五十音図は「あかさたな」の表ですが、
『音とことばのふしぎな世界――メイド声から英語の達人まで』川原繁人、 岩波書店 (2015/11/6)
に規則的に並べられているとの説明があります。子音の並びですが、調音法・調音点で規則性をもって配置されているということです。調音とは発音のことで、発音の方法と口の中の発音が行われる点(部分)で子音の並びが説明されます。注目は母音ですが、舌の位置の高低の関係で、
「低母音(あ)→高母音(い、う)→中母音(え、お)」と並び、同じ高さの母音内では、「前舌母音→後舌母音」の順に並んでいるのです。(33ページ)
この五十音図の起源は紀元前四世紀!とあります。(21ページ)
驚くべきことに、五十音図の起源は、なんと紀元前四世紀にまでさかのぼると言われています。紀元前四世紀のパーニニ(Panini)という文法学者は、サンスクリット語の音声や文法全般の記述を多く手がけたとされています。彼は特に、サンスクリット語の発音のルールに関して、かなり詳細な記録を残しています。サンスクリット語の経典の読み方を、誰にでもわかるように体系的に記述したのもパーニニです。このパーニニの研究は、悉曇学(しったんがく)と呼ばれる中国の梵字の研究を経由して日本に伝わりました。これが五十音図の成立に影響したという説があります。
このあたりをもう少し詳しく知りたいと思ってたら、
『パーニニのサンスクリット文法と「五十音図」の形成について』 鈴木 一郎
恵泉女学園大学人文学部紀要 創刊号 pp.90-110 恵泉女学園大学 1989.03
がありました。パーニニは、バラモン(梵: brāhmaṇa、婆羅門)という、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の人です。多分、トンパの立場の人に相当すると思います。文字は宗教祭祀から生まれたのだと思います。五十音図でも「あ」から「ん」までです。「ん」は「m」とあったので、口を開けた状態から閉じた閉じた 状態までを表し、宇宙の真理を示すかは示すかまではわかりませんが発音のすべてをあらわすぐらいはぐらいは言えます。阿吽は、お寺の仁王像とか神社の狛犬とかで示される宗教的なものなので、五十音図も宗教的な雰囲気を持つものといえます。
日本からは,元興寺の道昭(25才)が,653年入唐し,玄弉(602664年)に師事し、起居をともにしたという。玄弉がインドから帰るのは 645年で,道昭が入唐した時にはすでに52才であった。数年遅れて観音寺の智通,智達らも長安に入り,玄弉の教えをうけている。当時玄弉は,イ ンドからもたらした膨大な量の梵語の経典の翻訳にあたっていたから,こ れらの留学生達が,その訳業に接しなかった筈はない。 しかしかれらの帰国後の日本は、大化の改新の後,白村江で唐軍に敗れ、国内では壬申の乱が起るなど、不安定な政情下にあり,悉曇学にまで遡って,仏典の研究をなすような雰囲気ではなかった。
しかし、仏典の研究は行われていた可能性はあったと思います。
奈良朝に入り、中国に滞在していた南インドの僧菩提遷那(Bodhisena) や林邑(今のベトナム)僧,仏哲が,736年来日している。 740年頃,各 地に国分寺がつくられ,経典が送られている。 753年には唐の高僧,鑑真 を迎え,翌年建立された大仏の開眼供養が行なわれ,更にその翌年、東大寺に戒壇が設けられ,僧尼に戒律を授けることが可能になった。その際, 「百万塔」がつくられ,百万基の木製の小塔の中に「陀羅尼経」一巻(4 種類あった)が納められて,奈良諸大寺に送られている。
法隆寺に残っている悉曇文字の古貝葉は天平年間(729-749年)に南インドから伝わったというから,菩提遷那の来日と時期が重なっている。 彼も南インド僧であった。また悪名高い道鏡(-772年)も,梵文に通じ ていて,菩提遷那や義淵(- 728年)から梵文を習ったというから,これ らを綜合すると道昭の入唐(653年)から,奈良朝末まで、約100年以上 の間に、悉曇学が日本に入って来ていなかった筈はない。しかし,この時期には,まだ仮名文学はできておらず,外国語である漢字を万葉仮名として使っていたのであるから,悉曇の学習も口伝えになされていたのであろう。本格的な音韻学の研究は空海,最澄,更に円仁を待たねばならない。しかし,サンスクリットの音韻研究とともに,もう一つ問題があった。それは漢字の音韻である。
遣唐使の派遣とともに,唐の首都長安を訪れる日本人達は,その発音が 全く異なることに気付き,日本での漢字の読み方を呉音から漢音に切替えようとしている。 720年の詔は,僧尼の発音の乱れを、唐僧,道栄や学僧勝暁などの指導 で修正させようとしている。しかし,すでに定着した呉音を変更するのは困難を極めたようである。それは当時,漢音は「正音」呉音は「和音」とよばれていたことからも理解できる。 平安朝に入り,延暦11年(792年), 漢音奨励の勅がでており,更に翌年、 学僧(年分度者)は漢音を修得しなければ,正式の僧として得度せしめない方式が打出され、5年後の798年には呉音禁止令まで発布され,仏教界 以外にもこれは適用されることとなった。 しかし,すでに長い年月にわたり,呉音は万葉仮名の中にも定着してい たし,読経もその伝承に従っていた上に、明法道(法律学)の用語も,呉音であったから,これを完全に漢音に切替えることは不可能に近かった。
この呉音か漢音かの区別を示すために作られるのが,漢字を略した形の片仮名であった。それは漢文の文章に「訓」や「駐」の形で書き込まれていったのである。そして正しい発音を示す方式としては、さきの「反切」 が用いられている。つまり仮名は当初漢字の発音を示す音素文字的な役割をもっていたといえよう。
五十音図は、七世紀に中国に留学した僧によって作られたとするのは無理があるようです。54ページにある五十音図の変遷の表で1000年頃には「イオアエウ」の順で、「アイウエオ」は1079年以降のようです。 確立したのは十二世紀中頃とあります。
五十音図をもとに仮名文字ができたのではなく、仮名文字を体系化して五十音図ができたということです。すぐ思い違いをするので注意がいります。