2021年8月31日火曜日

声明と楽譜

「声明」とは、法会などで僧侶がフシをつけて経文 を唱える声楽曲のことで、フシがなく読むだけならば 「読経」といいます。

声明は古代インドのバラモン僧が学ぶべき五つの学問の一つで、文法学や音韻学を意味しています。それが中国で漢訳されて「声明」と書かれるようになりました。中国には前一世紀ころに伝わり、三国時代に現在のような様式が確立したといわれます。 日本へは仏教と同時に伝来したと考えられています が、はっきりしたことは不明です。日本で声明に関す る最初の記述は、各宗派ごとに異なっていた「転経唱 礼」(=声明の唱い方)を、七二〇年に唐僧の道栄を招 いて統一する作業がなされたというものです。また七 五二年、東大寺大仏の開眼法会において「散華」や 「唄」など、いわゆる「四箇法要」がおこなわれたこ とも記録に残っています。日本で声明と呼ばれるようになったのは中世以降で、それ以前は「梵唄」「唄置」と呼ばれていました。・・・『日本音楽叢書 三 声明』木戸 敏郎、音楽之友社、1998/12/10、68ページ

声明には楽譜があり、「博士(はかせ)」といい、二種類あります。 以下は、「聲明(しょうみょう)」以後 : 博士(ノーテイション)の解読と声 ...  の115ページを見ています。

「ハカセ」は、本来は「フシ」と発音すべきとのことです。古博士と目安博士で元々は古博士であって、譜例1に示されるもののようです。(PDFの中の図を引用)



初重から三重まで三オクターブあり、一オクターブが五音、つまりドレミファソラシドのファとシの四七抜きの五音で構成され、時計回りに字の周りに配置されます。実際は「宮」「商」「角」「微」「羽」の漢字での音名です。サンスクリット的な配置に感じます。目安博士は音程を曲線で表したものになっていきます。これも縦に並べていて並べていて、縦書きに対応しているようです。『図解日本音楽史』では、宗教音楽「グレゴリオ聖歌」のネウマ譜という旋律を図形で表していて、これが目安博士と似ているとしていますが例示がないので、よくわからないところです。後の五線譜は横向きなので、ヨーロッパの横書き文字と対応していて、目安博士の漢字の縦書きになるので、楽譜も文字言語の影響を受けているように思われます。

ちょっと問題になるのがアラビア文字です。右から左に記述されます。一体どういうふうにアラビア音楽はなるのかと思います。

2021年8月29日日曜日

唄の字と母音

 『日本音楽叢書 三 声明』木戸 敏郎、音楽之友社、1998/12/10 を借りてきて、最初のあたりを見ています。

唄という字は、会意という構造でできていて、口偏に旁を貝と書く。

貝は法螺貝のことである。巻き貝の螺旋の末端を切り落として、そこに金属製の吹き口を取り付けただけの管楽器である。リードもなければ、指穴もない。管楽器とすれば最も素朴な構造で、それだけにその音は楽器に負う部分よりも息に負う部分が大きくなる。息の吹き込み方を工夫することによって音高を変える楽器で、五音から名手では七音ぐらいは出すことができる。・・・唄は法螺貝の音を声で真似た旋律にのせて、経典の一節をうたっているものである。・・・唄をうたうことを唄を引くという。声を引き延ばしてうたうので、歌詞は何をいってるかわからない。母音を延ばし延ばし、息を何度も継ぎ足して、声の音色を変え、音高を変えながらうたう。(20ページ)

息は肺で作られ、声は息に喉が加わって作られ、言葉は口腔と舌が加わって作られる。そのすべての根本にある息は人間の気の表れである。さきに説明した息の法螺貝による表現を、息の声による表現である唄に変換する根拠も、この息に根ざした等価関係によって成立する。(28ページ)

法螺貝は戦とかで意思の伝達に使用され、これは音声での原始的な要素を示しているように思います。法螺貝からの連想ですが、言語の初期段階では、音声でも長音で発せられ、そのときには母音が重要であって子音はそれほどでないであろうということです。話し言葉も最初に母音で成立し、その後は必要に応じて子音が追加されていったと考えるのが自然です。

