともありません。承久の乱(一二二一年)のあと、朝廷の監視のために六波羅探題がおかれますが、京都にダイレクトに入るための道として、このころに整備されたのではと妄想します。
石像阿弥陀如来座像
このような場所はどこにでもあるのかもしれませんが。
2017年11月29日水曜日
国宝 六道絵 滋賀・聖衆来迎寺
国宝がブームのようで、最近良くテレビとかで放送されます。タイトルのは滋賀・聖衆来迎寺のものです。
京都国立博物館、開館120周年記念 特別展覧会 国宝
2017年10月 3日 ~ 2017年11月26日
で展示されていました。
この聖衆来迎寺は、織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちの時に、延暦寺の念仏道場であったのにもかかわらず、除外され、その結果、多くの文化財が残った。その一つが鎌倉期とされる国宝のようです。除外された理由ですが、森蘭丸の父の墓がこの寺にあったためとの説があるそうです。蘭丸の父、森可成《もり よしなり》は、信長の命で、宇佐山に城を作り、現在は宇佐山城跡(志賀城跡)となっています。姉川の戦い(一五七〇年)で、信長が苦戦し、京都に退却した時に、森可成は坂本(現大津市坂本)で戦死、浅井・朝倉軍は宇佐山城に迫ったが、出城《でじろ》(端城《はじょう》)で、武藤五郎右衛門《むとう ごろうえもん》らによって、くいとめられたとのことです。その後、優勢となった信長は、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山延暦寺の焼き討ちを、宇佐山城を拠点として行ったと伝えられる。とのことです。
引用は、滋賀県の歴史散歩(上)大津・湖南・甲賀、山川出版社。
国宝として残るには見えない歴史があるんだと、引用の本を見ていて思いました。わかりきったことかもしれませんが、メモ書きです。
追記
上記の本と内容が少し違う本を見つけました。私の読み違いかもしれません。
戦争の日本史13
信長の天下布武への道、谷口克広著、吉川弘文館
この巻末の略年表からの抜粋したものを以下に示します。森可成の部分を追加しています。
京都国立博物館、開館120周年記念 特別展覧会 国宝
2017年10月 3日 ~ 2017年11月26日
で展示されていました。
この聖衆来迎寺は、織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちの時に、延暦寺の念仏道場であったのにもかかわらず、除外され、その結果、多くの文化財が残った。その一つが鎌倉期とされる国宝のようです。除外された理由ですが、森蘭丸の父の墓がこの寺にあったためとの説があるそうです。蘭丸の父、森可成《もり よしなり》は、信長の命で、宇佐山に城を作り、現在は宇佐山城跡(志賀城跡)となっています。姉川の戦い(一五七〇年)で、信長が苦戦し、京都に退却した時に、森可成は坂本(現大津市坂本)で戦死、浅井・朝倉軍は宇佐山城に迫ったが、出城《でじろ》(端城《はじょう》)で、武藤五郎右衛門《むとう ごろうえもん》らによって、くいとめられたとのことです。その後、優勢となった信長は、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山延暦寺の焼き討ちを、宇佐山城を拠点として行ったと伝えられる。とのことです。
引用は、滋賀県の歴史散歩(上)大津・湖南・甲賀、山川出版社。
国宝として残るには見えない歴史があるんだと、引用の本を見ていて思いました。わかりきったことかもしれませんが、メモ書きです。
追記
上記の本と内容が少し違う本を見つけました。私の読み違いかもしれません。
戦争の日本史13
信長の天下布武への道、谷口克広著、吉川弘文館
この巻末の略年表からの抜粋したものを以下に示します。森可成の部分を追加しています。
2017年11月28日火曜日
崇福寺跡(天智天皇関連)
大津宮遷都翌年の六六八年(天智天皇七年)に、天智天皇の命により建立したとされる。扶桑略記に、大津宮の乾(西北)とあることから、この寺院から大津宮の位置を特定するために探索されたとのことである。現在、この地に確定している。尾根を削り、伽藍が建てられ、三カ所に分かれている。北側の尾根が弥勒堂跡、中ほどが小金堂、講堂、三重塔の中心部で、塔心礎から発見された舎利容器等は国宝となっている。南尾根には金堂跡とされるところに崇福寺旧址の石碑がある。こちらは、延暦五年(七八六)に桓武天皇が天智天皇の追悼のために建立した梵釈寺跡と推定されている。崇福寺は延暦年間に十大寺に選ばれ栄えたとのことであるが、桓武天皇のバックアップとしか思えず、室町時代には廃寺となったとのことである。桓武天皇が、天智天皇の後継であることを強く意識していたのであろうと思われる(桓武天皇行幸を参照)。崇福寺は尾根が南北に位置していて、おそらく東側の琵琶湖から眺めることができたと思われる。四天王寺が海側から見て伽藍配置が一直線上にあるのを思い出す。琵琶湖の対岸の石山の方に国府が推定されていて、ここからかっての近江朝廷を感じることができる景観を作っていたと思う。このこだわりから天智・天武の対立が強かったことを示しているのかもしれない。
あまり関係ないですが、崇福寺跡の紅葉。
桓武天皇行幸
以下、滋賀県百科事典、一八七頁の引用である。
奈良時代の天皇が天武天皇系であったのにたいし、光仁天皇・桓武天皇など奈良末・平安時代の天皇は天智天皇系であり、このことが桓武朝において、近江国への特別な対応が見られることになる。梵釈寺の建立や古津から大津への改称などはその例であるが、桓武天皇の近江行幸もその現われとみることができる。八〇一年(延暦二〇)、八〇三年(延暦二二)、八〇四年(延暦二三)と晩年には連続して近江への行幸を行っているが、とくに八〇三年には、三月・四月・閏一〇月と三度も行幸している。三月・四月は可楽崎(唐崎)であり、閏一〇月は蒲生野である。蒲生野の行宮では「山々も麗しく野も平くして、心も穏やかである」と詔している。おそらく天智天皇の蒲生行幸とのかかわりがあってのことであろう。
あまり関係ないですが、崇福寺跡の紅葉。
桓武天皇行幸
以下、滋賀県百科事典、一八七頁の引用である。
奈良時代の天皇が天武天皇系であったのにたいし、光仁天皇・桓武天皇など奈良末・平安時代の天皇は天智天皇系であり、このことが桓武朝において、近江国への特別な対応が見られることになる。梵釈寺の建立や古津から大津への改称などはその例であるが、桓武天皇の近江行幸もその現われとみることができる。八〇一年(延暦二〇)、八〇三年(延暦二二)、八〇四年(延暦二三)と晩年には連続して近江への行幸を行っているが、とくに八〇三年には、三月・四月・閏一〇月と三度も行幸している。三月・四月は可楽崎(唐崎)であり、閏一〇月は蒲生野である。蒲生野の行宮では「山々も麗しく野も平くして、心も穏やかである」と詔している。おそらく天智天皇の蒲生行幸とのかかわりがあってのことであろう。
2017年11月26日日曜日
名字と方言の分布の違いの説明図
今までの記事を私のイメージで模式図にまとめました。
古墳時代の長方形は、日本を表していて、何らかの状態があったと思いますが、白紙の状態です。次に律令制が近畿地方を中心に始まったのが二段目です。ブルーがその地域です。西日本に発生したと考えています。次が律令制が失敗し、農民の逃亡などで、拡散する状態を示しています。この時に日本語の基本的な西日本の方言の分布になったことを示しています。
古墳時代の長方形は、日本を表していて、何らかの状態があったと思いますが、白紙の状態です。次に律令制が近畿地方を中心に始まったのが二段目です。ブルーがその地域です。西日本に発生したと考えています。次が律令制が失敗し、農民の逃亡などで、拡散する状態を示しています。この時に日本語の基本的な西日本の方言の分布になったことを示しています。
2017年11月23日木曜日
林・小林仮説
小林がどうして生まれたかの仮説です。近くに小さい林があって、小林の名字を取り入れたというものではありません。大まかな流れです。おかしなところも多々あると思います。
一,律令制度開始により、林という名字が使われるようになった。
考えているのは越前。越中など、富山県・石川県・福井県あたり。
参考 名字:林と小林
二,すぐに口分田の不足とか、律令制の問題が起こった。
三,対策として三世一身法(七二三)、墾田永年私財法(七四三)が出される。
これは、開墾した者にはその世代から三世代、そして永久に所有を認めるもので、開発主体は上級貴族・大寺院とのことです。律令制下、過剰な負担に耐えかねて、浮浪や逃亡が多かったようです。
四,越前、越中、加賀の地域で、寺社や上流貴族の新田開発計画に乗ったか乗せられたかして、林グループが信濃へ集団移住、さらに甲斐国にも進出。国司の制度とか甲斐国にも遅れて出来た。
五,この地域で、心機一転、名字を林の子孫の意味の小林として土着した。
西日本から多数の人間が山梨県に移ったことになり、西日本風の方言を当然のごとく使った。それが、現在まで、名字や言葉に残っているのが甲斐国、山梨県でしょう。
これが、荘園になっていくのですが、鎌倉時代以降に武士の時代になり、土地の所有者が変わってしまい、わからなくなったとは思われます。しかし日本史総覧#の主要荘園一覧に、甲斐国では京都の寺社とか出てきているように思えます。東大寺とか出てきておれば確実だと思いますが、残念なところです。
正倉院展で、何かしら毎年展示されているようです。今年は、国司と東大寺の間で領地の争いがあった例##が展示されてました。土地が深刻な問題であったと想像されます。おそらく逃亡したとされる農民なども計画的に移住して開墾していった地域と、渡来人の移住した地域では、違いが出てくるのだと思われます。甲斐国では逃亡や浮浪の農民が、多数、移住していって、影響を受けるのではなく与えたと思われます。日本史通覧###には、正倉院文書の例として山城国で、四十一人中二十一人が近江や筑紫へ浮浪逃亡しているとあります。この時代、民族の大移動に近いことであったのかもしれません。西日本でも未開発の所に広がっていったのかもしれません。
#日本史総覧
日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行
##第六九回正倉院展図録
###図説、日本史通覧六九頁、帝国書院
一,律令制度開始により、林という名字が使われるようになった。
考えているのは越前。越中など、富山県・石川県・福井県あたり。
参考 名字:林と小林
二,すぐに口分田の不足とか、律令制の問題が起こった。
三,対策として三世一身法(七二三)、墾田永年私財法(七四三)が出される。
これは、開墾した者にはその世代から三世代、そして永久に所有を認めるもので、開発主体は上級貴族・大寺院とのことです。律令制下、過剰な負担に耐えかねて、浮浪や逃亡が多かったようです。
四,越前、越中、加賀の地域で、寺社や上流貴族の新田開発計画に乗ったか乗せられたかして、林グループが信濃へ集団移住、さらに甲斐国にも進出。国司の制度とか甲斐国にも遅れて出来た。
五,この地域で、心機一転、名字を林の子孫の意味の小林として土着した。
