2019年3月29日金曜日

16世紀のポルトガルの日本地図

 放送大学付属図書館、デジタル貴重資料室に
西洋古版日本地図があります。その中に
No.13 日本の最初の近代的な地図 1595年 日本島図 ルトビゴ・テイセラ作

がありました。
 日本の地名が表示されていますが、パッと見てわからないところとかあります。
ポルトガルの人のヒアリングなので違って当然ですが、それでも今の日本語とはかなり異なっているようには思えます。F音は現在のH音ですが、Hが初めに来るものは今は無くなっています。興味があるところですが、それはおいといて、目立つのに、日本の地図は詳しくあらわされているのに対し、朝鮮半島はかなり位置がいい加減です。ポルトガル船が、北九州周りではなく、南海路をメインとしていたように感じます。全然北九州経由がなかったと思えます。実際に日本に来た人間と地図を作る人間での意思疎通が悪かったとしてもここまではないような気がします。
 地図を見たのは歴史街道4月号です。どこにあるか探したら上記のところにありました。ネットのおかげでいろいろなところに資料があり見ることができ、ありがたいことです。

2019年3月28日木曜日

古代祭祀

 今年は新天皇が即位されるとのことなのか、「古代の祭祀と年中行事」という本が出版され図書館にあり、借りてきました。岡田荘司編、吉川弘文館発行です。口絵の写真では天皇陛下が神事の装束を召され、神殿に向かわれる写真などがあり、律令の時代より受け継がれていることに驚きを感じます。
この本の見ているのは、最初の総論で、古墳時代の話を飛ばして、律令国家と祭祀制度のところです。
七世紀、「倭国」から「日本」になる中で連動して、これまでの祭祀が再編成されたとのことです。
*******
 その一つが神郡(郡)の設置で、神宮の度会・多気郡(伊勢国)、鹿島(香島)神宮の香島郡(常陸国)は、七世紀中頃の孝徳朝に設置され、同時に神宮では祭祀組織を統轄する大宮司が置かれている。その他、安房郡(安房国)、名草郡(紀伊国)、意宇郡(出雲国)、宗像郡(筑前国)も、七世紀後半から八世紀初頭までには、国家的に重要な神々の祭祀を支えるため神郡として設置された。
 神宮の中枢「大宮院」が発掘された孝徳天皇の前期難波宮の中枢部の建築配置と共通することから、宮殿に合わせて神宮が整備されたことが考えられ、この直後、六五〇年代から六六〇年代には、出雲(杵築大社)と香島(鹿島)の祭祀の場は神宮として整備されている。
 また延喜式の祝詞で「前白」とあるのが、「前白」木棺での上申文書の形式と一致しており、祭祀と行政的儀礼(宮廷儀礼)と対応関係がうかがえる。
 七世紀後半、祭祀の場と祭祀は、律令制度に対応した宮殿と儀礼の形に合わせて整備され「神宮・神社」が成立、神郡が設置された。この後、七世紀後半に始まる記紀編集では、神郡に祀る神々は記紀神話の中心的な神格として位置づけられた。そして、列島内各地の主要な祭祀の場も、律令制度に裏付けられた「神社」となっていったと考えられる。
*******
東アジアの情勢が緊迫し、唐が成立した後、百済や高句麗を滅ぼし、新羅を影響下においたとしても、それだけで、日本の中の各地に存在した地域王国のようなものが簡単にはまとまるとは思われません。やはり、何らかの祭祀儀礼により、ヤマトの勢力が統一していったということだと思います。天武天皇がそのような祭祀儀礼に長けていたことから日本が統一されていったのかもしれません。

2019年3月23日土曜日

神武東征について(H31.03.22時点)

