2019年2月13日水曜日

長屋王の変と日本書紀

 長屋王は、壬申の乱で活躍した高市皇子の子です。天武天皇の孫にあたります。
長屋王の変は天平元年(七二九)です。たまたま元年になったのではなく、それまでの神亀という年号から変が起こったことにより改元されたものと思われます。これは持統天皇の孫の文武天皇の子、聖武天皇の時世です。長屋王と聖武天皇を較べれば、家柄的なもので言えば、聖武天皇であるかもしれませんが、男系優位の考えでれば、長屋王が皇位をつぐのが良いと考える人がいても不思議ではありません。長屋王家跡から木簡が出土し、その中に「長屋親王宮」があり、この親王はだれでもというもので無く、天皇の兄弟、皇子を親王とし、それ以外は諸王とするということが養老律令?(未確認)にあり、特別対応されていたことを示しているとのことです。続日本紀の日にちを見ると、二日で処分されており、急いで行われていて尋常ではありません。クーデターのようにも思われます。
さて、日本書紀ですが皇祖神は天照大神で、私は持統天皇と考えています。天武天皇は出てきません。不思議に思っていました。壬申の乱がおこり、勝利した天武天皇から時代が始まると普通は考えますが、天武天皇を差し置いて天照大神(持統天皇)から瓊瓊杵尊(文武天皇)というのが日本書紀の神話です。天武天皇→高市皇子→長屋王のラインは無視されています。持統天皇→一世代おいて文武天皇を日本書紀は強調しています。ところが、日本書紀成立は養老四年(七二〇)です。この時点ですでに天武天皇は神話の中で除かれています。長屋王の立場であれば、皇祖神は天武天皇であるべきで、長屋王に関係の無い持統天皇が皇祖神になるのは認められないはずです。しかし、その形跡はないようです(あるかもしれませんが、私は知りません)。長屋王が日本書紀の記述を知らなかったのか疑問です。日本書紀の成立段階ですでに、天武天皇が避けられているのと、長屋王の変が時代的に合っていません。日本書紀成立の時点がどうであったのかということにもなります。皇親政治と良く言われますが、そうではなく天武天皇派と持統天皇派の争いのように思えてきました。天智天皇はこの時点では関係ないということです。天智・天武の勢力争いではなく、天武・持統の争いのように見えてきます。
 長屋王の変は正確には神亀二年二月、長屋王への密告から始まり、舎人親王らが長屋王邸に派遣されています。この人は日本書紀編纂の人物です。持統天皇派でしょう。天平改元の宣命の時、八月ですが、邇邇芸命《ににぎのみこと》が出てきます。天照大神から継承した日本書紀の神話を確認しています。単純には、日本書紀がこの時点で改変されたと考えるべきなのかもしれませんが、その前から規定の事実になってたのかもしれません。なにやらわからなくなってきました。長屋王を支持する勢力があったと思います。一〇年後の天平一〇年に、密告した東人を長屋王恩顧の子虫が殺すと続日本紀にあるのも、複雑な事情があるためと思います。この時代、天武・持統の対立が、皇位継承の不安定な状況を生み出し、聖武天皇の彷徨などの一因になったかもしれません。良くわかっていないので勘違いとかありそうです。断定できるものではありませんが、頭に入れておきたいと思います。

続日本紀(上)全現代語訳、宇治谷孟、講談社、天平元年の項を見ています。

2019年2月9日土曜日

奈良時代の東北地方の開発


 続日本紀の聖武天皇のところを見ていて(もちろん、続日本紀(上)全現代語訳です)、天平9年(七三七)の4月14日のところです。東北地方のことが書かれています。長いので適当に端折っています。