西日本から多数の人間が山梨県に移ったことになり、西日本風の方言を当然のごとく使った。それが、現在まで、名字や言葉に残っているのが甲斐国、山梨県でしょう。
これが、荘園になっていくのですが、鎌倉時代以降に武士の時代になり、土地の所有者が変わってしまい、わからなくなったとは思われます。しかし日本史総覧#の主要荘園一覧に、甲斐国では京都の寺社とか出てきているように思えます。東大寺とか出てきておれば確実だと思いますが、残念なところです。
正倉院展で、何かしら毎年展示されているようです。今年は、国司と東大寺の間で領地の争いがあった例##が展示されてました。土地が深刻な問題であったと想像されます。おそらく逃亡したとされる農民なども計画的に移住して開墾していった地域と、渡来人の移住した地域では、違いが出てくるのだと思われます。甲斐国では逃亡や浮浪の農民が、多数、移住していって、影響を受けるのではなく与えたと思われます。日本史通覧###には、正倉院文書の例として山城国で、四十一人中二十一人が近江や筑紫へ浮浪逃亡しているとあります。この時代、民族の大移動に近いことであったのかもしれません。西日本でも未開発の所に広がっていったのかもしれません。
#日本史総覧
日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行
##第六九回正倉院展図録
###図説、日本史通覧六九頁、帝国書院
2017年11月22日水曜日
山梨県の名字とハ行転呼音現象
山梨県の名字を調べようと思い、図書館で
県別名字ランキング事典、森岡浩著、東京堂出版、2009年10月印刷発行
を、借りてきました。山梨県のところを見ると、渡辺が一位で、二位が小林です。渡辺は富士吉田市に特に多いということです。富士吉田市は山梨県の東南に位置し、富士山の近くで、農耕に名は向かない土地のようで、渡辺はもう少し後の時代であろうと思われます。小林は全県に分布するようです。隣の長野県を見ると小林がトップで、二位の田中に二倍以上の差があるそうです。長野県から小林が伝播したことを想像させます。
また山梨県に戻りますが、他県ではあまり多くない名字が多く見られるのが特徴とのことです。読み方についてのところ、驚きました。第六〇位の藤原です。これを普通はフジワラと読みますが、山梨の電話帳では八六パーセントがフジハラと登録されているそうです。藤原だけでなく、梶原の七一パーセント、萩原の七九パーセントがハラの方とのことです。「今日は」は発音ではコンニチワです。このハ行音がワ行音に変わるのが、ハ行転呼音現象というそうで、西暦一〇〇〇年頃からとのことです。(ここは、図説 日本語の歴史、今野真二著、河出書房新社、六五頁より)。つまり平安時代以前の状態がこの地に残っていると言うことです。甲斐の国司の初見が天平三年(七三一)と遅いこととの関係があると思われます。律令制が始まってから、小林グループが山梨県へやってきたことを暗示します。
ついでに、ランキング事典で、林の多い地域をメモっておきます。各県で一〇位以内です。富山県二位、石川県六位、岐阜県四位、滋賀県九位、京都府九位、和歌山県六位、山口県七位、徳島県七位、です。メジャーな名字なので、かなり広がっています。期待の福井県は一三位でした。
県別名字ランキング事典、森岡浩著、東京堂出版、2009年10月印刷発行
を、借りてきました。山梨県のところを見ると、渡辺が一位で、二位が小林です。渡辺は富士吉田市に特に多いということです。富士吉田市は山梨県の東南に位置し、富士山の近くで、農耕に名は向かない土地のようで、渡辺はもう少し後の時代であろうと思われます。小林は全県に分布するようです。隣の長野県を見ると小林がトップで、二位の田中に二倍以上の差があるそうです。長野県から小林が伝播したことを想像させます。
また山梨県に戻りますが、他県ではあまり多くない名字が多く見られるのが特徴とのことです。読み方についてのところ、驚きました。第六〇位の藤原です。これを普通はフジワラと読みますが、山梨の電話帳では八六パーセントがフジハラと登録されているそうです。藤原だけでなく、梶原の七一パーセント、萩原の七九パーセントがハラの方とのことです。「今日は」は発音ではコンニチワです。このハ行音がワ行音に変わるのが、ハ行転呼音現象というそうで、西暦一〇〇〇年頃からとのことです。(ここは、図説 日本語の歴史、今野真二著、河出書房新社、六五頁より)。つまり平安時代以前の状態がこの地に残っていると言うことです。甲斐の国司の初見が天平三年(七三一)と遅いこととの関係があると思われます。律令制が始まってから、小林グループが山梨県へやってきたことを暗示します。
ついでに、ランキング事典で、林の多い地域をメモっておきます。各県で一〇位以内です。富山県二位、石川県六位、岐阜県四位、滋賀県九位、京都府九位、和歌山県六位、山口県七位、徳島県七位、です。メジャーな名字なので、かなり広がっています。期待の福井県は一三位でした。
2017年11月21日火曜日
上野・下野と甲斐の時代順
甲斐の方が先で、その後に上野・下野だと言ってましたが、違うかもしれません。
(http://yasudakasetu.blogspot.jp/2017/11/blog-post_18.html)
日本史総覧の国司の所見順を見ると、上野・下野が和銅元年(七〇三)に対して、甲斐は天平三年(七三一)で遅いです。律令制としての始まりは三〇年ほど違います。近江国でも近江朝廷があったので、国司の初出が早いように思いましたが、和銅元年です。ばらつ愛きがあるのかもしれません。信濃も和銅元年ですので、信濃→上野・下野のコースがあり、甲斐からのコースが関係が薄いように思われて来ました。
名字の各県別のデータを思い出して見ました。各県と周囲の県との名字で関係がどの程度あるかを見てます。山梨県は少し変わっていました。群馬県も見ましたが、どちらも奈良県とは薄い関係のようなので、奈良時代にこだわるものではないと思われます。
山梨県が、福井県→岐阜県→長野県や三重県→静岡県と結びついていることがわかり、西の方との関係が強そうなことは図で出ているようです。岡山県も関係ありそうです。この辺は誤差かもしれません。謎は残ったままです。
群馬県の図からは、茨城県の方とのつながりもあり、西は長野県の方ともつながりがあるようですが、山梨県・静岡県の方はそれほどでもないことはわかります。
所見年代は国司一覧より。このような本があることを知りませんでした。
日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行
(http://yasudakasetu.blogspot.jp/2017/11/blog-post_18.html)
日本史総覧の国司の所見順を見ると、上野・下野が和銅元年(七〇三)に対して、甲斐は天平三年(七三一)で遅いです。律令制としての始まりは三〇年ほど違います。近江国でも近江朝廷があったので、国司の初出が早いように思いましたが、和銅元年です。ばらつ愛きがあるのかもしれません。信濃も和銅元年ですので、信濃→上野・下野のコースがあり、甲斐からのコースが関係が薄いように思われて来ました。
名字の各県別のデータを思い出して見ました。各県と周囲の県との名字で関係がどの程度あるかを見てます。山梨県は少し変わっていました。群馬県も見ましたが、どちらも奈良県とは薄い関係のようなので、奈良時代にこだわるものではないと思われます。
山梨県が、福井県→岐阜県→長野県や三重県→静岡県と結びついていることがわかり、西の方との関係が強そうなことは図で出ているようです。岡山県も関係ありそうです。この辺は誤差かもしれません。謎は残ったままです。
群馬県の図からは、茨城県の方とのつながりもあり、西は長野県の方ともつながりがあるようですが、山梨県・静岡県の方はそれほどでもないことはわかります。
所見年代は国司一覧より。このような本があることを知りませんでした。
日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行
2017年11月19日日曜日
動物名が含まれた人名
NHK,日本人のお名前に感化されてるかもしれません。
上野三碑で、「多胡碑」に人名と思われる「羊」がありましたが、なんだろうということです。
今年の第六九回正倉院展で動物名のついた人物が多くある戸籍が展示されていました。図録で見るとNo.40続々修正倉院古文書 第三十五帙第五巻
下総国葛飾郡大島郷戸籍《しもうさのくにかつしかぐんおおしまごうこせき》ほか
これには、刀良《とら》、刀良売《とらめ》、乎刀良《おとら》、竜麻呂《たつまろ》、馬手《うまて》、比都自《ひつじ》、佐留《さる》、鳥、犬売、猪、子猪などが見え、図版は養老五年(七四五年)、今の東京都葛飾区に比定されています。と書かれています。
サルということで、昔に読んだ梅原猛著『水底の歌-柿本人麻呂論』を思い出しました。名誉剥奪ということで、名前を人からサルに変えさせられたということでした。ウィキペディアで、柿本人麻呂を見ると、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。とのことでした。
藤原宇合《うまかい》は、馬を飼うということで人間の立場の名前で、しかも遣唐使の時に変えたので問題はないと思います。高橋虫麻呂の方は知らない人だったので、図書館で
「旅に棲む、高橋虫麻呂論、中西進著、角川書店」を借りてきました。虫麻呂と宇合は万葉集の中で密接な関係があるようでした。本文をほとんど読んでませんが、終わりにの後ろに、高橋虫麻呂について書いてあります。虫麻呂については史書には登場せず、良くわからないそうです。虫麻呂は変な名前だと言うことで調べられていて、虫麻呂は万葉集で五人登場して、安倍虫麻呂、高橋虫麻呂以外は東国出身者は防人の名前で三名だそうです。東国に多い名前かと思いましたが、古代の文献調査では、出身地のわかっている虫麻呂三六人中、二十三人が畿内で、東国関係者は九名とのことです。虫のつく名前が東国に限らないということになります。途中理解できていませんが、最終的に高橋の姓から虫麻呂は、東国出身と言うことのようです。蔑称かどうかはわかりませんでした。
私の手がかりとなるのは、大化の改新での蘇我氏があります。日本書紀では蘇我氏は悪者ですので、フィクションと考えて、自由に名前をつけられたとすれば、馬子と入鹿で、動物の名前です。また蝦夷も人間ですが蛮族的なイメージで、全体として蔑称としてつけられたと考えられます。動物の名などは、トップエリートには使われなかったように思われ、当時の人も動物名に高貴なイメージを持たなかったと思います。ウィキペディアに逆らうようですが、蔑称のような気がします。
上野三碑については、ユーチューブにありました。
良くわかっていなかったのですが、ありがたいことです。
上野三碑
https://youtu.be/S2bLs2RDW5U
上野三碑「多胡碑」
https://youtu.be/fYoLn0poCtg
上野三碑で、「多胡碑」に人名と思われる「羊」がありましたが、なんだろうということです。
今年の第六九回正倉院展で動物名のついた人物が多くある戸籍が展示されていました。図録で見るとNo.40続々修正倉院古文書 第三十五帙第五巻
下総国葛飾郡大島郷戸籍《しもうさのくにかつしかぐんおおしまごうこせき》ほか