 第一代の天皇・神武天皇ですが、この名前は淡海三船がつけたものとされています。本当はカムヤマトイワレヒコ。神武天皇は日向(宮崎県)を出発してから大和を平定するまでの東征物語があり、何らかの史実を示していると思っていました。しかし案外そうでもないかも知れないという気がしてきました。各地域の王国が統一されていく中にあって、その由緒を記述することが目的であって、実際に移動したことは話として成立させるための背景に過ぎないということです。神武東征の移動して行く地域がヤマトの勢力によって統合されていくことを示しているように思われます。この話の時には対立していたキビも含まれています。従って七世紀後半の話になってきます。神武天皇は、畝傍のかしはら宮にて天下を治めた。ということ(*参考)ですが、これは藤原京をイメージしていると思われます。つまり神武天皇には天武天皇のイメージで記されています。そして対立した長髄《ながすね》彦が天智天皇のように思われます。また三炊屋媛《みかしきやひめ》が出てきますが、かしきやひめに似た名前です。どうして出てくるのかと言うことですが、この方は推古天皇です。私は推古天皇は持統天皇と思っているので、神武天皇の大和平定の話は壬申の乱をイメージして作られたものという気がしてきました。この東征軍の有力な武将に大伴氏の祖の道臣がいる(*参考)とのことで、日本書紀成立の時点では大伴氏もまだ有力であったということだと思います。
 神武東征から古い時代(三世紀~五世紀とか)を類推するのは問題であったということです。これまでの神武東征に関する投稿記事もおかしな事を言ってました。はずかしいですが、そのままにしておきます。(以前の神武東征
 言っていることが変わるのでそのうち見直ししないといけないとは思います。
*参考:直木孝次郎 古代を語る3
    神話と古事記・日本書紀、吉川弘文館発行
    二〇〇八年(平成二十)十二月十日 第一刷発行

2019年3月22日金曜日

神武天皇と八咫烏

八咫烏についてウィキペディアでは
「日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。」
「咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが[5]、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である」
とあります。八咫の方は良しとして、カラスがなぜ神の使いのイメージなのか昔は変だなと思っていました。
同じくウィキペディアのカラスの項で、イメージとして
「また、古代には鳥葬の風習がかつてあった地域も世界には存在し、猛禽類やカラスなど肉食性の鳥類が天国へ魂を運ぶ、死の穢(けが)れを祓(はら)ってくれる、あるいは神の御使いであるなどの理由で神聖視されたという説もある。 」
とあります。私はこの説を採りたいと思います。昔は鳥葬が普通であり、それが土葬などに変化していき、カラスの神聖さが薄れていったと思います。墓の遺跡では、鳥葬の場合、その痕跡は残りにくいように思います。かなりの大雑把な感じでの話になりますが、平安時代の末法思想の頃、仏教が一般化し、埋葬の考え方が変わったかもしれないと思います。供養塔・墓として五輪塔が多く現れるのが平安時代末期からです。葬礼の形式ですが、古い時代の鳥葬を軽視しすぎであるかもしれません。
ウィキペディアの八咫烏に
「なお、八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同される。」
とあります。すでにカラスのイメージが悪くなっていたのかもしれません。

追記:日本書紀と古事記の確認をしました。
・古事記中巻
高木大神より八咫烏の先導により吉野川に至る記事があります。
・日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇
天照大神が頭八咫烏《やたからす》を道案内にせよとのことです。
(これらは新編日本古典文学全集1,2より)
日本書紀では、後で、長髄彦との決戦で金色の鵄が飛んで来、この鳥の光で相手は戦意を喪失したということです。

2019年3月20日水曜日

埋葬地、鳥辺野

 図書館でブラタモリという本を見つけ借りてきました。NHKで放送されたものをまとめたもののようで、No.13です。今まで見たことがないので人気になっているのだと思います。初めて見ました。この本では2017年4月8日放送の「人はなぜ清水を目指す?」というタイトルのものが含まれています。放送を見ていたはずですが、記憶が抜け落ちています。この本のルート3で死後の世界との境界、松原橋~六道六道珍皇寺《ろくどうちんのうじ》~清水寺隣の墓地の説明があります。この前、近くを通りました。しかし残念ながら清水寺とか、その近くの墓地の方には行ってません。この墓地は古くからの埋葬地・鳥辺野の流れをくむ地とのことです。京都では平安時代から、東の鳥辺野《とりべの》、西の化野《あだしの》、北の蓮台野《れんだいの》の三大埋葬地が設けられていました。地名に鳥がついていることで、鳥葬のイメージを感じます。飛鳥との関連です。
参考:飛鳥の石造物とペルシャ