陸奥国に特節(征夷)大使として派遣された藤原朝臣麻呂の報告です。
さる2月19日に陸奥国多賀の柵(宮城県多賀城市にあり、蝦夷経営の拠点)に到着し、鎮守府将軍の大野朝臣東人と協議し、関東の六国の騎兵を召して、山中と海沿いの道を開かせました。その地の農耕に従事している蝦夷をなだめ諭し、鎮撫しました。その後、五つの柵に人員を配置し、2月25日に将軍東人らが多賀の柵を進発し、3月1日には色麻の柵を発し、その日のうちに出羽国大室駅に到着しました。ここで出羽国守の田辺史難波と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍しました。ただ賊地は雪が深く、秣(まぐさ:馬や牛などの飼料にするほし草・わら。かいば)が得難く、そのため雪が消え草が生えるのを待って、また改めて軍を進めることにしました。同月11日には将軍東人は多賀の柵に帰還しました。東人が自らあたら新たに開通させた道は、全長160里で(ウィキペディアでは古代日本で553.5mと推定されているらしい)、その間、石を砕いたり、樹を切ったり、谷を埋め、峯を超えて進みました。平坦なところもあったようですが、4月4日、わが軍は平羅保許山《ひらぼこやま》に駐屯した時、その先の雄勝村の服従した蝦夷の長ら3人が来て、降伏するといってきた。それに対し、東人は信用できないと言ったのであるが、難波は建議して、「軍勢を進めて賊地に入るのは、蝦夷を教えさとし、城柵を築いて人民を住まわせるためです。もし投降の願いを無視して侵攻すれば上策ではないでしょう。今回は官軍の威力を示し、引き揚げることにし、このあとで難波が帰順の有利なことを諭し懐かせましょう。そうすれば城郭も守り易く、人民も永く安らかになるでしょう」といったので、東人はもっともであると考えました。また東人の本来の計画では、早く賊地にはいって、耕作し、穀物を貯え、兵糧運搬の費用を省こうということでありました。しかし今春は大雪で、早期に耕作できなくなりました。しかし新道はすでに開通し、後年になって東人が自ら攻め入ることもしなくても事は成就できます。東人は今までの実績があるので、ここは徴発した兵士は一旦帰農させることで直截をお伺い致します。
というようなことが書いてあると私は理解しました。
この当時の征夷大将軍の役割は、道を作るということのようです。道を作り、その横に耕作地を作って、食料を確保し、兵站基地を順に作っていくことが大事であるということです。当国兵五千人とかが文中に見えますが、おそらく大規模な土木工事が行われたように思われます。これは条里制が開発されていく様子をしめしています。道を作り、条里制の田んぼを道の横に作っていき、どんどん版図を拡大していくことがヤマト勢力由来の方法であったということです。この開発された地域に条里制の田んぼを意味した安田という地名が名付けられていったことになり、東北地方の数ある安田の地名はその痕跡と考えられます。青森県の三内丸山遺跡の近くにある安田も、奈良時代以降の東北進出の結果であって、本州の北端にあるのも、偶然できたものではないように思われます。

 道を開拓するとの記述は、
国立国会図書館デジタルコレクション
国史大系、第2巻、続日本紀巻第十二に確認できました。下は画面コピーです。
黄色のマーカーから始まります。ブルーのところが(不細工ですみません)、道を開くというところです。私には読解できませんが、現代語訳の場所はわかりました。