これには、刀良《とら》、刀良売《とらめ》、乎刀良《おとら》、竜麻呂《たつまろ》、馬手《うまて》、比都自《ひつじ》、佐留《さる》、鳥、犬売、猪、子猪などが見え、図版は養老五年(七四五年)、今の東京都葛飾区に比定されています。と書かれています。
サルということで、昔に読んだ梅原猛著『水底の歌-柿本人麻呂論』を思い出しました。名誉剥奪ということで、名前を人からサルに変えさせられたということでした。ウィキペディアで、柿本人麻呂を見ると、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。とのことでした。
藤原宇合《うまかい》は、馬を飼うということで人間の立場の名前で、しかも遣唐使の時に変えたので問題はないと思います。高橋虫麻呂の方は知らない人だったので、図書館で
「旅に棲む、高橋虫麻呂論、中西進著、角川書店」を借りてきました。虫麻呂と宇合は万葉集の中で密接な関係があるようでした。本文をほとんど読んでませんが、終わりにの後ろに、高橋虫麻呂について書いてあります。虫麻呂については史書には登場せず、良くわからないそうです。虫麻呂は変な名前だと言うことで調べられていて、虫麻呂は万葉集で五人登場して、安倍虫麻呂、高橋虫麻呂以外は東国出身者は防人の名前で三名だそうです。東国に多い名前かと思いましたが、古代の文献調査では、出身地のわかっている虫麻呂三六人中、二十三人が畿内で、東国関係者は九名とのことです。虫のつく名前が東国に限らないということになります。途中理解できていませんが、最終的に高橋の姓から虫麻呂は、東国出身と言うことのようです。蔑称かどうかはわかりませんでした。
私の手がかりとなるのは、大化の改新での蘇我氏があります。日本書紀では蘇我氏は悪者ですので、フィクションと考えて、自由に名前をつけられたとすれば、馬子と入鹿で、動物の名前です。また蝦夷も人間ですが蛮族的なイメージで、全体として蔑称としてつけられたと考えられます。動物の名などは、トップエリートには使われなかったように思われ、当時の人も動物名に高貴なイメージを持たなかったと思います。ウィキペディアに逆らうようですが、蔑称のような気がします。
上野三碑については、ユーチューブにありました。
良くわかっていなかったのですが、ありがたいことです。
上野三碑
https://youtu.be/S2bLs2RDW5U
上野三碑「多胡碑」
https://youtu.be/fYoLn0poCtg
2017年11月18日土曜日
甲府盆地の方言「ん」
上野三碑がある理由を考えていて
私は、律令制が西日本から始まったと考えています。しかし群馬県高崎市にこの時代の碑文が残されていることのつじつま合わせを考えないといけなくなりました。日本の方言は、大雑把には東西対立ということが言われています。動詞の否定形に現れていて、、言わないと言わん(いわへん)、書かないと書かん(書けへん)という使い方に差があります。
私はこれは、西日本に律令制が取り入れられた時に起こったと考えています。律令制は短期間に崩壊したので、この分布が現在まで残ったということです。これは、名字が律令制により出来て、律令制の崩壊と共に西日本特有の名字として残っていることと対応しているということです。
方言の本を図書館から借りてきて、パラパラとみて、上野三碑と甲府盆地の「ん」が結びつきそうな気がしてきました。
ことばの地理学ーー方言はなぜそこにあるのか?
大西拓一郎著、株式会社 大修館書店
この本の第一章 川をのぼった「言わん」の「ん」、この中でことばの東西対立について述べられています。ここでの問題点として、甲府盆地に否定の「ん」が孤立してあることが邪魔になるとのことです。東西対立がうまく説明出来ないと言うことです。
考え方としては、もともと東日本の分布があるところへ、後から西日本の「ん」がもたらされたということであるとして、富士川からの水運で、内陸部ではできない塩などの生活必需品が西日本の人を通じて言葉も伝わったということである。この時期は富士川水運の開設時期であれば、四〇〇年前になるとのことである。とあります。
私はただの思い込みですが、条里制の田んぼの開発には盆地の地形が有利に働くように思われ(奈良に都が出来た遠因に盆地であって、排水処理に有利な地域であり、農地開発から多数の人を養うまでに農業生産が出来たのではと思っています)、ある程度甲府盆地に早い時期に西日本からすぐれた土木技術を持った人が入ったと思われます。しかもある程度の人数でないと、その土地の人の言葉の影響を受けてしまうので、集団移住と想像されます。富士川を通って、甲府盆地に定着した可能性はあります。
これは山梨県の話ですが、この付近に小林の名字が多く、また小林は「沢」のつく名字と相関があります。林は近畿地方に多く、林が移住して小林になったのではないかと考えています。また沢がなぜ多いのかということも、戸籍が整えられ、同時期にこの地に「沢」のつく名字が生まれたのではと妄想されます。名字については長野県の方にも分布が広がり、断定出来にくいところがありますので違うかもしれません。現時点での思いつきです。その後、この律令制の成果を見て、上野・下野の方にも拡散し、上野三碑が出来たのではということです。
少し時代が下がりますが、称徳天皇の崩御により、弓削道鏡が下野国に左遷されます。この地域が七七〇年頃の版図の境の地域であったと当時の政権に認識されていたと思われます。
パズルのピースがはまってきた感じがします。この妄想から逃れられません。
あと、ついでですが、甲斐国の名です。ウィキペディアに説明がありました。そうだろうと思います。
近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している[1]。
^ 平川南「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、山梨県立博物館)、p.12
山梨県
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html
林と小林
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/09/blog-post_5.html
私は、律令制が西日本から始まったと考えています。しかし群馬県高崎市にこの時代の碑文が残されていることのつじつま合わせを考えないといけなくなりました。日本の方言は、大雑把には東西対立ということが言われています。動詞の否定形に現れていて、、言わないと言わん(いわへん)、書かないと書かん(書けへん)という使い方に差があります。
私はこれは、西日本に律令制が取り入れられた時に起こったと考えています。律令制は短期間に崩壊したので、この分布が現在まで残ったということです。これは、名字が律令制により出来て、律令制の崩壊と共に西日本特有の名字として残っていることと対応しているということです。
方言の本を図書館から借りてきて、パラパラとみて、上野三碑と甲府盆地の「ん」が結びつきそうな気がしてきました。
ことばの地理学ーー方言はなぜそこにあるのか?
大西拓一郎著、株式会社 大修館書店
この本の第一章 川をのぼった「言わん」の「ん」、この中でことばの東西対立について述べられています。ここでの問題点として、甲府盆地に否定の「ん」が孤立してあることが邪魔になるとのことです。東西対立がうまく説明出来ないと言うことです。
考え方としては、もともと東日本の分布があるところへ、後から西日本の「ん」がもたらされたということであるとして、富士川からの水運で、内陸部ではできない塩などの生活必需品が西日本の人を通じて言葉も伝わったということである。この時期は富士川水運の開設時期であれば、四〇〇年前になるとのことである。とあります。
私はただの思い込みですが、条里制の田んぼの開発には盆地の地形が有利に働くように思われ(奈良に都が出来た遠因に盆地であって、排水処理に有利な地域であり、農地開発から多数の人を養うまでに農業生産が出来たのではと思っています)、ある程度甲府盆地に早い時期に西日本からすぐれた土木技術を持った人が入ったと思われます。しかもある程度の人数でないと、その土地の人の言葉の影響を受けてしまうので、集団移住と想像されます。富士川を通って、甲府盆地に定着した可能性はあります。
これは山梨県の話ですが、この付近に小林の名字が多く、また小林は「沢」のつく名字と相関があります。林は近畿地方に多く、林が移住して小林になったのではないかと考えています。また沢がなぜ多いのかということも、戸籍が整えられ、同時期にこの地に「沢」のつく名字が生まれたのではと妄想されます。名字については長野県の方にも分布が広がり、断定出来にくいところがありますので違うかもしれません。現時点での思いつきです。その後、この律令制の成果を見て、上野・下野の方にも拡散し、上野三碑が出来たのではということです。
少し時代が下がりますが、称徳天皇の崩御により、弓削道鏡が下野国に左遷されます。この地域が七七〇年頃の版図の境の地域であったと当時の政権に認識されていたと思われます。
パズルのピースがはまってきた感じがします。この妄想から逃れられません。
あと、ついでですが、甲斐国の名です。ウィキペディアに説明がありました。そうだろうと思います。
近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している[1]。
^ 平川南「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、山梨県立博物館)、p.12
山梨県
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html
林と小林
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/09/blog-post_5.html
2017年11月17日金曜日
奈良時代
奈良時代とか平安時代とか今まで意識して来なかったのですが、奈良時代というのは大変な時代ではなかったかという気がしてきました。七一〇年から七九四年まで短期間です。律令制がうまくいかない中での、彷徨。問題続発の中で解決のために平安京遷都が行われたと思います。その前の長岡京に遷都するのも主導者の藤原種継が暗殺されています。遷都しなければ、大和の政権は崩壊していたかもしれません。このような混乱した中にあって、天平文化が花開いたといわれるのがすごくギャップがあります。正倉院展で以前展示された聖武天皇の仕込杖など印象に残っています。クーデター的なことを常に意識していたかのような遺品に驚いたことを思い出します。文化的にすぐれていたものが残っているということと、政治的には不安定であること、これがどうつながるのかということが、今後考えていかないといけないことであると思います。
万葉集にも大仏開眼の話はないように思われます。無視することで、大仏反対の無言の抵抗をしているような気もします。山水画で雪を表すのに墨で周りを示して余白に雪を感じさせるように、記述がないと言うことも意味があるかもしれないです。