2021年8月27日金曜日

文字文化の伝わり方、古墳の出土剣とか

 『古代東アジアと文字文化』、小倉慈司編、同成社、2016年3月1日 の中の「漢字文化と渡来人」田中史生、12ページです。

以上、朝鮮半島・日本列島が楽浪郡・帯方郡の影響下にあった時代は、四世紀に入ると一変する。非漢民族を中心とする諸族が落陽を都とした漢族政権の晋(西晋)を江南に追い(東晋)、華北が五胡一六国の分立興亡の時代に突入すると、晋の治下にあった楽浪郡・帯方郡が孤立し、313年に高句麗によって滅亡したからである。こうして朝鮮半島の郡県支配は終演するとともに、勢いを増して南政策をとる高句麗に対抗し、百済と倭国の同盟関係などが形成されていった。

この時代の朝鮮半島と日本列島の漢字文化に重要な役割を果たしたのは、中国系の知識人たち、いわゆる中国系人士層である。彼らは華北の争乱と楽浪郡・帯方郡滅亡を契機に、朝鮮半島に亡命・流入した中国系の人士、およびその子孫たちで、高句麗や百済に包摂されると、その知識で両王権の成長を助けた。彼らは中国的な一字姓を持ち、墓誌・墓塼銘などに東晋の年号・称号を用いるなど、晋志向のが強かったこともよく知られている(武田幸男『高句麗史と東アジア』岩波書店、一九九八年)。

少し飛んで16ページです。

ただ、以上のように考えると、華北の争乱を契機に中国から東へと移動した中国系人士の姓と漢字文化は、その移動先においてもしばらく、彼らの子孫に色濃く受け継がれていたとみなければならない。晋が江南に追われ約一世紀以上を経てもなお、倭・百済両国において対中外交などで活躍する中国系の単姓者たちの多くは、実際に中国で活躍した経歴を持たなかったはずだからである。

この点と関連して注目されるのは、尾形勇の古代中国の「家」に関する研究である。尾形によれば、秦漢時代以降の姓は「族」の冠称ではなく「家」の冠称として機能していた。また君と諸臣は、「私」の場となる各自の「家」を基盤に、sおこから出身して、君臣の礼を依って秩序づけられる「公」の場に登場すると観念されていた(尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店、一九七九年)。それは晋代も同様であったとみられる。例えば・・・。したがって、中国系人士層の、子孫たちへの漢字文化の継承も、基本的には姓の継承とともに、「家」の文化の継承として行われていた可能性が可能性が 高い。つまり彼らが特定の漢字文化を継承して東アジアの様々な王権に仕えることができたのは、「公」の場に仕える基盤としての「私」的な「家」と、それを継承する文化を持っていたからだと考えられる(田中史生「倭王権の渡来人政策」『中期古墳とその時代』季刊考古学・別冊二二、二〇一五年)。

漢字の伝達は、学校教育とかでなければ、個人的な「家」の制度でしか継承されないということだと思います。トンパ文字でも長期にわたって特殊な人たちで伝えなければいけなかったので、そのシステムが崩壊すればそれで絶滅するということです。人の移動で、しかも「家」制度で継承される条件がないとだめだということで、そんなことは当たり前といわれれば、そうですが気がつきませんでした。 文字の伝達には、人の移動とかも考えないといけないようです。

ここで、次のセクションの 「中国秦漢・魏晋南北朝期の出土文字資料と東アジア」阿部聡一郎の32ページ、古朝鮮における文字文化の可能性の例が面白いです。

『史記』巻一一五朝鮮列伝は、戦国時代に現在の北京周辺を支配していた燕国がその最盛期に朝鮮・真番を服属させ、官吏を置き、とりでや見張り台、防壁などを設置して防御線を引いたことを伝える。

この燕国は、秦王政(のちの始皇帝)によって紀元前二二二年に滅ぼされた。この秦による中国の統一、そしてそれに続く、項羽と劉邦のエピソードで知られる秦の滅亡から漢王朝の統一に至る動乱の時代、中国の北東部から朝鮮半島へ亡命する者がいたことを先に触れた『史記』および『魏略』は伝える。亡命者たちの出身地は、戦国時代の燕の地域、また渤海湾を挟んで南側の山東半島周辺を支配していた斉や、燕の西方にあって太行山脈に沿う地域を支配していた趙国の存在した地域であった。これら亡命者を率い、『魏略』の伝えるところでは在地政権を乗っ取る形で、紀元前二世紀の初頭に朝鮮半島西北部で衛氏朝鮮と呼ばれる王朝を立てたのが衛満である。・・・衛氏朝鮮は現在の平壌あたりと思われる王険城を都とし、前漢の外臣となり、真番など周辺国を服属させ、以後武帝によって滅ぼされるまでの九〇年弱、自立した勢力を保った。