追記:H31.03.25
日経新聞の記事に「拝火教徒の「鳥葬」に変化 インド、ハゲワシ減少で」が
ありました。火を神聖視するので火葬は教えに反するとのことです。

2019年3月19日火曜日

空海と高野山

 なぜ空海は、高野山の地を選んだのかということです。ブラタモリ、本年三月十六日の徳島特集で、「鳴門が四国の玄関口になるとは?」というお題で放送されていました。この番組を見ていての思いつきです。番組では鳴門の渦潮があるのにどうして四国に来たかということで、子鳴門海峡という鳴門海峡の内側の波が静かなところを通ったとの話です。鳴門市に撫養町というところがあり、この名のついた撫養街道をお遍路さんは行くそうです。この街道は中央構造線断層の上にあるとのことでした。地図で見るとすぐ南側に吉野川が流れています。吉野と言えば奈良県の吉野を思います。奈良県にも吉野川があり、こう呼ばれるのは奈良県だけのようで水系名として紀ノ川のようです。こちらも日本構造線に沿って流れているように見えてきます。お互いに関係あるのかということですがわかりません。吉野川という名は各地にあります。山の名前で○○富士というのが各地にあるように、奈良を中心にした時に、この地の吉野川が各地に広がったこともあるかもしれないと感じました。それだけの話ですが、交通路の本題に戻ります。
 現在も徳島と和歌山がフェリーで結ばれていますが、古代にもこのルートがあったと思います。そこを空海も通ったことが考えられます。地図であればわかりやすいのでopenstreeetmapを切り取りました。和歌山県と徳島県、間に淡路島があり、黄色のラインは四国から奈良へ向かう道筋を想像したものです。図を見てもらえればわかりますが、赤丸の高野山の位置がそれほどの変な場所ではないと思われます。最澄も地元の比叡山に延暦寺を開きますが、山岳地帯に開くことがこの時代の考えであれば、空海の高野山も地元の四国ではないですが、まあまあ地元に近い山岳地域と考えられます。


徳島と和歌山とかの関係(古代ではありませんが)
 四国紀ノ川沿いの撫養街道《むやかいどう》がありますが、地図を見ていて、勝瑞城館跡を見つけました。ここは室町時代に阿波守護細川氏によって守護所が置かれたところです。その後、三好氏も引き継ぎ本拠とします。もともと三好市は紀ノ川の上流にあり、地名から見て、この地に進出してきたものと思われます。三好政権と言われた三好長慶の年譜(三好長慶四百五十年遠忌紀年論文集、三好長慶、今谷明・天野忠幸編、宮帯出版社)を見ると、享禄四年(一五三一)、父の三好元長が阿波より堺に出陣する。六月四日、元長が摂津天王寺で細川高国を破る。とかあり、堺の南宗寺は三好氏の菩提寺とか、城も飯盛山城(四條畷市南野・大東市北条)とか、紀伊水道といわれる地域で海上で離れていますが、往来はかなりあったように思われます。

2019年3月17日日曜日

漢風諡号

 釈日本紀に引用された「私記」に、「師説」として初代神武天皇から41代持統天皇まで、淡海三船の撰とある。とのことで、本当かなと思い、探してみましたが、なかなかわからず、
釈日本紀巻第九の述義五(自第三至第五)第三に
神武天皇。
  私記曰。師説。神武等諡名者。淡海御船奉勅撰也。
とありました。「」はレ点のつもりです。他の天皇については残念ながらどう探して良いかわかりません。
 ウィキペディアでは淡海三船について、抜粋すると

