倭国から遣隋使を送り、その返礼史として裴 世清(はい せいせい、生没年不詳)が日本に来ています。その様子が隋書に記されています。 ウィキペディアの引用です。
『隋書』によれば、俀王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業4年(608年)、文林郎である裴清(世については太宗(唐朝の二代目皇帝李世民)の諱世民のため避諱された)をその答礼使として派遣した。大海の都斯麻國(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、そして東に進み、秦王国(辰王国?)に着いたという。そこの人々は華夏人(中国人)と同じで、夷州の地と言われるのは理解出来ないとしている。竹斯国から東はすべて俀であるという。俀王は小徳(冠位十二階の位)阿輩臺が数百人で迎え、10日後に大礼の哥多が200騎で警護した。王と会った清は王の歓迎のことばに皇帝の命を伝えた。その後清は使者とともに帰国した。
裴世清は朝鮮半島経由でやってきたようです。秦王国で華夏人(中国人)らしき人たちに会い、驚いています。この人たちは中国語を話したのではと思います。しかし、その発音は随からやってきた裴世清とは違っていたと想像します。これが呉音になるのではということです。妄想ですが、倭国は遣隋使を派遣する前に呉音を話す人とつながりを持っていた、つまり朝鮮半島を経由しないで直接的な交流で、漢字の発音に呉音が入ってきていたことが考えられます。
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