家持略年譜を見ると、大仏開眼供養の天平勝宝四年(七五二年)、二月に大伴御行の歌が出てきます。四月開眼供養がありましたが、十一月の橘諸兄宅の宴歌まで作歌がないそうです。略年譜の一般事項の欄に開眼供養の終了後に天皇(孝謙天皇のこと)は藤原仲麻呂邸に還御する。とあります。何かあったように勘ぐります。
オリンピックのような祭典が行われたとして、周辺で大規模な反対デモがあったことが記録から抹殺され、後の人が平和な時代だったと錯覚するような可能性があるのではということです。
このあたり思いつきです。図書館に返却しないといけないので、また読むことあるかもしれません。メモっておきます。
家持略年譜は、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著
全体に読まないといけないと思った本は
万葉集をどう読むか
ーー歌の「発見」と漢字世界 神野志隆光著、東京大学出版会
昔の記事の引用です。
東大寺
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html
万葉集にも大仏開眼の話はないように思われます。無視することで、大仏反対の無言の抵抗をしているような気もします。山水画で雪を表すのに墨で周りを示して余白に雪を感じさせるように、記述がないと言うことも意味があるかもしれないです。
家持略年譜を見ると、大仏開眼供養の天平勝宝四年(七五二年)、二月に大伴御行の歌が出てきます。四月開眼供養がありましたが、十一月の橘諸兄宅の宴歌まで作歌がないそうです。略年譜の一般事項の欄に開眼供養の終了後に天皇(孝謙天皇のこと)は藤原仲麻呂邸に還御する。とあります。何かあったように勘ぐります。
オリンピックのような祭典が行われたとして、周辺で大規模な反対デモがあったことが記録から抹殺され、後の人が平和な時代だったと錯覚するような可能性があるのではということです。
このあたり思いつきです。図書館に返却しないといけないので、また読むことあるかもしれません。メモっておきます。
家持略年譜は、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著
全体に読まないといけないと思った本は
万葉集をどう読むか
ーー歌の「発見」と漢字世界 神野志隆光著、東京大学出版会
昔の記事の引用です。
東大寺
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2017年11月16日木曜日
天智天皇と天武天皇
淡海三船が出てきたので、また天皇の名前を考えました。以前に「元」の字の天皇を考えましたが、今回、この二人になぜ、天がつくのだろうということです。天照大神も最初に天がつきます。奈良時代は、天武系から天智系へ、変わりつつある時代で、皇位継承で政変が多発しています。淡海三船はこの対立が無くなることを望んでいたのではないかという気がしてきました。天皇のスタートが実質的に、この二人にあるとして、両者に天の字を用い、次の持統天皇に合体するようになってほしいと考えたのかもしれません。当時においては、天武系が嫌われていて、多数派の支持を得た藤原氏が、手段を選ばぬ方法をとって天武系の追い落としをしても認められたのではないかと思われます。前から天智天皇と天武天皇は兄弟ではないと思っていて、それが何かしらに影響しないのでどうでも良いという考えでしたが、それではだめなのかもしれないと思います。唐向けに書かれた日本書紀では神武天皇から始まりますが、天智天皇と天武天皇が兄弟でないとすると、男子王の継続を重視する男尊女卑的な中国では認めてもらえない可能性があります。天武天皇が新王朝の祖となり、神武天皇以来の歴史を作成したのが無意味になることを恐れ、そのために、不自然ですが、兄弟としたということではないでしょうか。淡海三船は天智派と天武派の融和を考え、大伴氏に近づき、天智派の反発を受ける結果になって、朝廷誹謗事件とされたのではという憶測です。単なる思いつきです。
天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_17.html
系図については、東大寺
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html
天皇の名前
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系図については、東大寺
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2017年11月15日水曜日
一族を諭《さと》す歌、万葉集
引用が長くて、言いたいことは最後の方の三行ぐらいです。
大伴家持の最後の長歌といわれます。万葉集巻二十・四四六五
この歌を作った事情は左注に
右、淡海三船《あふみのまひと》の讒言《ざんげん》に縁《よ》りて、出雲守大伴古慈斐宿袮、任を解かる。是を以ちて家持此の歌を作れり。
とある。淡海三船という者の讒言によって一族の長老、出雲守大伴古慈斐が解任されるという事件があったからだという。一族を諭す歌は短歌ではできない。長歌ならではの役目である。作ったのは天平勝宝八歳(七百五十六)六月十七日とある。この事件は正史である「続日本紀」によれば、その天平勝宝八歳五月十日の条に、
出雲国守従四位上大伴宿袮古慈斐・内堅《ないじゅ》 淡海真人三船、朝廷を誹謗して、人臣の礼無きに座《つみ》せられて、左右衛士府に禁せらる。
とある。そして三日後に二人そろって許されたという。天皇は孝謙女帝で、この事件の八日前、五月二日に聖武太上天皇が崩御されて、文武百官をはじめ国中が喪に服しているさ中に、この事件があったのである。
以上、
大伴家持、小野寛著、コレクション日本歌人選042、笠間書院より引用。
この事件に関して」、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にくわしく述べられている。
この事件の前に大伴家持の理解者であった橘諸兄が左大臣を辞任している(七五六年二月)。この原因が、前年一一月の酒宴で、佐味宮守に、「大臣飲酒の庭にして言辞礼無し、稍《やや》反状あり云々《うんぬん》」と、密告されている。宮守は翌々年七月に従八位上からいっきょに従五位下に昇進しているとのことで、密告の功だとしている。天平勝宝八歳、諸兄辞任の年、五月聖武上皇崩御、遺詔として皇太子に天武天皇の皇孫、道祖《ふなど》王が立てられた。その時に事件が起こったことになる。
続日本紀では淡海三船・大伴古慈斐共に悪者ですが、大伴家持の認識では、天智天応系の不満分子の淡海三船に引き込まれてしまったということで、大伴一族が滅ぼされないよう、今後の軽挙妄動を慎み、自重せよとのメッセージのようです。
長々とした文章ですみません。注目すべきは、淡海三船が体制批判的な立場の人間であると思われていたことです。一族を諭す歌はこれを示しているように思われました。
天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_17.html
推古天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_15.html
大伴家持の最後の長歌といわれます。万葉集巻二十・四四六五
この歌を作った事情は左注に
右、淡海三船《あふみのまひと》の讒言《ざんげん》に縁《よ》りて、出雲守大伴古慈斐宿袮、任を解かる。是を以ちて家持此の歌を作れり。
とある。淡海三船という者の讒言によって一族の長老、出雲守大伴古慈斐が解任されるという事件があったからだという。一族を諭す歌は短歌ではできない。長歌ならではの役目である。作ったのは天平勝宝八歳(七百五十六)六月十七日とある。この事件は正史である「続日本紀」によれば、その天平勝宝八歳五月十日の条に、
出雲国守従四位上大伴宿袮古慈斐・内堅《ないじゅ》 淡海真人三船、朝廷を誹謗して、人臣の礼無きに座《つみ》せられて、左右衛士府に禁せらる。
とある。そして三日後に二人そろって許されたという。天皇は孝謙女帝で、この事件の八日前、五月二日に聖武太上天皇が崩御されて、文武百官をはじめ国中が喪に服しているさ中に、この事件があったのである。
以上、
大伴家持、小野寛著、コレクション日本歌人選042、笠間書院より引用。
この事件に関して」、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にくわしく述べられている。
この事件の前に大伴家持の理解者であった橘諸兄が左大臣を辞任している(七五六年二月)。この原因が、前年一一月の酒宴で、佐味宮守に、「大臣飲酒の庭にして言辞礼無し、稍《やや》反状あり云々《うんぬん》」と、密告されている。宮守は翌々年七月に従八位上からいっきょに従五位下に昇進しているとのことで、密告の功だとしている。天平勝宝八歳、諸兄辞任の年、五月聖武上皇崩御、遺詔として皇太子に天武天皇の皇孫、道祖《ふなど》王が立てられた。その時に事件が起こったことになる。
続日本紀では淡海三船・大伴古慈斐共に悪者ですが、大伴家持の認識では、天智天応系の不満分子の淡海三船に引き込まれてしまったということで、大伴一族が滅ぼされないよう、今後の軽挙妄動を慎み、自重せよとのメッセージのようです。
長々とした文章ですみません。注目すべきは、淡海三船が体制批判的な立場の人間であると思われていたことです。一族を諭す歌はこれを示しているように思われました。
天皇の名前
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推古天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_15.html
2017年11月14日火曜日
山名村碑文(山ノ上碑文)
万葉集づいています。図書館から
万葉集をどう読むかー「歌の発見」と漢字世界、高野志隆光著、東京大学出版会
を借りてきました。万葉集をテキストとして読むということですが、良くわかっていません。最後まで読めるかわかりませんが、最初の所に山名村碑文が取り上げられています。辛巳歳に長利の僧が母の黒売刀自のために文を記し定めたというもので、そばにある円墳の墓誌と考えられている。 とのことで、場所は群馬県高崎市で、辛巳歳が六百八十一年と考えられています。この年は天武天皇十年となるそうです。私の東国のイメージと異なるのでショックでした。辛巳《かのとみ、しんし》は、ウィキペディアで見れば、六百二十一年、六百八十一年、七百四十一年、八百一年付近で、私の願望としては七百四十一年になってほしいと思いますが、事実を受け入れないといけないようです。
近畿地方で、律令制が始まった時期にすでに東国に文字の文化や僧や寺ということで仏教が広まっていく時代であったということです。
この碑文は、上野三碑《こうずけさんぴ》の一つで、他の二つはこれよりも時代が後のようです。多胡碑は和銅四年(七百十一年)のもので、多胡郡を建郡したときのもののようで、律令制のグループがこの地に入ったということだろうと思います。もう一つの金井沢碑は、神亀三年(七百二十六年)に仏教に入信した内容らしいので、律令制が行き詰まってきて、その解決策の仏教による鎮護国家思想と対応していると思えます。律令制が全国的に広がるのに、時間がかかるのであるものの、瞬時に伝わった地域があったということだろうと解釈しておきます。変化が急なので、緻密に年代を考えないといけないように思われます。