天平宝字9月に発生した恵美押勝の乱の際に、孝謙上皇側に加勢。乱後、三船は功労によって三階昇進して正五位上へ昇叙と勲三等の叙勲を受け、近江介に任ぜられた。
称徳朝では、兵部大輔・侍従を歴任し、天平神護2年(766年)には東山道巡察使に任じられる。しかし、巡察使として名誉や栄達を気にして地方官に対する検察が厳格に過ぎ、特に下野国の国司らの不正行為(正税の未納・官有物の横領)に関して、下野介・弓削薩摩のみに対して外出を禁じて職務に就かせず、さらに薩摩が恩赦を受けたのちにさらに弁舌を振るって罪に問おうとしたことが問題とされ、翌神護景雲元年(767年)6月に巡察使を解任され、8月には大宰少弐に転じている。

とあります。この記述がはっきりしませんが、弓削薩摩が弓削道鏡の一族で、当時は道鏡の後ろ盾があったことが考えられ、神護景雲3年(769年)には、「道鏡に皇位を」という宇佐八幡宮神託事件が起こっています。この部分は割り引いて考える必要があると思われます。
ともかく、光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)の刑部大輔と京官に服し、のち大学頭・文章博士などを歴任して、宝亀11年(780年)従四位下に叙せられている。
とあり、復活します。恵美押勝(藤原仲麻呂)の時代に唐風ということで、天皇名も漢風諡号になったと思われますが、おかげで私にはわかりやすくなりました。
図書館から、続日本紀(中)全現代語訳、宇治谷孟著、講談社学術文庫ののところ、
神護景雲元年(七六七)六月五日に解任の理由がウィキペディアにあるように述べられています。
 下野国の国司らの不正の責任をひとり弓削薩摩に押しつけ公平の原理に背いている。今後はこのようなことがあれば、法に従って処分する。ということが13行もあります。それほどの記事かと思いますが、淡海三船が「続日本紀」編纂の関係者を思わせるようなボリュームになっています。しかし、ウィキペディアを追跡するのは難しいです。

2019年3月15日金曜日

新沢千塚古墳群で発掘されたガラス器

 松本清張氏の「火の路」に出てきました。ゾロアスター教との関連するかもしれないペルシャのガラス器が発掘されたとあります。実際にどうなのだろうかと思い、図書館で関係ありそうな本を探しました。一番新しい物では、橿原考古学研究所編、橿原考古学研究所論集第十七に「新沢千塚を考える」がありました。新沢千塚古墳群の報告書はまとめが、なぜかまとめがない。とのことです。あまりにも数が多くてまとめきれなかったようようです。埋葬施設は、大多数が木棺直葬という、墓穴に木棺を直接埋めるという方法のようです。横穴式石室はわずか四例しかないとのことです。副葬品については、鏡・甲冑・馬具。刀剣・須恵器など。倭系と帰化系にわけると、百二十六号墳ではペルシャのガラス器などがあり、帰化人系と推定されてきたがそうではないのでは無いかと言うことです。理由として古墳群内に前方後円墳があること、埴輪を持つ古墳が多いことなどあげられています。千塚は、在地倭人と帰化人が混在しているといえる。とのことです。古墳群全体の話で、特殊であるとは思いますが、百二十六号墳のことをもっと知りたいと思いました。
 日経新聞の電子版2014年7月25日付に奈良・古墳出土のガラス椀、ペルシャの高級品の可能性について書かれています。ガラス器がササン朝ペルシャ製であろうとのことです。新沢千塚古墳は五世紀のものとのことで、残念ながら七世紀のものではないようで、ササン朝滅亡の時ではありません。先の論文で、もう少し詳しく何か述べてもらいたかったと思います。