テキストベースの、この部分も添付します。
六国史のテキストデータベース、続日本紀からです。

《天平九年(七三七)四月戊午【十四】》○戊午。遣陸奥持節大使従三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日、到陸奥多賀柵。与鎮守将軍従四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武蔵。上野。下野等六国騎兵惣一千人。開、山海両道。夷狄等、咸懐疑懼。仍差田夷遠田郡領外従七位上遠田君雄人。遣海道。差帰服狄和我君計安塁。遣山道。並以使旨慰喩、鎮撫之。仍抽勇健一百九十六人、委将軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等、帥所余三百〓五人、鎮多賀柵。遣副使従五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎮玉造柵。判官正六位上大伴宿禰美濃麻呂鎮新田柵。国大掾正七位下日下部宿禰大麻呂鎮牡鹿柵。自余諸柵、依旧鎮守。廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。当国兵五千人。帰服狄俘二百〓九人、従部内色麻柵発。即日、到出羽国大室駅。出羽国守正六位下田辺史難破将部内兵五百人。帰服狄一百〓人。在此駅。相待以三日。与将軍東人共入賊地。且開道而行。但賊地雪深、馬芻難得。所以、雪消草生。方始発遣。同月十一日。将軍東人廻至多賀柵。自導新開通道惣一百六十里。或剋石伐樹。或填澗疏峰。従賀美郡至出羽国最上郡玉野八十里。雖惣是山野形勢険阻。而人馬往還無大艱難。従玉野至賊地比羅保許山八十里。地勢平坦、無有危嶮。狄俘等曰。従比羅保許山至雄勝村五十余里。其間亦平。唯有両河。毎至水漲、並用船渡。四月四日。軍屯賊地比羅保許山。先是。田辺難波状称。雄勝村俘長等三人来降。拝首云。承聞、官軍欲入我村。不勝危懼。故来請降者。東人曰。夫狄俘者其多姦謀。其言無恒。不可輙信。而重有帰順之語。仍共平章。難破議曰。発軍入賊地者。為教喩俘狄、築城居民。非必窮兵残害順服。若不許其請。凌圧直進者。俘等懼怨、遁走山野。労多功少。恐非上策。不如、示官軍之威、従此地而返。然後。難破、訓以福順。懐以寛恩。然則、城郭易守。人民永安者也。東人以為然矣。又東人本計。早入賊地。耕種貯穀。省運糧費。而今春大雪、倍於常年。由是、不得早入耕種。天時如此。已違元意。其唯営造城郭一朝可成。而守城以人。存人以食。耕種失候。将何取給。且夫兵者。見利則為。無利則止。所以、引軍而旋。方待後年、始作城郭。但為東人自入賊地。奏請将軍鎮多賀柵。今新道既通。地形親視。至於後年。雖不自入、可以成事者。臣麻呂等愚昧。不明事機。但東人久将辺要。尠謀不中。加以、親臨賊境。察其形勢。深思遠慮。量定如此。謹録事状。伏聴勅裁。但今間無事。時属農作。所発軍士且放且奏。



2019年2月8日金曜日

天平2年3月、大隅・薩摩の訴え

六国史のテキストデータベース、続日本紀にあります。

《天平二年(七三〇)三月辛卯【七】》○辛卯。大宰府言。大隅・薩摩両国百姓。建国以来。未曾班田。其所有田、悉是墾田。相承為佃。不願改動。若従班授。恐多喧訴。於是、随旧不動。各令自佃焉。
 私は「続日本紀(上)全現代語訳、宇治谷孟、講談社版」を見ています。
天平2年3月7日 大宰府が言上した。
大隅・薩摩の人民は建国以来、いまだかって班田を受けたことがありません。かれらの所有地は荒地を開いた墾田で、先祖からうけついで耕作しており、田地を移動して耕作することを願っていません。もし班田収授を行えば、おそらくはさわがしい訴えが多くでるでしょう。そこで旧制のままで移動させず、それぞれ耕作させたいと思います。

とのことです。班田収授を柔軟に適用してくれというようなことだと思われます。実際にどうなったかは不明です。認められなくて、藤原広嗣の乱の起こる伏線かもしれません。上記の続日本紀をパラパラと見ていますが、どこにあったか不明になるのでそのメモです。

