大伴家持の万葉集の終わりごろの時代が不明だったので、
王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にある年表を見ました。
・天平勝宝七年(七百五十五年)、兵部少輔として防人検閲、歌を記録
・天平勝宝八年(七百五十六年)大伴古慈斐《おおとものこしび》の事件で一族を諭す歌
・天平宝字元年(七百五十七年)橘奈良麻呂の乱が起こり、関連したとして大伴氏一族は処罰されます。家持は無関係とのことでしたが、翌年、因幡守に左遷されます。
・天平宝字三年(七百五十九年)正月に万葉集最後の歌を詠むことになります。
・天平宝字六年(七百六十二年)には、信部大輔に任じられ、帰京
・天平宝字八年(七百六十四年)正月に政争で、薩摩守へ左遷される
・宝亀元年(七百七十年)民部少輔となり帰京、光仁天皇の時代になる
・天応元年(七百八十一年)は、従三位になる。母の喪のため一時解任
・天応二年(七百八十二年)正月、氷上川継の乱への関与を疑われ、解官されますが、四月には罪を赦され、復任
・翌延暦二年には中納言に昇進
・延暦四年(七百八十五年)八月薨去。
・同年九月、藤原種継暗殺事件が起こり、家持が首謀者とされ、官籍から除名
・延暦二十五年(八百六年)勅により本位に復す。このころから万葉集も世に出たか、とあります。
浮き沈みの大きい人生で、後半生は万葉集どころではなかったかもしれません。この時代女性の天皇が多く、律令制度もうまく働かず、政争も頻発していたように思えます。「大伴」の意味は、大家《おおやけ》(皇室)に直属するという意味が含まれているらしくて、格別に有力な伴造《とものみやつこ》氏族とのことである(最初に示した本より)とのことで、神話の時代はわかりませんが、天武天皇の時代には壬申の乱で大伴氏が活躍した名門です。一方、藤原氏は、日本書紀の大化の改新で、天智天皇を助けた中臣鎌足からの名門です。この時代、どういうわけか、天武系の天皇から天智系の天皇に変わっていくのに対応して、大伴氏などが排除されていくように思えます。
以前に書いていたもの、今回思い出しました。同じようなことを何度も言ってます。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/10/blog-post_13.html