 マップ(© OpenStreetMap contributors)は和歌山から畝傍山への自転車ルートです。
図を見ると、紀ノ川沿いに沿って奈良の都に通ずるルート上にあるように見えてきます。だいたいの雰囲気はわかると思います。中国から朝鮮経由で伝わってきたことが暗黙の了解のようになっていて全然考えられていないようですが、南海ルートで和歌山に来るルートの方が自然に思います。この地の古代氏族で、東漢《やまとのあや》氏がいて、祖先は中国から帯方郡を経由してやってきて、漢王朝との関係を創作したと言われています。しかし、中国の江南などから直接に南海路をやってきたとすれば、それほど不自然ではありません。東漢氏が奈良の南西側に勢力圏があったのを何かで見ましたが、これに対応しています。すべて渡来経由が朝鮮からと考えられているのは問題かもしれません。ウィキペディアでは、シルクロード「草原の道「、「オアシスの道」、「海の道」とあるようです。残念ながら海の方は中国の起点は福建省泉州市がスタートとなっています。これも日本の方につながっても良いと思われてきました。




2019年3月13日水曜日

日本書紀の年代の考え方

 昔に私と同じように考えている人がいました。聖徳太子、岩波ジュニア新書850、東野治之著の一八六頁からの引用です。
 法隆寺の非再建論の中に、『日本書紀』の記事を認めず、『日本書紀』では天智九年(六七〇)に火災が起きたとあるが、実際に火事があったのは、そこから六〇年遡った聖徳太子の存命中の推古一八年なのだ、と解釈していました。そして、その時の火災は小規模なもので、現在の法隆寺は創建当時のものだと考えていました。
 というのは、古代には干支を使って年代を表記する方法が用いられていましたが、十干十二支《じっかんじゅうにし》と言って、干には甲乙丙など十種類、支には子丑寅など十二種類がありますから、それらを「甲子」「乙牛」「丙寅」とひとつずつずらしながら組み合わせることで六〇年を表すことができます。六〇年経てば、また同じ干支に戻ります。非再建論では推古一八年の干支が庚午《こうご・かのえうま》だったので、『日本書紀』編者は、そのもう一廻り後の庚午年、すなわち天智九年に火災があったと勘違いしたのだと説明していたのです。・・・
 今日では火災のあったことは発掘で確定されていて、法隆寺の火災は実際に天智九年のようです。しかし、この発想はすばらしいと思います。日本書紀の実質的なスタートは推古朝になります。この年代を扱うのに、干支の分だけ古くすれば、簡単に記事を創作することが可能になります。これは干支を一廻りしていますが、二廻りとかしていけば、どんどん過去に遡ることができます。もちろん実際はどうだかはわかりませんが、可能性は考えておかないといけないような気がしてきました。
参考:現時点のまとめ

一九五頁からですが、
 再建後に釈迦三尊が本尊とされ理由は単純ではないかもしれませんが、決して偶然とは考えられず、再建後に寺の性格が変わったことを示していると思われます。 やはり太子を記念する意味で、ことさら古い飛鳥時代のスタイルの寺が建立され、太子に関係する古い仏像が集められたと見なければ、理解できないでしょう。規模はよく似ていても、創建当初の伽藍配置とは堂塔の配置が異なるわけですから、これは新しい寺の誕生だったとも言えます。薬師如来がもとの本尊だったとして、その復古作が作られ、釈迦三尊の隣に安置されたことで、寺の由緒がかろうじてつながっているのです。
とあります。少なくとも八世紀から太子伝説が生まれていて、おそらく多くの人は賛同していたと思います(反対の人は消滅させられたかもしれません)。伊勢神宮もアマテラスの体制が整えられ、神社の形態も整えられるなど、今までの倭国から新しい日本へ、急激に変化していった時代ではあろうと想像されますが、具体的なイメージは出てきません。