https://kotobank.jp/word/上野三碑-62405
追記(H39.11.16)
高崎市の文化財ページより
山上碑及び古墳
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600132/
金井沢碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600231/
多胡碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600286/
万葉集をどう読むかー「歌の発見」と漢字世界、高野志隆光著、東京大学出版会
を借りてきました。万葉集をテキストとして読むということですが、良くわかっていません。最後まで読めるかわかりませんが、最初の所に山名村碑文が取り上げられています。辛巳歳に長利の僧が母の黒売刀自のために文を記し定めたというもので、そばにある円墳の墓誌と考えられている。 とのことで、場所は群馬県高崎市で、辛巳歳が六百八十一年と考えられています。この年は天武天皇十年となるそうです。私の東国のイメージと異なるのでショックでした。辛巳《かのとみ、しんし》は、ウィキペディアで見れば、六百二十一年、六百八十一年、七百四十一年、八百一年付近で、私の願望としては七百四十一年になってほしいと思いますが、事実を受け入れないといけないようです。
近畿地方で、律令制が始まった時期にすでに東国に文字の文化や僧や寺ということで仏教が広まっていく時代であったということです。
この碑文は、上野三碑《こうずけさんぴ》の一つで、他の二つはこれよりも時代が後のようです。多胡碑は和銅四年(七百十一年)のもので、多胡郡を建郡したときのもののようで、律令制のグループがこの地に入ったということだろうと思います。もう一つの金井沢碑は、神亀三年(七百二十六年)に仏教に入信した内容らしいので、律令制が行き詰まってきて、その解決策の仏教による鎮護国家思想と対応していると思えます。律令制が全国的に広がるのに、時間がかかるのであるものの、瞬時に伝わった地域があったということだろうと解釈しておきます。変化が急なので、緻密に年代を考えないといけないように思われます。
https://kotobank.jp/word/上野三碑-62405
追記(H39.11.16)
高崎市の文化財ページより
山上碑及び古墳
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600132/
金井沢碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600231/
多胡碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600286/
2017年11月12日日曜日
大伴家持経歴
大伴家持の万葉集の終わりごろの時代が不明だったので、
王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にある年表を見ました。
・天平勝宝七年(七百五十五年)、兵部少輔として防人検閲、歌を記録
・天平勝宝八年(七百五十六年)大伴古慈斐《おおとものこしび》の事件で一族を諭す歌
・天平宝字元年(七百五十七年)橘奈良麻呂の乱が起こり、関連したとして大伴氏一族は処罰されます。家持は無関係とのことでしたが、翌年、因幡守に左遷されます。
・天平宝字三年(七百五十九年)正月に万葉集最後の歌を詠むことになります。
・天平宝字六年(七百六十二年)には、信部大輔に任じられ、帰京
・天平宝字八年(七百六十四年)正月に政争で、薩摩守へ左遷される
・宝亀元年(七百七十年)民部少輔となり帰京、光仁天皇の時代になる
・天応元年(七百八十一年)は、従三位になる。母の喪のため一時解任
・天応二年(七百八十二年)正月、氷上川継の乱への関与を疑われ、解官されますが、四月には罪を赦され、復任
・翌延暦二年には中納言に昇進
・延暦四年(七百八十五年)八月薨去。
・同年九月、藤原種継暗殺事件が起こり、家持が首謀者とされ、官籍から除名
・延暦二十五年(八百六年)勅により本位に復す。このころから万葉集も世に出たか、とあります。
浮き沈みの大きい人生で、後半生は万葉集どころではなかったかもしれません。この時代女性の天皇が多く、律令制度もうまく働かず、政争も頻発していたように思えます。「大伴」の意味は、大家《おおやけ》(皇室)に直属するという意味が含まれているらしくて、格別に有力な伴造《とものみやつこ》氏族とのことである(最初に示した本より)とのことで、神話の時代はわかりませんが、天武天皇の時代には壬申の乱で大伴氏が活躍した名門です。一方、藤原氏は、日本書紀の大化の改新で、天智天皇を助けた中臣鎌足からの名門です。この時代、どういうわけか、天武系の天皇から天智系の天皇に変わっていくのに対応して、大伴氏などが排除されていくように思えます。
以前に書いていたもの、今回思い出しました。同じようなことを何度も言ってます。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/10/blog-post_13.html
王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にある年表を見ました。
・天平勝宝七年(七百五十五年)、兵部少輔として防人検閲、歌を記録
・天平勝宝八年(七百五十六年)大伴古慈斐《おおとものこしび》の事件で一族を諭す歌
・天平宝字元年(七百五十七年)橘奈良麻呂の乱が起こり、関連したとして大伴氏一族は処罰されます。家持は無関係とのことでしたが、翌年、因幡守に左遷されます。
・天平宝字三年(七百五十九年)正月に万葉集最後の歌を詠むことになります。
・天平宝字六年(七百六十二年)には、信部大輔に任じられ、帰京
・天平宝字八年(七百六十四年)正月に政争で、薩摩守へ左遷される
・宝亀元年(七百七十年)民部少輔となり帰京、光仁天皇の時代になる
・天応元年(七百八十一年)は、従三位になる。母の喪のため一時解任
・天応二年(七百八十二年)正月、氷上川継の乱への関与を疑われ、解官されますが、四月には罪を赦され、復任
・翌延暦二年には中納言に昇進
・延暦四年(七百八十五年)八月薨去。
・同年九月、藤原種継暗殺事件が起こり、家持が首謀者とされ、官籍から除名
・延暦二十五年(八百六年)勅により本位に復す。このころから万葉集も世に出たか、とあります。
浮き沈みの大きい人生で、後半生は万葉集どころではなかったかもしれません。この時代女性の天皇が多く、律令制度もうまく働かず、政争も頻発していたように思えます。「大伴」の意味は、大家《おおやけ》(皇室)に直属するという意味が含まれているらしくて、格別に有力な伴造《とものみやつこ》氏族とのことである(最初に示した本より)とのことで、神話の時代はわかりませんが、天武天皇の時代には壬申の乱で大伴氏が活躍した名門です。一方、藤原氏は、日本書紀の大化の改新で、天智天皇を助けた中臣鎌足からの名門です。この時代、どういうわけか、天武系の天皇から天智系の天皇に変わっていくのに対応して、大伴氏などが排除されていくように思えます。
以前に書いていたもの、今回思い出しました。同じようなことを何度も言ってます。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/10/blog-post_13.html
万葉集、防人歌一首
東歌《あずまうた》・防人歌《さきもりうた》 近藤信義著、コレクション日本歌人選022、笠間書院
という本を見ました。この中に、東歌三十六首、防人歌十四首、解説などがあります。すべての防人歌の中で独自性が際立っているとしている歌を引用します。出典:万葉集・防人歌・四三八二
「ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がするときに防人に差す」
「ふたほがみ」や「あたゆまひ」が良くわからないそうですが、「ゆまひ」が病のようで、訳として「ふたほがみは悪い人だ。私が不都合な状態にあって苦しんでいるのに、こともあろうに防人に指名するとは・・・・・・」とのことです。
このような不満の歌はいくらでもあるかもしれませんが、大伴家持が握りつぶせば、世に現れることはありません。うっかりと入ったものではなく、家持の意思があったと思います。
この歌は、先の本には、巻二〇の天平勝宝七歳(七百五十五年)二月、東国十ヶ国から防人が徴集され、難波に集結したときの歌の一つです。家持は、兵部少輔の位にあり、検校《けんぎょう》(監査役)として関わり、防人は難波到着時に進歌(歌をたてまつること)を求められていたので、家持はこれを受け取ったということです。家持は、進歌の日付、部領使(引率責任者、国司相当の役職)の国名、官名、氏名、進歌数などをきちんと記録しているそうです。巻十四の防人の歌には名前が無いことから、家持ちは武人として防人を遇したあらわれであろうと書かれています。私には、家持が、防人と同じ環境(防人が侵略していった東国の元支配層の人のイメージ)にあるとの意識を持っていて、丁重な対応をしたように思われます。
作者は下野国那須郡上丁大伴広成とのことです。大伴氏ということで、家持とは関係ある人かもしれません。また、家持が防人の歌に仮託して入れた可能性があるかもとも思います。体制を批判する歌がたくさんあれば問題ですが、一つだけ忍ばせているので、万葉集の歌を抜粋して選ぶときには、省かれてしまいそうです。ハンドブック的な本を見たりしていて、今回、近藤氏の本を見て、はじめて知りました。この体制批判的な問題発言の歌ですが、歌としては単に文句を言ってるだけなので、拙劣歌のように私には思われます。あえて拙劣歌を一首入れて、防人に文句のある歌がほかにもいっぱいあるよという暗示かもしれません。物言えば唇寒しの時代であったろうとは思います。このあと、天平宝字元年(七百五十七年)には東国からの防人は中止されたそうです。
という本を見ました。この中に、東歌三十六首、防人歌十四首、解説などがあります。すべての防人歌の中で独自性が際立っているとしている歌を引用します。出典:万葉集・防人歌・四三八二
「ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がするときに防人に差す」
「ふたほがみ」や「あたゆまひ」が良くわからないそうですが、「ゆまひ」が病のようで、訳として「ふたほがみは悪い人だ。私が不都合な状態にあって苦しんでいるのに、こともあろうに防人に指名するとは・・・・・・」とのことです。
このような不満の歌はいくらでもあるかもしれませんが、大伴家持が握りつぶせば、世に現れることはありません。うっかりと入ったものではなく、家持の意思があったと思います。
