『出雲風土記』は、
出雲国の風土記。編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている。(ウィキペディア)
とのことです。年号の「和銅」は銅の国産化にめどが立ったという意味のように思われます。当時の鉱産物に対する執着がわかるような気がします。しかし鉄も重要であったはずですが、「和鉄」という年号はありません。和銅の時代は鉄に関しては問題なく充足できてたのかもしれません。単なる想像ですが。
『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理 (ブルーバックス) 新書 』、永田 和宏、講談社 (2017/5/17)が参考になります。
37ページに「銅精錬法から発見した製鉄法」のところに、
小アジアのアナトリア地方のアラジュホユックでは、・・・・。当時、アナトリア地方にはプロトヒッタイトと呼ばれる人たちが住んでおり、高度な鋼の加工技術を持っていたことがわかる。そして、彼らが製鉄法を発見したと言われている。 当時、この地方は青銅器文明の時代で、同精錬が行われていた。酸化銅の鉱石はシリカを多く含んでおり、シリカを除去するために鉄鉱石やマンガン鉱石を砕いて精錬炉に投入した。そしてシリカをファイアライト(2FeO・SiO2)組成に近い酸化鉄濃度の高い組成のスラグにして流出させ、銅は溶融状態で得た。酸化銅の鉱石が少なくなり、硫化鉄を含む硫化銅鉱石を用いるようになると、焙焼(ばいしょう)して酸化物にした後、酸化鉄を分離するために炉にシリカを投入して、ファイアライトに近い組成のスラグとして流出させた。この時、炉内の還元状態が少し強くなり、偶然に鉄が得られたと考えられている。
引用が長いですが、銅の精錬の過程で、鉄の製法が発見されたようです。ヒッタイトがこの地を征服し、引き継がれ、その後、世界に広まっていったとされます。この後、たたら製鉄の話が続き、その後に、
ヒッタイト帝国の中心部は、小アジアのアナトリア地方中部をU字型に流れるクズルマック川(「赤い川」という意味)に囲まれた山間部にある。製鉄遺跡のアラジュホユックもこの地域にある。秋には非常に強い季節風が吹き荒れる。また、この地域には原料の鉄鉱石、燃料の木炭を作る森および冷却の水がある。
川の名前ですが、出雲の斐伊川(ひいかわ)、古くは「肥河」「簸の川」(ひのかわ)がありますが、火の川だと思います。この地で製鉄が行われ、川の名前に残っていることになります。赤い川と似てます。
127ページ
我が国に製鉄技術が朝鮮半島を経由して伝えられたのは六世紀後半である。その形状は長方形箱形炉である。8世紀に入って半地下式縦型シャフト炉(筒型炉)が伝えられた。前者は中国・九州地方で多く発掘されており、後者は静岡以東で主に発掘されている。
129ページ
原料は日本でも当初は赤鉄鉱石(ヘマタイト)を砕いて用いていたが枯渇し、奈良時代の終わりの8世紀末頃から砂鉄を用いるようになった。その後、たたら製鉄法は砂鉄を原料とする独特な製鉄方法として発展を遂げた。・・・
話の展開が見えてきます。
- 倭国は、古墳時代に朝鮮半島に鉄を求めて、入手先を確保した。それが百済などだと思います。
- 唐の進出により、百済滅亡などで、鉄の権益を失うことになり、倭国の生命線が断ち切られるとのことから唐・新羅との争いとなり、白村江の戦いで大敗北してしまった。
- 鉄が入手できなくなり、赤鉄鉱で作り始めたものの、枯渇して、やむなく効率が悪い砂鉄を利用する「たたら製鉄」のようなものを開発した。技術は青銅器の製造技術が活用できる、銅鐸などで進んでいた出雲が鉄の主要生産地になった。
- 天武天皇の時代に、出雲がヤマトと結びついた。経緯はまったく不明。
- 次の持統天皇の時代に、後継者争いの中、ヤマトと出雲が対立関係になった。その経緯が、『古事記』、『日本書紀』、『出雲風土記』などにあらわれている。
- 奈良時代の出雲の不遇の時代を経て、平安時代になり出雲の回復が行われた。
どこまで合ってるかわかりませんが。