『古代東アジアと文字文化』、小倉慈司編、同成社、2016年3月1日 の中の「漢字文化と渡来人」田中史生、12ページです。
以上、朝鮮半島・日本列島が楽浪郡・帯方郡の影響下にあった時代は、四世紀に入ると一変する。非漢民族を中心とする諸族が落陽を都とした漢族政権の晋(西晋)を江南に追い(東晋)、華北が五胡一六国の分立興亡の時代に突入すると、晋の治下にあった楽浪郡・帯方郡が孤立し、313年に高句麗によって滅亡したからである。こうして朝鮮半島の郡県支配は終演するとともに、勢いを増して南政策をとる高句麗に対抗し、百済と倭国の同盟関係などが形成されていった。
この時代の朝鮮半島と日本列島の漢字文化に重要な役割を果たしたのは、中国系の知識人たち、いわゆる中国系人士層である。彼らは華北の争乱と楽浪郡・帯方郡滅亡を契機に、朝鮮半島に亡命・流入した中国系の人士、およびその子孫たちで、高句麗や百済に包摂されると、その知識で両王権の成長を助けた。彼らは中国的な一字姓を持ち、墓誌・墓塼銘などに東晋の年号・称号を用いるなど、晋志向のが強かったこともよく知られている(武田幸男『高句麗史と東アジア』岩波書店、一九九八年)。
少し飛んで16ページです。
ただ、以上のように考えると、華北の争乱を契機に中国から東へと移動した中国系人士の姓と漢字文化は、その移動先においてもしばらく、彼らの子孫に色濃く受け継がれていたとみなければならない。晋が江南に追われ約一世紀以上を経てもなお、倭・百済両国において対中外交などで活躍する中国系の単姓者たちの多くは、実際に中国で活躍した経歴を持たなかったはずだからである。
この点と関連して注目されるのは、尾形勇の古代中国の「家」に関する研究である。尾形によれば、秦漢時代以降の姓は「族」の冠称ではなく「家」の冠称として機能していた。また君と諸臣は、「私」の場となる各自の「家」を基盤に、sおこから出身して、君臣の礼を依って秩序づけられる「公」の場に登場すると観念されていた(尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店、一九七九年)。それは晋代も同様であったとみられる。例えば・・・。したがって、中国系人士層の、子孫たちへの漢字文化の継承も、基本的には姓の継承とともに、「家」の文化の継承として行われていた可能性が可能性が 高い。つまり彼らが特定の漢字文化を継承して東アジアの様々な王権に仕えることができたのは、「公」の場に仕える基盤としての「私」的な「家」と、それを継承する文化を持っていたからだと考えられる(田中史生「倭王権の渡来人政策」『中期古墳とその時代』季刊考古学・別冊二二、二〇一五年)。
漢字の伝達は、学校教育とかでなければ、個人的な「家」の制度でしか継承されないということだと思います。トンパ文字でも長期にわたって特殊な人たちで伝えなければいけなかったので、そのシステムが崩壊すればそれで絶滅するということです。人の移動で、しかも「家」制度で継承される条件がないとだめだということで、そんなことは当たり前といわれれば、そうですが気がつきませんでした。 文字の伝達には、人の移動とかも考えないといけないようです。
ここで、次のセクションの 「中国秦漢・魏晋南北朝期の出土文字資料と東アジア」阿部聡一郎の32ページ、古朝鮮における文字文化の可能性の例が面白いです。
『史記』巻一一五朝鮮列伝は、戦国時代に現在の北京周辺を支配していた燕国がその最盛期に朝鮮・真番を服属させ、官吏を置き、とりでや見張り台、防壁などを設置して防御線を引いたことを伝える。
この燕国は、秦王政(のちの始皇帝)によって紀元前二二二年に滅ぼされた。この秦による中国の統一、そしてそれに続く、項羽と劉邦のエピソードで知られる秦の滅亡から漢王朝の統一に至る動乱の時代、中国の北東部から朝鮮半島へ亡命する者がいたことを先に触れた『史記』および『魏略』は伝える。亡命者たちの出身地は、戦国時代の燕の地域、また渤海湾を挟んで南側の山東半島周辺を支配していた斉や、燕の西方にあって太行山脈に沿う地域を支配していた趙国の存在した地域であった。これら亡命者を率い、『魏略』の伝えるところでは在地政権を乗っ取る形で、紀元前二世紀の初頭に朝鮮半島西北部で衛氏朝鮮と呼ばれる王朝を立てたのが衛満である。・・・衛氏朝鮮は現在の平壌あたりと思われる王険城を都とし、前漢の外臣となり、真番など周辺国を服属させ、以後武帝によって滅ぼされるまでの九〇年弱、自立した勢力を保った。