この歌は、先の本には、巻二〇の天平勝宝七歳(七百五十五年)二月、東国十ヶ国から防人が徴集され、難波に集結したときの歌の一つです。家持は、兵部少輔の位にあり、検校《けんぎょう》(監査役)として関わり、防人は難波到着時に進歌(歌をたてまつること)を求められていたので、家持はこれを受け取ったということです。家持は、進歌の日付、部領使(引率責任者、国司相当の役職)の国名、官名、氏名、進歌数などをきちんと記録しているそうです。巻十四の防人の歌には名前が無いことから、家持ちは武人として防人を遇したあらわれであろうと書かれています。私には、家持が、防人と同じ環境(防人が侵略していった東国の元支配層の人のイメージ)にあるとの意識を持っていて、丁重な対応をしたように思われます。
作者は下野国那須郡上丁大伴広成とのことです。大伴氏ということで、家持とは関係ある人かもしれません。また、家持が防人の歌に仮託して入れた可能性があるかもとも思います。体制を批判する歌がたくさんあれば問題ですが、一つだけ忍ばせているので、万葉集の歌を抜粋して選ぶときには、省かれてしまいそうです。ハンドブック的な本を見たりしていて、今回、近藤氏の本を見て、はじめて知りました。この体制批判的な問題発言の歌ですが、歌としては単に文句を言ってるだけなので、拙劣歌のように私には思われます。あえて拙劣歌を一首入れて、防人に文句のある歌がほかにもいっぱいあるよという暗示かもしれません。物言えば唇寒しの時代であったろうとは思います。このあと、天平宝字元年(七百五十七年)には東国からの防人は中止されたそうです。
2017年11月7日火曜日
戸籍、正倉院展(H29)の展示を見て
第六十九回正倉院展図録、No.40の下総国《しもうさのくに》葛飾郡《かつしかぐん》大島郷《おおしまごう》戸籍です。実物は良く見てなかったので、図録を見ています。この古文書は官営の写経所で作られた事務文書や帳簿の裏で、元は政府機関で使用済みの公文書の紙背を転用したもので す。従って、古い時代の養老五年(七百二十一年)のものとされています。
現在の戸籍と考えると全くの別物です。現在ある名字が出てきません。はじめて聞いたような穴王部《あなほべ》の姓がほとんどのようです。動物の名前のついた人物が多いのが特徴とのことです。現存地名との類似から、東京都葛飾区柴又に否定されているとのことで、古い時代の庚午年籍とかとは異なってきていると考えるしかありません。
思い出して、前年、第六十八回の図録を持ち出して見ました。No.57に、大宝二年(七百二年)に作成された御野国《みののくに》加毛郡《かもぐん》半布里《はにゅうり》戸籍がありました。現在の岐阜県加茂郡富加町羽生とその周辺に否定されるそうです。フォーマットが違うようですが、こちらの方が戸籍の雰囲気があります。戸主だけでなく戸口とかもありました。読解力の無さで所々しかわかりません。奴や婢の文字もありました。奴婢《ぬひ》(賤民)は男子が奴、女子が婢というそうです。これは、侵略していった地域で、元からいたその地域の人を農奴として取り込んだのではと思えてきます。
今に残っている名字と、この時代の戸籍とは全然結びつかず、大問題として残っています。サンプル数が少ないということで、これから考えていこうと思います。
現在の戸籍と考えると全くの別物です。現在ある名字が出てきません。はじめて聞いたような穴王部《あなほべ》の姓がほとんどのようです。動物の名前のついた人物が多いのが特徴とのことです。現存地名との類似から、東京都葛飾区柴又に否定されているとのことで、古い時代の庚午年籍とかとは異なってきていると考えるしかありません。
思い出して、前年、第六十八回の図録を持ち出して見ました。No.57に、大宝二年(七百二年)に作成された御野国《みののくに》加毛郡《かもぐん》半布里《はにゅうり》戸籍がありました。現在の岐阜県加茂郡富加町羽生とその周辺に否定されるそうです。フォーマットが違うようですが、こちらの方が戸籍の雰囲気があります。戸主だけでなく戸口とかもありました。読解力の無さで所々しかわかりません。奴や婢の文字もありました。奴婢《ぬひ》(賤民)は男子が奴、女子が婢というそうです。これは、侵略していった地域で、元からいたその地域の人を農奴として取り込んだのではと思えてきます。
今に残っている名字と、この時代の戸籍とは全然結びつかず、大問題として残っています。サンプル数が少ないということで、これから考えていこうと思います。
2017年11月4日土曜日
安田組、組紐
安田組は「あんだぐみ」と読みます。第六十九回正倉院展図録の最後の方の用語解説にありました。一間組《いっけんぐみ》を見よ、とのことでそちらを引用します。
「一間組・・組紐の組み方の一種。一条の進行経路が、他の条と交差するに当たり、他の一条の上に、また他の一条の下になりながら平面を形成してゆく。新羅組《しらぎぐみ》ともいう。なお正倉院の一間組は、組織を構成している各一条が、右撚《みぎよ》りの糸と左撚りの糸から成り立っており、一条があたかも一本の組紐のごとき様相を呈する点に特色がある。」
これを見て、図録本文のどこにあるのだろうと最初から見ていきました。するとNo.51の雑帯《ざったい》(組みものの帯)にありました。丸い文様だったらどうしようと不安でしたが、斜め格子でした。手法の詳細はわかりませんが、とにかく格子であったので、万歳の気分です。安田組=格子模様ということです。 今までは、安田の「安」が、唐の都、長安の「安」を表し、その都が条坊制なので、それを取り入れた田んぼの安田が条里制の田を表すと、私自身は納得していたのですが、他の人にはわかってもらってない感じでした。安田組から安田=条里制の田ということが、確定したと思います。また、安田組という言葉があることから、奈良時代には多くの人に「安田」ということが認識されていて、格子状の用語として使用されていたということです。少し前の日本書紀の編纂された時代にも「安田」という言葉が一般であって、当時の人には条里制と理解されていたと思います。
最後に安田組の文様を示します。
「一間組・・組紐の組み方の一種。一条の進行経路が、他の条と交差するに当たり、他の一条の上に、また他の一条の下になりながら平面を形成してゆく。新羅組《しらぎぐみ》ともいう。なお正倉院の一間組は、組織を構成している各一条が、右撚《みぎよ》りの糸と左撚りの糸から成り立っており、一条があたかも一本の組紐のごとき様相を呈する点に特色がある。」
これを見て、図録本文のどこにあるのだろうと最初から見ていきました。するとNo.51の雑帯《ざったい》(組みものの帯)にありました。丸い文様だったらどうしようと不安でしたが、斜め格子でした。手法の詳細はわかりませんが、とにかく格子であったので、万歳の気分です。安田組=格子模様ということです。 今までは、安田の「安」が、唐の都、長安の「安」を表し、その都が条坊制なので、それを取り入れた田んぼの安田が条里制の田を表すと、私自身は納得していたのですが、他の人にはわかってもらってない感じでした。安田組から安田=条里制の田ということが、確定したと思います。また、安田組という言葉があることから、奈良時代には多くの人に「安田」ということが認識されていて、格子状の用語として使用されていたということです。少し前の日本書紀の編纂された時代にも「安田」という言葉が一般であって、当時の人には条里制と理解されていたと思います。
最後に安田組の文様を示します。
2017年11月3日金曜日
正倉院展
今年も正倉院展に行ってきました。人出が多く、今回は少し遠慮がちに見学したので、細かく見れないところなどもありました。まあ仕方がないところもあります。正倉院展の図録を買ってきて、思い出しつつ書いています。
表紙は、緑瑠璃十二曲長杯(ミドリルリノジュウニキョクチョウハイ)です。これは長横の側面に兎の姿を刻んでいるとの事でしたが、私には龍のように見えてしまい、うさぎとは思えませんでした。
家に帰って図録を見れば、耳などがわかり、兎に見えてきました。その時は全然見えてなかったです。偏見を持つ体質かもしれません。
さて、今回の注目は、東大寺開田地図(越前国足羽郡糞置村田図) です。1,2。No.38展示。
今の福井県に、東大寺の開発した所領の図で、マス目は条里制を示しています。二枚目は一枚目の拡大図になっています。マスには番号が振られ、寺の表記が東大寺の所領で、百姓らしき表示が寺以外であろうと思われます。これは天平神護二年(七百六十八年)のもので、ほぼ同じものが天平宝字三年(七百五十九年)にあり、改めて七年後に本図が作成されたのは、国司等から不当な扱いをされたため、改めて寺領を確認するためのもので、左に越前国司と検田使(東大寺僧と造東大寺司官人で構成)の名があるとのことです。八世紀半ばで国司と寺とで領地争いがあったとのことです。
先の図に対応したのが、東南院古文書第三櫃第十八巻(越前国司解)で、No.39に展示されていました。目録の解説によれば、越前国司が、同国の東大寺領を検田使と共に調査し、天平神護二年(七百六十六年)に、その結果をまとめたものである。天平勝宝元年(七百四十九年)東大寺領となったものが、その後、国司が勝手に口分田として住民に班給したり、郡司などの寺の使いに対する暴力行為、灌漑施設の破壊などがあり、寺側が訴え、太政官が越前国司に命じて、正しい形に復することになった。
とのことです。
口分田(くぶんでん)とは、律令制において、六歳以上の男女へ支給された農地で、死後に返却するもので、税をそこから徴収することになります。墾田の文字もありました。墾田とは自分で新たに開発した土地のことで、墾田永年私財法が天平十五年(七百四十三年)に出されて、田地の開発が行われたようです。貴族・大寺院の私領化につながったとされますが、この頃には、口分田の不足などが墾田に紛れ込むなどの混乱があったように思われます。律令制が成立しなくなってゆく状況を示しているように感じます。このことにより、律令制の根幹となる戸籍が実態に合わなくなってきて、最終的にはなくなってしまったと考えられます。その結果、戸籍が成立した時代、律令制の時代が百年ほどでなくなってしまい、その大和の政権の領域が西日本に分布する名字分布として残ったということになりそうです。東日本などに広がる前にということです。
参考
第六十九回 正倉院展図録、八十四頁ー八十七頁
奈良国立博物館、展示案内、第六十九回正倉院展
表紙は、緑瑠璃十二曲長杯(ミドリルリノジュウニキョクチョウハイ)です。これは長横の側面に兎の姿を刻んでいるとの事でしたが、私には龍のように見えてしまい、うさぎとは思えませんでした。
家に帰って図録を見れば、耳などがわかり、兎に見えてきました。その時は全然見えてなかったです。偏見を持つ体質かもしれません。
さて、今回の注目は、東大寺開田地図(越前国足羽郡糞置村田図) です。1,2。No.38展示。
今の福井県に、東大寺の開発した所領の図で、マス目は条里制を示しています。二枚目は一枚目の拡大図になっています。マスには番号が振られ、寺の表記が東大寺の所領で、百姓らしき表示が寺以外であろうと思われます。これは天平神護二年(七百六十八年)のもので、ほぼ同じものが天平宝字三年(七百五十九年)にあり、改めて七年後に本図が作成されたのは、国司等から不当な扱いをされたため、改めて寺領を確認するためのもので、左に越前国司と検田使(東大寺僧と造東大寺司官人で構成)の名があるとのことです。八世紀半ばで国司と寺とで領地争いがあったとのことです。