衛氏朝鮮では、王のもとに大臣や将軍が置かれており、そのなかには亡命者およびその子孫だけでなく、在地系の人物も含まれていたことが、『史記』に記録されている。こうした面から、衛氏朝鮮は「燕の亡命者・衛満を中心に土着の在地首長層を束ねた連合王国」であり(李成市『古代アジアの民族と国家』岩波書店、一九九八年)、また統一的な国家権力と支配機構を持たない「国家形成の途上にある社会」と評される(木村誠『古代朝鮮の国家と社会』吉川弘文館、二〇〇四年)。

しかし改めて文字の使用に話を戻すとすれば、衛氏朝鮮の建設に中国での政治的経験を有する人物が率いる中国系の移住者集団が深く関与していること、そして彼らが在地系の集団も加えて政権を構成し、外臣として前漢と政治的な交渉を持っていることは見過ごせないであろう。

さて、ようやく<五世紀の倭国の漢字文化と「書者」>の話です。

この五世紀の倭国の文字文化を検証できる同時代の出土文字資料として最も著名なものは、東日本と西日本の古墳からそれぞれ出土した、以下の2本の有名刀剣である。

①稲荷山古墳出土鉄剣
②江田船山古墳出土大刀

①には「辛亥年」とあり、四七一年と見るのが通説で(五三一年説もある)、「わかたけるだいおう」と読まれ、これを雄略天皇にあてるのはどうかと思いますが、同一人物は確からしく、二つの有力刀剣は五世紀後半に倭国において制作されたということです。②は有明海の近く、①は内陸部ですが、利根川の近くと考えれば、水上交通の時代として、倭国吉備説で矛盾はないように思います。文字の中に「△△人」と表記されていて、中国の史料に見られることから、五世紀の人制が中国に由来することもほぼ確実視されるようになっているとのことです。

これらを踏まえ、近年、人制に関する通説的理解となっているのが、吉村武彦の見解である(吉村武彦「倭国と大和王権」『岩波講座 日本通史』、二、岩波書店、一九九三年)。吉村は、「△△人」として職務を示すあり方が五世紀の対栄外交によってもたらされ、これが王権と仕奉関係を結ぶ各地の在地首長の上番制度として全国的に展開したこと、人制には「(動詞+名詞)人」と「(名詞)人」の二つのタイプがあり、漢語表記を基本としつつ和語読みがなされていた可能性が高いこと、また後に人制は百済の部制の影響を受けつつ成立した和文表記の部民制のなかに解消されていくことなどを指摘した。

右の理解は概ね首背しうるものであるが、筆者は、一部に修正が必要だと考えている(田中史生「倭の五王と列島支配」『岩波講座 日本歴史』一、岩波書店二〇一三年)。・・・

これは、「展馬」であるが、この表記が北朝系の史書にあるが南朝系にはなく、馬は華北の文化であるようなことのようです。朝鮮半島を経由で日本に入ってきたと考えるとのようです。

「辛亥年」を四七一年と考えると、この時代は、南朝栄で言えば、(420-479年)で栄の衰退滅亡期に見えます。中国系人士層が日本へやってきた可能性は大きいです。後の方19ページに

ならば②の「書者」の張安も「書人」、すなわち青や博徳伝承に通じるフミヒトであったということになるだろう。しかも「張」は中国的一文字姓である。つまり②は、「家」の文化として漢字文化を継承している中国系人士層が、倭王権のもと、フミヒトとして活躍していたことを具体的に裏付ける出土文字史料とみてよい。

とあります。フミヒトは『書紀』雄略紀にあります。この本の15ページです。雄略天皇は、五世紀前半に南朝栄に彼らをたびたび派遣したとあるようです。雄略紀も完全にデタラメと思ってましたが違うかもしれません。

話がまとまりませんが、衛氏朝鮮の衛満は天武天皇に似ているような気もします。九〇年弱ですが、その間は続いたということで、日本では天武系が続いたのとで、同じようなことがあったのかもしれません。もちろん関係ないかもしれません。