衛氏朝鮮では、王のもとに大臣や将軍が置かれており、そのなかには亡命者およびその子孫だけでなく、在地系の人物も含まれていたことが、『史記』に記録されている。こうした面から、衛氏朝鮮は「燕の亡命者・衛満を中心に土着の在地首長層を束ねた連合王国」であり(李成市『古代アジアの民族と国家』岩波書店、一九九八年)、また統一的な国家権力と支配機構を持たない「国家形成の途上にある社会」と評される(木村誠『古代朝鮮の国家と社会』吉川弘文館、二〇〇四年)。
しかし改めて文字の使用に話を戻すとすれば、衛氏朝鮮の建設に中国での政治的経験を有する人物が率いる中国系の移住者集団が深く関与していること、そして彼らが在地系の集団も加えて政権を構成し、外臣として前漢と政治的な交渉を持っていることは見過ごせないであろう。
さて、ようやく<五世紀の倭国の漢字文化と「書者」>の話です。
この五世紀の倭国の文字文化を検証できる同時代の出土文字資料として最も著名なものは、東日本と西日本の古墳からそれぞれ出土した、以下の2本の有名刀剣である。
①稲荷山古墳出土鉄剣
②江田船山古墳出土大刀
①には「辛亥年」とあり、四七一年と見るのが通説で(五三一年説もある)、「わかたけるだいおう」と読まれ、これを雄略天皇にあてるのはどうかと思いますが、同一人物は確からしく、二つの有力刀剣は五世紀後半に倭国において制作されたということです。②は有明海の近く、①は内陸部ですが、利根川の近くと考えれば、水上交通の時代として、倭国吉備説で矛盾はないように思います。文字の中に「△△人」と表記されていて、中国の史料に見られることから、五世紀の人制が中国に由来することもほぼ確実視されるようになっているとのことです。
これらを踏まえ、近年、人制に関する通説的理解となっているのが、吉村武彦の見解である(吉村武彦「倭国と大和王権」『岩波講座 日本通史』、二、岩波書店、一九九三年)。吉村は、「△△人」として職務を示すあり方が五世紀の対栄外交によってもたらされ、これが王権と仕奉関係を結ぶ各地の在地首長の上番制度として全国的に展開したこと、人制には「(動詞+名詞)人」と「(名詞)人」の二つのタイプがあり、漢語表記を基本としつつ和語読みがなされていた可能性が高いこと、また後に人制は百済の部制の影響を受けつつ成立した和文表記の部民制のなかに解消されていくことなどを指摘した。
右の理解は概ね首背しうるものであるが、筆者は、一部に修正が必要だと考えている(田中史生「倭の五王と列島支配」『岩波講座 日本歴史』一、岩波書店二〇一三年)。・・・
これは、「展馬」であるが、この表記が北朝系の史書にあるが南朝系にはなく、馬は華北の文化であるようなことのようです。朝鮮半島を経由で日本に入ってきたと考えるとのようです。
「辛亥年」を四七一年と考えると、この時代は、南朝栄で言えば、(420-479年)で栄の衰退滅亡期に見えます。中国系人士層が日本へやってきた可能性は大きいです。後の方19ページに
ならば②の「書者」の張安も「書人」、すなわち青や博徳伝承に通じるフミヒトであったということになるだろう。しかも「張」は中国的一文字姓である。つまり②は、「家」の文化として漢字文化を継承している中国系人士層が、倭王権のもと、フミヒトとして活躍していたことを具体的に裏付ける出土文字史料とみてよい。
とあります。フミヒトは『書紀』雄略紀にあります。この本の15ページです。雄略天皇は、五世紀前半に南朝栄に彼らをたびたび派遣したとあるようです。雄略紀も完全にデタラメと思ってましたが違うかもしれません。
話がまとまりませんが、衛氏朝鮮の衛満は天武天皇に似ているような気もします。九〇年弱ですが、その間は続いたということで、日本では天武系が続いたのとで、同じようなことがあったのかもしれません。もちろん関係ないかもしれません。