2019年3月11日月曜日

飛鳥の石造物とペルシャ

 奈良県飛鳥地方に残る石で作られた遺物・遺構で花崗岩製のものが多い。特異なものであって謎とされているとのことです。ペルシャ人のことを考えていて、松本清張氏の「火の路」が小説の中でゾロアスター教との関連を述べているとのことで、一度は借りたものの、500ページほどあり、返却したものをまた借りてきてようやく読みました。細かく取材されていて、飛ばしたところもありますが、なかなか面白かったです。いろいろと考えさせられます。最初のほうで、野沢さんという名前が出てきて実際は野村で、小説では、名前をきちんと出せないのかなと思いました。しかし史料的なことはきちんと書かれているようです。これらの石造物はペルシャのゾロアスター教が日本に入ってきてできたとの説のようです。石造物がペルシャの影響かどうかははっきりしませんがあったと考えるとすっきりします。
 石造物は数があり、それも短期間のものですので、ペルシャから人が来たとしてグループであろうと思います。飛鳥地方は日本の中心であろうと書かれていますが、私は辺境の地であったろうと想像します。なぜ、ペルシャから飛鳥に集団でやってこなくてはならないか、切実な理由があったのかということです。「西教の火」の一部記述しますが、
 紀元二二六年、波斯(ペルシャのこと)にササン王朝が興って火祆を国教と定めたため、一時この教えは中央アジアに盛行した。中国では南梁・北魏の間にはじめてこの名が聞こえ、北朝帝后の中には信奉する者もあり、これを胡天といった。六五一年、大食国(アラビア)が波斯を滅ぼし、中央アジアの祆教徒で東方に移住するものが多くなった。唐初には祆教徒をすこぶる優遇したので両京(長安・洛陽)および諸州にはみな祆祠があった。祆の文字の由来したのは、この時である。・・・
とあります。ウィキペディアの「ササン朝」では、六五一年より前から混乱があったようです。さらに「国の東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに東方の唐の助勢を求め、自らが首都の長安まで赴いたりもしたが、上手く行かずに終息した。 」ともあります。難民となったペルシャの人たちは東方へ逃れ、海路を伝って、中国の江南そして、紀州や日本の泉州地域にやってきたかもしれません。そして陸路を通り、当時の辺境の地の飛鳥に住まいを当てられたようにも想像されます。そこで石造物を作ったりしたが次の代までつながらなかったということです。
 ついでですが、主人公がイランに調査に出かけます。その中に鳥葬が書かれていました。区画が設けられていてカラスが空を飛ぶようです。ひょっとして飛鳥も辺境の地で鳥葬が行なわれて、空をカラスが飛び回っていたのかもしれないと思いました。普通に鳥が飛んでいても呼ばれることはないので、強烈な印象があって飛鳥となったかもしれません。イランではカラスをカラーグというようです。日本語と似ています。
 松本清張作品をぱっと読んでの思いつきです。

飛鳥の石

2019年3月9日土曜日

日本書紀での森博達著の「日本書紀の謎を解く」の学説について

 正直、α群、β群の話も良くわかりません。「偽りの日本古代史、井上亘著、同成社発行」に解説がありましたが、これでもまだわかりません。沼本克昭氏の上代漢字音の成立過程のまとめが引用されています。同書一〇八頁から、
楽浪文化が栄えた頃、中国上古音が三韓に移植され、四世紀に倭が百済と関係を持つと、渡来人が「古韓音」を伝えた。五世紀に中国が南北に分裂すると、百済は南朝の文化を受容し、倭に「呉音」を伝えた。以後、六世紀を経て推古朝に到るまで倭の文字文化は渡来人が担当し、また百済滅亡に至るまで呉音は主流であり続けた。これを反映して、『古事記』、『万葉集』の仮名は呉音系といわれる。しかし七世紀に入って遣隋使・遣唐使を派遣し、長安の文化を直接受容するようになると、唐代北方音に基づく「漢音」が正音と見なされるようになった。これを反映して、『日本書紀』の仮名は漢音系といわれている。
とのことです。
中国人にも読める正史を作るために漢音が意識されたということのようです。
 理解できるところだけの引用ですが、日本書紀の編纂過程は
①『古事記』序
②『日本書紀』天武十年(六八一)三月
➂『日本書紀』持統五年(六九一)八月
④『続日本紀』和銅七年(七一四)二月
⑤『続日本紀』養老四年(七二〇)五月
 これら確実な史料から一般に『書紀』の編纂は天武朝にはじまり、持統朝でも継続されたが、元明朝の和銅七年になってあらためて国史の編纂が命じられ、元正朝の養老四年に完成したと考えられている。「この引用は坂本太郎『六国史』(吉川弘文館、一九七〇年)より」とのこと。
長屋王の乱(七二九)があり、これで良いかは問題ではあります。
 最終的には、井上氏は、書紀は連綿と続いたものではなく、これとは断絶して、④からはじまり、原史料を大急ぎで切り貼りして巻子本に仕立てた後、全体に渡って添削を加えた。その添削担当者のクセがα群とβ群という形で出たと考えるわけで、巻単位に特徴が出るあり方も、このように考えれば容易に理解できるだろう。
とのことです。
 結論的には、理解できてないので現時点では音韻論は考えないということです。