2021年8月25日水曜日

アジアの原始言語

  アフリカからホモサピエンスが世界に広がり、集団での移動でアジアのどこかにやってきたグループは、集団内で何らかのコミュニケーションができていたはずです。確定できませんが、多分、原始的な言語を使っていただろうと思います。トンパ文字の神話のところで日本語とナシ語が似ている例がありましたが、ナシ族の人が日本に来たとか、日本からナシ族に言葉を伝えたとは考えにくいものがあります。アジア地域に同一タイプの言語を持っていた時代があったと考えるのが自然です。それが膠着語といわれる言語の気がします。最初は使用される言葉も少なく、文化の発展により単語数が増えていったと思います。発音で言えば、少なくてもよかったと思いますが、間に合わなくなって、母音の数など増えていったと思います。言語によって母音の種類はいろいろ違って採用されていったと思います。同一の進化でないように思います。中国語で声調というのがあります。これは音の高低により意味を区別するものです。つまり歌うように話していた痕跡のように思われます。現代は文字文化の時代で歌うように話すことはありませんが、文字のなかった時代では歌っていたかもしれません。単語や母音・子音とかは違ってきますが、膠着語的な言語システムは変わっていないと考えます。これは話し言葉です。

 さて文字ですが、甲骨文字を考えます。トンパ文字で「てにをは」はありませんでしたが、甲骨文字でもいろんな文字を作るのにエネルギーを使い、「てにをは」はなくてもなんとかなると考えられたと思います。小学生の時の漢字学習を思い出せば、学年ごとに少しずつ勉強しました。甲骨文字も同様で、文字を時間をかけて作られた気がします。読むときに、最初は「てにをは」を補っていたのが、省略されてよまれなく読まれなくなり、孤立語に変化していったと想像します。

 日本語では、漢字を導入しましたが、中国語そのままではなく、膠着語という形式を残したということだと思います。


2021年8月22日日曜日

ラテン語と中国語

 「トンパ文字の神話」で書いてますが、

古事記学 第1号 

の中で、88ページです。

ナシ語は日本語と言語構造が近似しております。現在もナシ族同士はナシ語を用いて話し、一方、日本人も日本語で話すのですが、次の点でナシ族と日本人との間で大きな相違があると言えます。日本人は書記する場合も現在日本語であります。ただし、口頭言語と同じでないことは、今、言ったとおりですが。しかし、ナシ族は書記する場合は ナシ語で書くということがなく、ナシ語とは言語構造を異にする漢語(中国語)で記すということであります。
 口頭言語と書記言語とが遊離したままでは、極めて不自由・不便であると先に述べましたが、その不自由さ・不便 ということが常にどこにでも当てはまるわけではないことも言いました。ナシ族のように、口頭言語と書記言語とが異なったまま存続し、現在に至っているといった現実があるからであります。このナシ族の在りようは、あるいは不自由・不便という以前に、ナシ族という少数民族が、中国国内で中国語を話す大多数の漢民族の中で居住しており、まずはその点が日本と大きく異なるところであると言ってよいかと思います。周りが漢民族であるとき、ナシ族同士はナシ語を話しても、漢民族と話す機会も大変多く、その場合は中国語で話すことになり、おのずとナシ族はナシ語と中国語のバイリンガルになると考えられ、実際確かに現在もナシ族はバイリンガルであります。私の経験からも、夏休みを利用して調査に行きますと、ナシ族の人が二、三人いてずっとナシ語で話しているんですが、後ろのほうに 漢民族がいて、ひょっと後ろを見て、もう漢民族の人と中国語で話すといったことを幾度も見ました。

日本語を基準に考え、ナシ語が特殊に思ってましたがそうでもないような気がしてきました。
ヨーロッパにラテン語があります。ネット検索では

ラテンご【ラテン語】

インドヨーロッパ語族のイタリック語派に属する言語。 現在は死語だが、学術用語やバチカン市国の公用語などで使われている。 もとはローマ周辺のラティウム地方の言語だったが、ローマの勢力拡大とともにイタリア全土に、さらにローマ帝国の公用語として当時のヨーロッパ世界に広がった。

近代までは学術界などでは主要言語として使われたとのことで、読み書き用の言語であったと言えます。ローマ帝国あっての言語で、各地域の話し言葉はあったはずですが、文字としてラテン語が使用されたということでしょう。ヨーロッパでのラテン語から、アジアではナシ語と中国語の関係を見て、ラテン語=中国語になると言えます。ラテン語はローマ帝国の滅亡で使われなくなりましたが、中国語は今も存在していて、違うように見えますが、実質的には継続し、地域の中心言語として周りの地域に強い影響をもたらしていると思います。

こうして見ると、日本語は、中国語に抵抗し、漢字をとりいれましたが、訓読みを作り、語順をまあ守り、仮名文字を作り、「てにをは」を表記化したりと話し言葉と書き言葉が遊離してなくて、なかなかのものだと思ってきます。