先の図に対応したのが、東南院古文書第三櫃第十八巻(越前国司解)で、No.39に展示されていました。目録の解説によれば、越前国司が、同国の東大寺領を検田使と共に調査し、天平神護二年(七百六十六年)に、その結果をまとめたものである。天平勝宝元年(七百四十九年)東大寺領となったものが、その後、国司が勝手に口分田として住民に班給したり、郡司などの寺の使いに対する暴力行為、灌漑施設の破壊などがあり、寺側が訴え、太政官が越前国司に命じて、正しい形に復することになった。
とのことです。
口分田(くぶんでん)とは、律令制において、六歳以上の男女へ支給された農地で、死後に返却するもので、税をそこから徴収することになります。墾田の文字もありました。墾田とは自分で新たに開発した土地のことで、墾田永年私財法が天平十五年(七百四十三年)に出されて、田地の開発が行われたようです。貴族・大寺院の私領化につながったとされますが、この頃には、口分田の不足などが墾田に紛れ込むなどの混乱があったように思われます。律令制が成立しなくなってゆく状況を示しているように感じます。このことにより、律令制の根幹となる戸籍が実態に合わなくなってきて、最終的にはなくなってしまったと考えられます。その結果、戸籍が成立した時代、律令制の時代が百年ほどでなくなってしまい、その大和の政権の領域が西日本に分布する名字分布として残ったということになりそうです。東日本などに広がる前にということです。
参考
第六十九回 正倉院展図録、八十四頁ー八十七頁
奈良国立博物館、展示案内、第六十九回正倉院展
2017年11月2日木曜日
竜山石
兵庫県立考古博物館図録、「播磨国風土記」-神・人・山・海-
この中に、竜山石のことが載っています。
以下、抜き書きです。
----
近畿地方を中心とする古墳時代前期の大型古墳に使われた棺材といえば
長大なコウヤマキの丸太を刳り貫いた割竹形木棺最も普遍的なものでした。
一方、讃岐地方では前期後葉になると、さぬきに産する凝灰岩の一種である火山石や高松市の鷲の山石という安山岩を刳り貫いた石棺が開拓されます。鷲の山石製の石棺は河内の大型古墳でも採用が確認されており、大王墓の棺にも用いられた可能性があります。
ところが中期に長持形石棺が大王墓の石棺として採用されると鷲の山石ではなく高砂市周辺で産する竜山石が使われ、後期の横穴式石室に納められる家形石棺では、竜山石製石棺は播磨一円のみならず、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がるのです。
----
図録の168、竜山石製石棺と鷲の山石製石棺の図です。
高砂市にある生石神社の巨大なご神体、石の宝殿についても、図録では670年頃の説が有力視されているとあります。
石棺の分布図を見て、西日本に名字分布が偏っているのと重なってきます。これが戸籍ができた時代と重なってきて、古墳時代と律令制の開始の時代がつながってきたように思われます。
この中に、竜山石のことが載っています。
以下、抜き書きです。
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近畿地方を中心とする古墳時代前期の大型古墳に使われた棺材といえば
長大なコウヤマキの丸太を刳り貫いた割竹形木棺最も普遍的なものでした。
一方、讃岐地方では前期後葉になると、さぬきに産する凝灰岩の一種である火山石や高松市の鷲の山石という安山岩を刳り貫いた石棺が開拓されます。鷲の山石製の石棺は河内の大型古墳でも採用が確認されており、大王墓の棺にも用いられた可能性があります。
ところが中期に長持形石棺が大王墓の石棺として採用されると鷲の山石ではなく高砂市周辺で産する竜山石が使われ、後期の横穴式石室に納められる家形石棺では、竜山石製石棺は播磨一円のみならず、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がるのです。
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図録の168、竜山石製石棺と鷲の山石製石棺の図です。
高砂市にある生石神社の巨大なご神体、石の宝殿についても、図録では670年頃の説が有力視されているとあります。
石棺の分布図を見て、西日本に名字分布が偏っているのと重なってきます。これが戸籍ができた時代と重なってきて、古墳時代と律令制の開始の時代がつながってきたように思われます。
2017年10月29日日曜日
AI風 歴史エッ!声
安田仮説改訂版を購入していただいたことに気がつきませんでした。
遅くなりましたが、お礼申し上げます。ありがとうございます。
紙ベースで第3弾を考えてましたが、今回、結局、エッセイ風にまとめました。投稿のタイトルのものです。
前回は電子書籍ですが、なんとなく見にくく、今回の実際にページを繰る方が良さそうに
思っています。問題はコストです。どうしたもんか考えています。
プロモーション用の動画を作ってみました。明日までの制作予定と思っていたら、今日できてしまいました。何を言ってんのかというものです。
遅くなりましたが、お礼申し上げます。ありがとうございます。
紙ベースで第3弾を考えてましたが、今回、結局、エッセイ風にまとめました。投稿のタイトルのものです。
前回は電子書籍ですが、なんとなく見にくく、今回の実際にページを繰る方が良さそうに
思っています。問題はコストです。どうしたもんか考えています。
プロモーション用の動画を作ってみました。明日までの制作予定と思っていたら、今日できてしまいました。何を言ってんのかというものです。
カズオイシグロ「忘れられた巨人」
文学には興味ないので、ノーベル賞を取られたイシグロ氏については、全く知りませんでした。たまたま、テレビの「カズオイシグロの白熱教室」が再放送され、録画してたものをついつい見てしまいました。
この本の内容についても、読んでないので、もちろんわかってはおりませんが、たぶん、白熱教室で話となった「忘れられた記憶」のことがテーマだと思います。その白熱教室で、歴史の問題の話があって、過去の過ちにつきあうのは難しい。思い出さない方が良いのか悪いのかということが出てました。例として、イシグロ氏は第2次大戦後のフランスを取り上げておられます。
大戦中、フランスはドイツに占領され、その時にドイツ軍に協力する人と、反抗してレジスタンス運動を行った人と別れました。戦後、ドゴール大統領は、全員がフランスのために戦ったとして、偉大なフランスを目指すということで、対立を封印したそうです。この辺はちょっと違うかもしれません。とにかく、最近の事例でも、意識的に思い出さないようなことになっています。このことは、どこにでもあるような話かもしれません。
安田仮説も、古い時代の話で、私は今まで意識していませんでしたが、天皇制の問題など日本のタブーに関係してきて、だれも望まないことをやっているような気がしてきました。古い時代のことは時効のように感じられてきているようには思います。今後の日本にとって、かさぶたでおさまっている傷口を開けることになる可能性はあるかもと感覚的に思っています。しかし、多くの人が納得する形で、今後は受け入れていかなくてはならず、段々と認められつつあるのだろうという気でおります。
この本の内容についても、読んでないので、もちろんわかってはおりませんが、たぶん、白熱教室で話となった「忘れられた記憶」のことがテーマだと思います。その白熱教室で、歴史の問題の話があって、過去の過ちにつきあうのは難しい。思い出さない方が良いのか悪いのかということが出てました。例として、イシグロ氏は第2次大戦後のフランスを取り上げておられます。
大戦中、フランスはドイツに占領され、その時にドイツ軍に協力する人と、反抗してレジスタンス運動を行った人と別れました。戦後、ドゴール大統領は、全員がフランスのために戦ったとして、偉大なフランスを目指すということで、対立を封印したそうです。この辺はちょっと違うかもしれません。とにかく、最近の事例でも、意識的に思い出さないようなことになっています。このことは、どこにでもあるような話かもしれません。
安田仮説も、古い時代の話で、私は今まで意識していませんでしたが、天皇制の問題など日本のタブーに関係してきて、だれも望まないことをやっているような気がしてきました。古い時代のことは時効のように感じられてきているようには思います。今後の日本にとって、かさぶたでおさまっている傷口を開けることになる可能性はあるかもと感覚的に思っています。しかし、多くの人が納得する形で、今後は受け入れていかなくてはならず、段々と認められつつあるのだろうという気でおります。
2017年7月3日月曜日
大谷駅
京阪京津線の駅で、プラットホームが傾いていることに興味を持ちました。
ここは大津市大谷町にありますが、駅をおりたところに、由来として
「かってこのあたりが、深い谷間に挟まれていたことから名付けられた町名です」との表示がありました。いつの時代かわかりませんが、地形以来の地名のようです。明治時代には大谷町があるので、それ以前ということですが、近くに逢坂関跡の記念碑があるようで、かなり古い時代かもしれません。
国道と線路を挟んで谷間になっているような写真は撮れてません。
ここは大津市大谷町にありますが、駅をおりたところに、由来として
「かってこのあたりが、深い谷間に挟まれていたことから名付けられた町名です」との表示がありました。いつの時代かわかりませんが、地形以来の地名のようです。明治時代には大谷町があるので、それ以前ということですが、近くに逢坂関跡の記念碑があるようで、かなり古い時代かもしれません。
国道と線路を挟んで谷間になっているような写真は撮れてません。
2017年6月4日日曜日
奈良、旧国名地名
奈良県磯城郡田原本町に十六面というところがあります。漢字だけを見ていればわかりませんが、Jurokusenと読みます。道路の標識で知りました。線と面は適当なところがあり、角材のとがったところの角を落とすのを面取りと言います。実際は線取りだとは思いますが、この地も、「せん」の発音に漢字を当てるときに面としたのだと思います。奈良県の地名にはもともと発音していたものに、対応する意味の漢字を当てた痕跡が残っているのではということで、興味をもっています。
奈良の地名の本を図書館で借りてきました。
奈良地名の由来を歩く、谷川彰英著、KKベストセラーズです。
最後の第七章で、奈良の旧国名について書かれています。天理市では、上総・備前・武蔵。桜井市では出雲・吉備など、旧国名の地名が多く残っているということです。
この本で指摘されているのは、旧国名の地域が
①西日本に偏っている
②実は畿内の国名は見当たらない
③東海道沿いにはかなり勢力が伸びていたと考えられる。
④奈良市には皆無である
とのことです。
また、奈良県の図書館で
地名の考古学--奈良地名伝承論、池田末則著、勉誠出版、12000円(税別)
もちらっと見ました。こちらの本では、旧国名の地域が大和川流域の平坦部、藤原宮跡を中心とする地域となっています。
同じ国名の地域があることから、この地域の出身者が各地方に進出し、国名になったのではなく、各地域から人が集まり、その出身地の地名になったものと思われます。桜井市に残っている吉備というところはその横が安倍で、遣唐使で同期の阿倍仲麻呂と吉備真備とかの関係があったのかとも思います。