2019年3月7日木曜日

法隆寺の火災と壬申の乱

 東大寺が何度も焼けたことを考えると、寺の火災と戦乱との関係が強い気がします。法隆寺ですが斑鳩寺として、日本書紀天智八年冬に火災があったと記され、天智九年夏四月の癸卯朔《きぼうのさく》の壬申(三十日)に、夜明けに法隆寺に火災が起こった。一屋も残らず焼失した。大雨が降って雷が鳴った。五月に童謡《わざうた》があり、ー内容は省略ー。六月に、村の中で亀を捕らえた。背に申の文字が書かれ、上は黄色で下は黒色で、長さは六寸ばかりであった。と日本書紀➂新編日本古典文学全集4,小学館発行にあります。明らかに法隆寺の火災は壬申の乱のために記述されています。火災の時期は正確にこの時期なのか、わからないと思っていましたが、東野治之氏の説があり確定しているようです。
 氏の「聖徳太子、本当の姿を求めて」の中に、「上宮聖徳太子伝補補闕記」の中で法隆寺火災後の混乱があり、法隆寺の賤民たちが自分たちの身分について異論を唱えたので、寺の事務をあずかる人物が、その裁定をしなければならなくなった。寺が焼けていたために、裁定は妙教寺というよその寺で行なわれたという。なぜ裁定が必要となったかというと、天智九年に庚午年籍の作成が求められ、寺院も対応しなくてはならなかった。ということです。安田仮説の元々も庚午年籍などの戸籍の記述は正しいというところから始まっていますので、くつがえることはありません。
 焼失前の伽藍は若草伽藍で、四天王寺と同様な一直線上の配置です。再建後は法隆寺式という金堂・塔が左右に並んだ配置に変わっています。しかし、同時代の薬師寺と比較すると法隆寺西院伽藍は古い時代の建築様式に見えるそうです。想像ですが、キビの勢力のものであれば、後の時代の復興運動の中で、元の状態に戻そうとこだわった部分があったのかもしれません。難波宮跡と法隆寺の直線距離が21.6kmです。伝飛鳥飛鳥板蓋宮と法隆寺の間は16.2kmで、法隆寺の位置はほぼ中間といえます。キビの勢力(この辺は、キビ+ナニワの勢力のイメージになってます。まだまだ変なところああります。)とヤマトの勢力の距離を考えるとこの地が中立的な立場にあったのか、つまり法隆寺の位置が聖太子神話の設定に意味あるのか(「和をもって尊しとなす」とか両者が歩み寄るイメージ)、ただただ妄想するしかありません。
 日本書紀は、火災も壬申の乱の文脈の中での記述なので、何かしらの武力衝突で焼失したとかあったかもしれません。疑ってくると何を信じて良いのかわかりませんが、庚午年籍は確かであろうということからは、外れていません。
注:斑鳩寺は法隆寺のことで、日本書紀では天智天皇のところに重複記事が多く出てくると前述「聖徳太子」に書いてあります。それに従っています。