2021年8月21日土曜日

ファイザーとp・f・h

 新型コロナワクチンでファイザー社とモデルナ社のものとかが、しょっちゅうニュースに出てきます。それなのに今まで気にしてなかったのですが、ファイザーは英語ではPfizerと表記しています。この読み方はプファイザーとすべきで、ファイザーは不正確なのではと思いました。しかし、ファイザー社はアメリカの会社で、日本法人のホームページを見ると、日本語表記でファイザーとなっています。 なぜ社名がファイザーかというかは、ホームページに歴史が書いてあります。引用ですが、

ファイザー社を創設した二人のチャールズには、・・・ 従兄弟同士のチャールズ・ファイザーとチャールズ・エアハルトは、1840年代半ばドイツのルドヴィグスブルグから移民してきました。二人はともに冒険に焦がれ、アメリカこそ好機にあふれた土地だと考えたのです。
母国ドイツでは、チャールズ・ファイザーは薬剤師見習として化学を学び、一方、エアハルトは伯父のカール・フレデリック・ファイザーの下で修行して菓子職人になりました。渡米後、二人は協力して、1849年に化学会社チャールズ・ファイザー・アンド・カンパニーを設立し、ニューヨーク州ブルックリンのウィリアムズバーグ地区で操業を開始しました。

Pfizerはドイツ人の名前です。英語の発音ではファイザーに聞こえます。以下のところで聞きました。ドイツ語では全然違っていて、日本人の耳ではよくわかりません。英米人でもよくわからないのかもしれませんが。

Pfizer の発音の仕方 

pfの発音は英語ではpを無視しているようですが、ドイツ語の本を見るとfの口の形をしてpと発音するようです。とするとphも口の形をフにしておいてpと発音するのかもしれません。同じプの発音でも、pfとphの違いは出ます。ph=fとするのだと英語の授業で当然のように習いましたが、元々がpとfとhが似た発音であるのかもしれません。何でこの話かというと、日本語でぱ→ふぁ→はと変化したこと、ぴよこ→ひよこと変化した例と関係あるのかと思っただけです。多分関係ない話ですが、メモ書きとします。

2021年8月18日水曜日

トンパ文字の神話

 トンパ文字の神話

象形文字としての神話でなく、内容を示した本を借りました。 『生きている象形文字』、西田龍雄、五月書房、2001年3月12日

この本では注記があり、モソ文字はトンパ文字のことで書き直していないとのことであったが、最初はどうなのだろうと思ってしまいました。モソ族→ナシ族です。 内容的には理解できていない部分が多いですが、それでも文字の生成過程とか参考になるところが多いです。

自分たちが日常話す言葉を文字に書きあらわすということは、一見何でもないようではあるが、実際は並大抵の仕事ではない。私は、その人たちの近くにしばらく生活していて、その難しさを痛切に感じた。彼らの周辺には、手近にタイ文字がありラオス文字がある。また中国人の間では漢字が使われ、今日ではローマ文字接近している。しかし、それらを借用して自分らの言葉に合ったように受け入れる能力を彼らはもたないのである。まして、自分らに固有の文字を作りだすことなどは、強い政治勢力を背景として傑出した人物が現れてこなければ、実現は難しい。(102-103ページ)

文字の発達は多くの場合、象形文字の段階を通過していくのは事実ではあるが、その段階を長く今日まで保持知るのは、かえってきわめてむつかしいことであった。モソ文字は、巫師(トンパ)という特定の階級の、物を象る特異な才能によって支えられ伝承されてきたが、モソ語自体が文字の使用を通じて整理されていなかったのも、この象形文字を今まで伝承させた理由の一つであると思う。(104ページ)

このあとに、『延寿経』のことがありますが、飛ばして モソ族創世記『洪水物語』の感想です。

もともとのタイトルは、<人類移動の由来>のような意味だそうです。

ナシ族の洪水物語は,「兄弟姉妹が通婚したために,天地を汚し神の怒りをかい,大洪水を引き起こしてしまう。人類はそのために死滅するが,兄弟の中でもっとも心がけのよい一人だけが,神の助けによって生き残り,天界との交渉に苦労を重ねた末,天女と夫婦になって人類の祖先になる」というあらすじである。