江戸時代の各大名の江戸屋敷みたいなものでそれぞれの地域の出先機関があったかもしれません。おそらく自給自足が原則で食べるものなども調達しなければならないので、ある程度の領域を必要としたのかもしれません。
安田仮説での地図との関連ですが、大雑把には、西日本中心ということで、まあ合ってるように思います。細かくには、名字が先で国名が後であり、日本の統一の過程があらわれているのだとは思いますが、良くわかりません。日本に漢字が導入され、文字を通じての中央集権化(言向け和す?)のような変化が奈良の地から急激に起こっていたのではということにしておきます。
下は奈良県基準の名字パターンの相関係数、奈良県の分布に近いほど黒っぽくなります。
奈良時代の影響が残っていると考えています。
奈良の地名の本を図書館で借りてきました。
奈良地名の由来を歩く、谷川彰英著、KKベストセラーズです。
最後の第七章で、奈良の旧国名について書かれています。天理市では、上総・備前・武蔵。桜井市では出雲・吉備など、旧国名の地名が多く残っているということです。
この本で指摘されているのは、旧国名の地域が
①西日本に偏っている
②実は畿内の国名は見当たらない
③東海道沿いにはかなり勢力が伸びていたと考えられる。
④奈良市には皆無である
とのことです。
また、奈良県の図書館で
地名の考古学--奈良地名伝承論、池田末則著、勉誠出版、12000円(税別)
もちらっと見ました。こちらの本では、旧国名の地域が大和川流域の平坦部、藤原宮跡を中心とする地域となっています。
同じ国名の地域があることから、この地域の出身者が各地方に進出し、国名になったのではなく、各地域から人が集まり、その出身地の地名になったものと思われます。桜井市に残っている吉備というところはその横が安倍で、遣唐使で同期の阿倍仲麻呂と吉備真備とかの関係があったのかとも思います。
江戸時代の各大名の江戸屋敷みたいなものでそれぞれの地域の出先機関があったかもしれません。おそらく自給自足が原則で食べるものなども調達しなければならないので、ある程度の領域を必要としたのかもしれません。
安田仮説での地図との関連ですが、大雑把には、西日本中心ということで、まあ合ってるように思います。細かくには、名字が先で国名が後であり、日本の統一の過程があらわれているのだとは思いますが、良くわかりません。日本に漢字が導入され、文字を通じての中央集権化(言向け和す?)のような変化が奈良の地から急激に起こっていたのではということにしておきます。
下は奈良県基準の名字パターンの相関係数、奈良県の分布に近いほど黒っぽくなります。
奈良時代の影響が残っていると考えています。
2017年6月3日土曜日
奈良の地名
名字の長谷川から思い出してきて、奈良の地名に興味を持っています。「ながたに」と書いて「はせ」と読むのは、長谷寺とかある地域がちょうど長い渓谷の地域にあり、漢字が導入されたときに発音はそのままに、漢字はその地域の形状的な特徴などを元に名を表すものになったためと思われます。たとえば、日本に山という漢字が入ってきたときに、「やま」という言葉に漢字がくっついた と考えられます。
平城京をナラノミヤコとふりがなをつけてあるのを見て、平城の部分がならに相当します。ならが発音で、地域の形態を表したのが平「城」であろうと思いました。「城」は都が城壁に囲まれていて、都のことを示していますが、平らな城であることを示しています。今まで意識してませんでしたが、実際に都とされた場所は、最初から平坦な地域ではなく、でこぼこなどのところを整地して(ならして)建設されたところであろうと考えられます。「平」に「ならす」の意味があるということです。
「大君は神にしませば赤駒の腹這う田居を都と成しつ」
という歌もあるぐらいで、都を作るのに土地の造成事業とか、今では考えられないくらいに大変なものであったかもしれません。都は大王の存在価値を示すようなシンボルであったとも考えられます。漢字は意味を表し、発音は和語を表すという例になるかもと思います。
古代地名紀行ー大和の風土と文化、池田末則著、東洋書院の最初の方、13ページから、奈良についてのところに「ならす」との記述がありました。昔から考えている人がいたということです。
平城京をナラノミヤコとふりがなをつけてあるのを見て、平城の部分がならに相当します。ならが発音で、地域の形態を表したのが平「城」であろうと思いました。「城」は都が城壁に囲まれていて、都のことを示していますが、平らな城であることを示しています。今まで意識してませんでしたが、実際に都とされた場所は、最初から平坦な地域ではなく、でこぼこなどのところを整地して(ならして)建設されたところであろうと考えられます。「平」に「ならす」の意味があるということです。
「大君は神にしませば赤駒の腹這う田居を都と成しつ」
という歌もあるぐらいで、都を作るのに土地の造成事業とか、今では考えられないくらいに大変なものであったかもしれません。都は大王の存在価値を示すようなシンボルであったとも考えられます。漢字は意味を表し、発音は和語を表すという例になるかもと思います。
古代地名紀行ー大和の風土と文化、池田末則著、東洋書院の最初の方、13ページから、奈良についてのところに「ならす」との記述がありました。昔から考えている人がいたということです。
2017年6月1日木曜日
井上、田中、田伏
寝屋川市に石の宝殿古墳があります。寝屋川市ホームぺージによれば、発掘調査の時の須恵器の小片から7世紀中ごろのものとされています。また古墳背後の埋まった石と列石から角度が135度あり、古墳の形が八角形の可能性もあるそうです。八角形といえば天武天皇のお墓とされる野口王墓も八角形です。この時代の可能性がたかまります。とにかく7世紀のこの地域の有力豪族の墓とのことです。ここは打上神社の奥にあります。神社の鳥居の額には甲良神社とあるところです。
ここからが本題ですが、この神社の玉垣というのかわかりませんが、石の垣根にある名前で,同じ名字で古い時代の痕跡が残っている地域です。この地域の人の名前が彫られているようです。
井上、田中、田伏が目立ちます。
『井上』は井が条里制の田んぼの形状を線で表したもので、結局田んぼの上の方の意味です。また『田中』は文字通り田んぼの中ほどの意味だと思います。『田伏』は私の想像ですが、伏せた姿勢から下の意味だと思います。つまりこの地域は田んぼの上・中・下を現した名字から成立してることになります。先ほどの古墳はこの地域で条里制の田んぼを開発していった有力者のお墓であり、この地域が7世紀中ほどまでには開発されていったこと、その時の名字の発生とつながりがあることを印象付けるものだと思います。
あと、『田伐』という名字も目立ちました。伐採しながら田んぼを開発していった様子がうかがえます。
ここからが本題ですが、この神社の玉垣というのかわかりませんが、石の垣根にある名前で,同じ名字で古い時代の痕跡が残っている地域です。この地域の人の名前が彫られているようです。
井上、田中、田伏が目立ちます。
『井上』は井が条里制の田んぼの形状を線で表したもので、結局田んぼの上の方の意味です。また『田中』は文字通り田んぼの中ほどの意味だと思います。『田伏』は私の想像ですが、伏せた姿勢から下の意味だと思います。つまりこの地域は田んぼの上・中・下を現した名字から成立してることになります。先ほどの古墳はこの地域で条里制の田んぼを開発していった有力者のお墓であり、この地域が7世紀中ほどまでには開発されていったこと、その時の名字の発生とつながりがあることを印象付けるものだと思います。
あと、『田伐』という名字も目立ちました。伐採しながら田んぼを開発していった様子がうかがえます。
2017年5月25日木曜日
日本人のおなまえっ
4月から始まったNHKの番組です。
最初は『サイトウ』、続いて『山田』、『●子』、『言われてみれば不思議な読み方で』は長谷川・東海林、『高橋』、『太郎』と放送されました。姓名がいろいろ出てきています。参考になり、自分の思い込みが恥ずかしくなることも多いですが、おいおいブログの訂正もしていきたいと思います。サイトウについては感心して、その後は見ています。山田と高橋の回はどうだろうということもありました。バラエティ番組ですが、勉強になります。
最初は『サイトウ』、続いて『山田』、『●子』、『言われてみれば不思議な読み方で』は長谷川・東海林、『高橋』、『太郎』と放送されました。姓名がいろいろ出てきています。参考になり、自分の思い込みが恥ずかしくなることも多いですが、おいおいブログの訂正もしていきたいと思います。サイトウについては感心して、その後は見ています。山田と高橋の回はどうだろうということもありました。バラエティ番組ですが、勉強になります。
2017年1月3日火曜日
中山寺と清荒神
初詣に出かけました。さすがに人が多く、普段なら通り過ごすようなところも拝観出来ました。
中山寺
華蔵院だったかに、中山寺再建の普請奉行の片桐且元の遺愛の庭がありました。中山寺略縁起によれば、秀吉の祈願により秀頼を授かったことから、子の秀頼が且元に命じ伽藍を再建したそうです。今回はお寺の中に石の櫃(イシノカラト)とよばれる古墳跡があるのを知りました。多分ですが創建時からあったものと思います。この横穴式石室が、何らかの女性的なイメージとつながり安産の寺となったのではと妄想しました。
関係ないですが、新しい五重塔がありました。塔といえばくすんだイメージだったので、色鮮やかで感動しました。
清荒神
参道からではなく迂回路からのお参りでした。途中に川西という地名を見つけ、これは多田源氏発祥の地の川西と関係があり、源氏と何かの縁があるのかと思いましたが、見間違いで川面というところでした。似た文字で親戚関係を表わすことがあるかもしれないので、ほかに事例があればと思います。
清荒神ですが、かまどの神様ということです。なぜなのか考えていたのですが、多分ここも古墳の跡ではないかと思うようになりました。ホームページの境内案内に荒神影向(こうじんようごう)の榊というのがあります。「現在では、いつの頃からかそこに供えられたお賽銭をいただいて帰り、次回参詣されたとき、そのお賽銭を倍にしてお返しするという風習が伝えられています。」と書かれていますが、ぱっと見は賽銭泥棒のように思ってしまいびっくりします。
そちらでは無く、周りが石垣で囲まれているのが注目ポイントです。古いものではないですが、創建時にはかまどのような形であったものと思います。「ご本社の背後には、当山開創に際し、荒神様がお姿を現されたと伝えられる「荒神影向の榊」があります。当時、この霊験の報告を受けた宇多天皇は、大変感銘され、「日本第一清荒神」の称号を下賜されました。」とホームページにありますが、当時、天井の方に穴のあいた古墳跡がここにあり、大きなかまどと見立てたのではとの想像です。
当時、多田銀山の開発とか行われていて、ところかまわず発掘したなかで、お墓とかも認識していてそのままではまずいと思い、その後に、神社やお寺を作ったのではないかとも思えます。
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