以前から感じていたのですが、メモ書きで残しておきます。
少し前のテレビの知恵泉で徳川家康が、今の江戸を開発したといっていました。昔は湿地帯であったのですが、天下普請で、全国から人を集め、開発したとのことです。手作業的なイメージでしたが、築城での石垣など、当時の土木建築作業は大工事も可能になるように進化していたと想像します。つまり、奈良・平安時代には江戸の町を作るだけの技術が無く、大和の政権が東に進出していくときに(海伝いに)、江戸の付近をパスしたように思います。同じことが、日本海側でも考えられます。奈良・平安時代には、新潟県の付近は新【潟】県というように湿地帯で開発困難な地域であって、ここをパスして秋田県へのシフトしたということです。秋田県で条里制の新田開発を始め、これが安田が秋田県に多い理由になるかもしれません。時代的には奈良・平安時代で、このときに宮中の追儺というか鬼遣らいの行事が伝わっていったと考えられます。それが、なまはげとなり、現在に伝わったとして、つじつまはあいます。東北の人を蝦夷のように呼んでいたので、現地の人を強制労働で開発していった、貧窮問答歌の世界があったのかもしれません。
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