初詣に出かけました。さすがに人が多く、普段なら通り過ごすようなところも拝観出来ました。
中山寺
華蔵院だったかに、中山寺再建の普請奉行の片桐且元の遺愛の庭がありました。中山寺略縁起によれば、秀吉の祈願により秀頼を授かったことから、子の秀頼が且元に命じ伽藍を再建したそうです。今回はお寺の中に石の櫃(イシノカラト)とよばれる古墳跡があるのを知りました。多分ですが創建時からあったものと思います。この横穴式石室が、何らかの女性的なイメージとつながり安産の寺となったのではと妄想しました。
関係ないですが、新しい五重塔がありました。塔といえばくすんだイメージだったので、色鮮やかで感動しました。
清荒神
参道からではなく迂回路からのお参りでした。途中に川西という地名を見つけ、これは多田源氏発祥の地の川西と関係があり、源氏と何かの縁があるのかと思いましたが、見間違いで川面というところでした。似た文字で親戚関係を表わすことがあるかもしれないので、ほかに事例があればと思います。
清荒神ですが、かまどの神様ということです。なぜなのか考えていたのですが、多分ここも古墳の跡ではないかと思うようになりました。ホームページの境内案内に荒神影向(こうじんようごう)の榊というのがあります。「現在では、いつの頃からかそこに供えられたお賽銭をいただいて帰り、次回参詣されたとき、そのお賽銭を倍にしてお返しするという風習が伝えられています。」と書かれていますが、ぱっと見は賽銭泥棒のように思ってしまいびっくりします。
そちらでは無く、周りが石垣で囲まれているのが注目ポイントです。古いものではないですが、創建時にはかまどのような形であったものと思います。「ご本社の背後には、当山開創に際し、荒神様がお姿を現されたと伝えられる「荒神影向の榊」があります。当時、この霊験の報告を受けた宇多天皇は、大変感銘され、「日本第一清荒神」の称号を下賜されました。」とホームページにありますが、当時、天井の方に穴のあいた古墳跡がここにあり、大きなかまどと見立てたのではとの想像です。
当時、多田銀山の開発とか行われていて、ところかまわず発掘したなかで、お墓とかも認識していてそのままではまずいと思い、その後に、神社やお寺を作ったのではないかとも思えます。
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