2019年3月6日水曜日

旧唐書《くとうじょ》について

 最近手抜きになっていますが、ウィキペディアの旧唐書を見て書いています。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。 資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。とのこと。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。
とあります。旧唐書が出てきたのは、「偽りの日本古代史、井上亘著、同成社」を図書館から借りてきて見たからです。第一章の十七条憲法と聖徳太子ところはどうかなと読み続けて、第二章も良くわからないまま第三章になったところで、六五九年遣唐使が帰ることを中国で止められ拘束されたことから始まります。六六三年に白村江の戦いがあり、先の本では新唐書にも同様のことが記述されているようです。旧唐書に戻り、「日本國者 倭國之別種也」では日本と倭国は別のものであると読め、「日本舊小國 併倭國之地」は日本はもともと小国であって倭国を併合したと読めるとあります。あえて日本の使者は唐との戦いを倭国に押しつけ、日本とは異なるとしたからであろうということで、日本と倭が同一だと知っているのにおかしいということです。しかしこれは事実のように思われます。遣隋使の倭国(キビの勢力)が日本(ヤマトの勢力)との対立に敗れたことを言っているのだと思われます。倭国と日本が対立関係にあった中で白村江の戦いやその後の戦後処理など時間関係がシビアになってきます。これは豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったときも悠長にはしてなくてすばやく準備されていて月単位で考えないといけないのと同じと思われます。この本もそうですが、倭国と日本は同一であるという認識の人が多いと思われます(昔の私もそうでしたが)。別物であるとする人は少数派ですが、これは皇国史観が成り立たないということが、そのまま顧みられること無く現在に到ったということかも知れません。

2019年3月3日日曜日

泉州:中国と日本の位置関係

グーグルマップで見ています。中国の泉州と日本の泉州(図では大阪付近になります)の移動経路です。
直通のルートであれば、島伝いになると思います。
なかなか大変な旅路になるとは思います。しかし、朝鮮半島経由に較べて途中ややこしくなくて黒潮の流れに乗れば早く到達出来そうな気がします。
参考:泉州
   須恵器のルーツ

2019年3月1日金曜日

須恵器のルーツ

ウィキペディアを見ての感想です。
和泉の地域に南海ルートを通じて直接に中国江南地域から高温土器生産の技術が伝えられたと考えても良いように思いました。朝鮮半島経由にこだわらなくても良いのではということです。

以下はウィキペディアの須恵器のところからコピペしてます。
・須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。
・須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
・高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。
・考古学的には、大阪府堺市・和泉市・大阪狭山市・岸和田市にまたがる泉北丘陵に分布する陶邑窯跡群の発掘調査と、森浩一、田辺昭三、中村浩らの一連の編年的研究[4][5][6]により、須恵器の出現は古墳時代中期の5世紀中頃とされていたが[7]、近年では、陶邑窯跡群内に含まれる堺市大庭寺遺跡の「TG232号窯」・「TG231号窯」や、野々井西遺跡の「ON231号窯」において、より古い段階に位置づけられる須恵器が発見され、少なくとも5世紀前半段階には、朝鮮半島から陶質土器が持ち込まれるのとほぼ同時に生産技術が招来され、陶邑地域で須恵器生産が開始されたことが明らかとなっている[8]。

泉州

 ウィキペディアで泉州を調べれば、中国と日本の両方に出てきます。白鳳文化のことを考えていて、南大阪に残る白鳳仏が気になりました。野中寺の銅造弥勒菩薩半跏思惟像などが残っています。日本オリジナルのものとは思えません。どこから伝来したのかということですが、中国の泉州から海を渡って来たものが、今の和泉の地域を経由してこれらの寺にもたらされ、泉がこの地の地名に移り、現在の和泉となったと考えることも可能と思います。中国の泉州ですが、「589年に隋朝が陳朝を平定すると泉州と改称、606年(大業2年)に閩州と改称された。」とあります。時代が異なり、大雑把すぎますが、瀬戸内海を通らずに、南海路を通り、直接的に交易していたその痕跡で和泉があるのかもしれません。泉の地名のついたのが、そこに泉があったというのは弱々しい気がします。あくまで中央の意識のもとで地方の名前が考えられるということで、泉があったとして当時の中央政権にその泉が貢献したとは思われません。
参考:ブログの和泉