2019年2月7日木曜日

聖武天皇と地域王国

 地域王国が残っていたかもしれないということで、宇佐八幡宮が気になっています。
天平12年(740年)の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。また、天平15年(743年)の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めた。
とのことです。
 九州関連を年表的に見ていきます。日本古代史年表、上、篠山晴生編、東京堂出版です。
729年(天平元年)長屋王の変
737年(天平九年)藤原四兄弟没す。
740年(天平十二年)9月藤原広嗣の乱、九州で挙兵。
          同年10月聖武天皇は伊勢へ行幸
          同年11月広嗣斬首を報告
742年(天平十四年)太宰府を廃す。
743年(天平十五年)筑紫に鎮西府を置く。
745年(天平十七年)太宰府を復置。
          同年11月玄坊(道鏡みたいな人?)を筑紫観世音寺に配す。
749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)宇佐八幡、託宣・入京(大仏造立を願う)
752年(天平勝宝三年)大仏開眼
754年(天平勝宝六年)託宣・入京した大神杜女と多麻呂を除名
755年(天平勝宝七年)八幡大神託宣(先に受けた封戸・位田を変換する処理?)
756年(天平勝宝八年)聖武天皇崩御。
細かいところは読める年表[決定版]、自由国民社発行も見ています。偏見のある年表だとは思います。
 一方聖武天皇の彷徨というのが、この決定版にあります。
740年10月伊勢へ行幸、12月に恭仁京に遷都
742年紫香楽へ何度も行幸
743年恭仁京の造営工事の中止
744年定都を問う。難波京への行幸、遷都?
745年9月平城京に遷宮
 聖武天皇の動きが良くわかりにくいですが、藤原広嗣の乱はおそらく筑紫の在地の勢力のツクシ王国の感覚が残っていたのと、当時の新羅に対して、緊張関係を意識していた広嗣が結びついたことにあったからではと思います。八世紀ですが、まだ筑紫が地域王国であるとの意識が残っていて、聖武天皇が藤原広嗣の乱に過敏に反応したのではないように思います。太宰府の廃止や復活、それに続く宇佐八幡の託宣も関連しているように思えます。後の道鏡皇位事件の託宣も、古いツクシ王国からの重要なメッセージと受け取られていたかもしれません。奈良時代も統一が完成されたのではなく、まだまだ不安定な時代で各地に国分寺・国分尼寺を造って統一させようという時代であった気がします。
 長屋王の変も私にはまだ良くわかっていませんが、当時のクーデター的な要素を感じます。イメージとしては乙巳の変を思い浮かべます。これも、一瞬、長屋王の変のモデルかと思ってしまいました。日本書紀のできた時代の後なので、合っていませんが。聖武天皇には長屋王の変が衝撃的であったと想像できるようになりました。
仕込杖のことです。不安定な時代であったろうことは間違いないと思われます。

2019年2月5日火曜日

壬申の乱の時の吉備

 大海人皇子(大皇弟)が東国に入り、それに対し、近江朝廷は各地に使いを派遣します。筑紫と吉備についての対応です。佐伯連男《さえきのむらじおとこ》を筑紫に遣わし、樟使主磐手《くすのおみいわて》を吉備国に遣わし、兵を起こさせようとした。「そもそも筑紫太宰《つくしのおおみこもち》栗隅王《くるくまおう》と吉備国守《きびのくにのかみ》当摩公広島《たぎまのきみひろしま》と二人は、もともと大皇弟に付き従っていた。背くようなことがあるかもしれない。もし背反する表情が見えたら殺せ」と仰せられた。磐手は広島を殺したのに対し、男は海外の防備の必要性を説得され戻っています。筑紫は中立であったということですが、吉備はどうなのだろうかと思います。吉備が天武天皇側について戦ったとはありません。多分、吉備も筑紫も無関係であったと思われます。磐手が広島を殺して、それで終りで済むようには思われません。後の時代ですが、元寇で最初の文永の役の後に、元から来た使を問答無用で鎌倉幕府は斬首に処しています。普通に考えれば、2回目の弘安の役は起こって当然な状況になります。これと同じで、吉備国守が殺されたことが、ヤマトとキビの対立を示しているように思われます。壬申の乱が終わった後、新羅の客金押実らを筑紫で饗応しているようです。その後も、吉備国について日本書紀では書かれていません。筑紫については記述があります。天武天皇八年に、吉備太宰の石川王が病気で薨じたと出てきます。天武天皇十一年年に信濃国と吉備国がそろって不作であったとあります。天武天皇十三年に姓《かばね》を与えて朝臣《あそみ》といったと出てきます。ようやく天武天皇の時代が落ち着いてきた感じがします。それまでは日本書紀に出てくる国名などが偏りがあり、天武天皇の最初の頃は、キビとヤマトの対立があったことが隠されているように思われて、七世紀後半に対立があったとして良さそうに思われます。

