『日本音楽叢書 三 声明』木戸 敏郎、音楽之友社、1998/12/10 を借りてきて、最初のあたりを見ています。
唄という字は、会意という構造でできていて、口偏に旁を貝と書く。
貝は法螺貝のことである。巻き貝の螺旋の末端を切り落として、そこに金属製の吹き口を取り付けただけの管楽器である。リードもなければ、指穴もない。管楽器とすれば最も素朴な構造で、それだけにその音は楽器に負う部分よりも息に負う部分が大きくなる。息の吹き込み方を工夫することによって音高を変える楽器で、五音から名手では七音ぐらいは出すことができる。・・・唄は法螺貝の音を声で真似た旋律にのせて、経典の一節をうたっているものである。・・・唄をうたうことを唄を引くという。声を引き延ばしてうたうので、歌詞は何をいってるかわからない。母音を延ばし延ばし、息を何度も継ぎ足して、声の音色を変え、音高を変えながらうたう。(20ページ)
息は肺で作られ、声は息に喉が加わって作られ、言葉は口腔と舌が加わって作られる。そのすべての根本にある息は人間の気の表れである。さきに説明した息の法螺貝による表現を、息の声による表現である唄に変換する根拠も、この息に根ざした等価関係によって成立する。(28ページ)
法螺貝は戦とかで意思の伝達に使用され、これは音声での原始的な要素を示しているように思います。法螺貝からの連想ですが、言語の初期段階では、音声でも長音で発せられ、そのときには母音が重要であって子音はそれほどでないであろうということです。話し言葉も最初に母音で成立し、その後は必要に応じて子音が追加されていったと考えるのが自然です。
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