ペルシアの痕跡があるのかと思ってます。『ペルシア文化渡来考』、伊藤義教、ちくま学芸文庫(筑摩書房)、二〇〇一年四月が面白そうで借りてきました。その中に狂心渠について書かれています。 岡田明憲氏の解説に
Ⅱ明日香の古影ーーイラン要素虚像と実像
著者が主張するペルシア人渡来説に基づき、『日本書紀』の述べる斉明天皇の土木工事に彼らが参加したと推定する。そして、純ゾロアスター教というよりも、広い意味でイラン的な民俗、風習に関わるものがそこにあることを示す。かかる例として、一般に「たぶれごころのみぞ」と訓じられる狂心渠を、カナートと同義であるコレーズの語源である中世ペルシア語のカハレーズを参考に、カハスに結びつけ、それがカアスとなり、狂心と写音した上で渠と意訳されたとする。またこの説を裏付けるものとして、当時の土木関係の用語に、中世ペルシア語で解せる例が多数あるのを明らかにする。・・・
ということです。天智天皇と天武天皇は兄弟ではないと私は考えているので、母親としての斉明天皇は何なのだということになりますが、今はその話はおいといて、この時代のことと考えます。斉明天皇の失政を咎めるために、カアスがダジャレ的に狂心とあらわしたということのようです。
このような土木工事は本当であろうかと思います。 『土木遺産Ⅴーー世紀を超えて生きる叡智の結晶ヨーロッパ編2オリエント編』、ダイアモンド社、2016年12月1日発行の中に イランのヤズドの町のカナートが紹介されています。
水の供給源「カナート」
砂漠に井戸のように竪坑を掘り、その底部を横坑でつないだものをカナートと呼ぶ。地中にある水を集め、動力なしに途切れなく水を供給することができる乾燥地域の地下水利用の画期的な技術である。この技術を確立したのは、紀元前のイランであるといわれている。これまでのカナート研究の中でほぼ定説とされているのは、「紀元前七〇〇年頃にはすでにカナートが造られていた」というものである。
驚いたのは、この本のコラムに、日本の類似土木遺産として「不破マンボ」が紹介されています。
類似点:地下水路(マンボ)
概要:岐阜県垂井町の灌漑施設として有名なのが、マンボと呼ばれる地下水路である。これは地中に長いトンネルを掘って、地下水を集める横井戸の一種だ。・・・最初のマンボは江戸時代末期の安政年間(一八九四~一八六〇)に造られ、明治から大正時代にかけて多くのマンボが掘られた。かって垂井盆地には、百数本のマンボがあったが、現在そのほとんどが姿を消した。・・・
と書いてます。記録的には江戸時代ですが、狂心渠が元にあると考えれば、七世紀にさかのぼる可能性もあるのではと思います。何もないところからカナートのような技術が生まれにくく、小規模のものでも、初めて見れば驚き、狂心と名づけるのも納得いきます。
この本では最後の方のアルジェリア、アドラールのカナート群について
世界に広がるとして
カナートの起源には不明な点が多いが、紀元前七世紀ころの古代ペルシャで発明され、アケメネス朝ペルシャの領土拡大とともに西アジアから中近東の一帯にその技術が伝播したというのが定説である。これらの地域では「カーレーズ」と呼ばれた。アケメネス朝の滅亡後は、その版図をローマ帝国が支配したが、ローマ人は山麓の湧水を重要視し地下水には見向きもしなかったため、カナートには関心が払われなかった。その後、七~八世紀にかけてウマイヤによるイスラム帝国の拡大とともにカナートは北アフリカに伝わったものと思われる。・・・カナートは、中央アジアのトルクメニスタン、ウズベキスタンを経て、さらに東方にある中国・新疆ウイグル地区のトルファンなどにも見られる。この地域では坎児井(Kan-Er-Jing)と呼ばれる。これは「カーレーズ」の音が伝わったと推定されるが、その伝達時期は明らかではない。
またイスラエルの世界最古の水道トンネルの類似遺産として金沢藩の辰巳用水が取上げられています。兼六園まで引かれ、噴水とかに使われているようです。噴水は日本最古とも謳われるとなってます。
話がぐるぐるまわりになってますが、斉明二年の狂心渠の話に続いて、斉明三年には、須弥山の像を作り、盂蘭盆会を営み、夕べに都貨邏人(とからびと)を饗応なさった。とあります。
明日香資料館にある須弥山石が、『日本書紀』にある須弥山に相当し、噴水の機能があります。当時のカナート造成を含めた水利技術力のアピールになったと思われます。その後も饗応に使用されていて、飛鳥のものは、兼六園の噴水に負けてるかもしれませんが、国造りを飛鳥の勢力にまかせようかという気にさせるモデルプラントの展示場の気がしてきました。