2019年2月3日日曜日

平城京の宮廷ではイラン人の役人も勤務していた

 図書館で、「教科書に載っていない最先端の日本史、現代教育調査班編、青春出版社発行」の一〇一頁にありました。木簡で、平成二八年(二〇一六)一〇月、にわかに脚光を浴びたものがあるという。「破斯清道《はしのきよみち》」の名があり、破斯とはペルシャのことで、現在のイランを指しており、この人物がイラン人であることを示している。問題の木簡には天平神護元年(七六五)に破斯清道という特別職の役人が大学寮の宿直勤務をしたという意味のようなことが書いてあります。奈良時代の宮廷ではイラン人も雇っていたとすれば、稗田阿礼のインド人説もありうる話です。
 ネットでは
「破斯清道」は本当にペルシャ人なのか?「はじ」(土師)とも読めることに気付いた…【平城宮式部省木簡】
平城宮式部省木簡の「破斯清道」(はじのきよみち)は、正倉院文書に出てくる「土師浄道」(はじのきよみち)の17年後の姿の可能性が高まってきました。その正体はペルシャ人では無かったようですが、普通の下級官吏のその後の人生が分かる大事な「発見」になりますね。
とかありました。ペルシャ人では無いようです。しかし、ウィキペディアでは、「続日本紀の天平八年(七三六)八月二十三日、遣唐副使・従五位中臣朝臣名代らが唐人三人・ペルシャ人一人を率いて、帰国の挨拶のため、天皇に拝謁した」とあるようです(続日本紀、全現代語訳、宇治谷孟も見ました)。ペルシャ人では無い可能性は大ですが、まだ稗田阿礼のインド人説は捨て去ってはいません。

2019年2月2日土曜日

神社形式から古代を考えることができるか?

 地域王国を考えると、その地域には有名な神社があります。思いつくものとして、伊勢神宮、住吉大社、吉備津神社、出雲大社、宇佐神宮などです。伊勢神宮は神明造りとよばれ、天照大神を祀っています。持統天皇の時代以降に整備されたと考えています。時代の確定は出来ませんが、日本書紀によれば、崇神天皇の時以来、移動し、伊勢の地に落ち着いたとされます。
伊勢神宮伊勢神宮2伊勢神宮3

 住吉大社は、住吉造りとよばれ、四棟の本殿があります。主祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后です。神功皇を持統天皇のモデルと考えれば、伊勢神宮と同様の時期になると考えられます。
住吉大社

 出雲大社は、大社造りとよばれ、非対称が特徴のようです。これらの神社は古代より古い形式のように思われ、特異な形式であるとのことです。本殿の建立年代を見ると、吉備津神社本殿が室町時代とされ、宇佐神宮も江戸末期の建立とされ、建築物として古代を考えることはできないようです。しかしいつの時代に形成されたかといえば、持統天皇に時代以降のように思われます。この時代まで、地域王国があり、ヤマトの勢力の神道による統一が行われ、ヤマトには神社をおけず(ヤマトに置けば、全体の神社になってしまい、他の地域がこれをきらったと私は考えますが、根拠はありません)、伊勢に落ち着いたように思われます。律令の時代にあって神祇官という役職があるのも、この流れを引き継いでいて、神社形式も初期のものは統一されていた可能性はゼロではありませんが、地域によって異なっていたのを尊重していた可能性の方が大きいと考えます。
 聖武天皇の時代には国分寺・国分尼寺が各地に造られますが(741年に建立の詔)、標準化された形式で、建物などの標準モデルが作成され、配られたようです。また、総本山的な東大寺が奈良に造られ(東大寺盧舎那仏開眼供養は752年)、中央集権体制のシステムとして仏教が重要視されたと思われます。それに対し、七世紀後半の持統天皇の頃と勝手に私は推定していますが(この辺適当なので八世紀前半かもしれません)、神道を主とした国造りでは、神社を造るという基本方針はあるものの、実施の詳細については各地に任されていたように思われます。これは戸籍の見本が正倉院で今まで展示されていて、地域によってかなり異なっていて、戸籍を作るという基本方針はありましたが、実施の詳細はそれぞれの地域に任されていて、地域王国が残っていたように思われてきました。神社の何とか造りというのはいっぱいあって、地域の影響が強く出ていたと思われます。寺についても古い時代には、伽藍配置など多種あったように見えます。七世紀後半は地域王国が残っており、ヤマトの勢力が神道では統一することが出来なくなり、八世紀になり、仏教による鎮護国家に変化していったように考えることが出来そうです。