洪水物語は各地にありますが、天女と夫婦になって人類の祖先になるとうのが変わっています。周囲の勢力の影響を実際は受けているので、理想を求めて混雑的な血統を嫌っているように思われます。この本でも20ページぐらいあって長大な物語です。居住地の様子、焼き畑農業、狩猟や漁獲など行っていたことなど、モソ族の生活環境が反映されているようです。

そして、最後に「始祖伝説」が加えられて、この夫婦の子供たちがトンパの力で口がきけるようになり、チベット族、モソ族、民家族(白族)の祖先になるという形でこの物語が結ばれている。(141ページ)

周りの民族と友好的に大団円となり、すごく現実的な終わり方です。神話といっても、その当時の状況を考えた、きわめて政治的な物語に思えます。 この物語は、物語として残っているので、何度も繰り返しトンパによって語られ、多くの人が楽しんだエンタテインメントであったろうことから、日本の古事記も同じようなところがあるのかと思われてきます。

古事記から話がナシ語に戻りますが、検索とかしていて 以下の『古事記学 第1号』のpdfを見つけました。よく見てませんが、この中に、日本語・中国語・ナシ語の比較の文例がありました。(pdfの17-18ページ、印刷されているのでは86ー87ページ)、日本語とナシ語の単語訳を並べたものです(中国語は省略)。

(日本語文) あなたの家から大学に着くまで、どれくらい時間がかかりますか?

(ナシ語の順次訳) あなた の 家 から 大学 着く いくら 時間 かかる?

ナシ語の後半部分で、助詞部分がないですが、語順はまったく同じです。似てると思います。

短い文の例では 

(日本語)私は狼を射る。
(中国語)我射狼
(ナシ語)私 は 狼 を 射る

 ナシ語は日本語の意味にあわしていますが、助詞も含めて似ています。 ただし、これは話し言葉であって、ナシ族の人でも書記の場合は中国語になるようです。使い分けしているとのことです。日本語でも口語体と文語体とかあるので同じではないですが、ナシ語は極端な状態だとは思います。

古事記学 第1号 

2021年8月13日金曜日

トンパ文字

 図書館でタイ語の近くにあったので借りてきました。

トンパ文字(トンパもじ、中国語:東巴文)またはトンバ文字とは、中国のチベット東部や雲南省北部に住む少数民族の一つナシ族に伝わる、象形文字の一種である。ナシ語の表記に用い、異体字を除くと約1400の単字からなり、語彙は豊富である。現在、世界で唯一の「生きた象形文字」とされる。

ナシ族の中でもごく少数の「トンバ」と呼ばれる司祭によってのみ受け継がれている文字である。中国語での音訳は「東巴(Dongba)」。(ウィキペディア)

トンパという宗教者によって書かれているのでトンパ経と呼ばれます。ナシ族は「占い」を大切にし、「骨占い」が重要で、それが甲骨文字を起源としていることを思い出させると、下記の本にありました。 『トンパ文字』、王 超鷹、‎ マール社 (1996/4/20)

以下、「骨占い」の記述です。

この占いは、ナシ族の人々が結婚の日取りや方位を知りたいときや問題の解決にあたるときに行われる。トンパが骨占いをするときは、ヤギの肩の骨しか用いず、他の動物は使用しない決まりになっている。その方法についてみてみたい。
 まず、ヤギの骨から肉をきれいに取り除き、洗って干して保存する。・・・占いの依頼がくると、、トンパは殻のついた麦を入れた竹籠を前にして正座する。これは屋内でも屋外でもかまわない。そしてヤギの骨を手に持って、目を閉じて呪文を唱える。それから、あらかじめ聞いておいた依頼人の名前と占う項目を告げ、目の前の籠の上に骨を置く。次に、鎌と石をこすりあわせて摩擦で火を起こし、麦に火をつけて吉を授けるよう神に祈るのである。
 火のついた麦ははぜて飛ぶのだが、この飛ぶ方向と骨に入るひびの具合から神の啓示を読み取り、吉凶を占う。うまくいかないときは、成功するまで繰り返す。
 ここに、それぞれのひびが示す意味について詳しく記されたトンパ経がある。そのあらましを一部みてみることにしよう。以下略。

このあと、ひびの入り方の図と、その横に解釈が絵文字で示されていて、吉凶やそのレベルなどの説明があります。もちろん絵の解説がないとわかりません。あってもわかりにくいですが。しかし、適当に、自分に都合のよいように占っているのではないことはわかります。

これを見て、今まで甲骨文字がどのように使われていたのか、わかってませんでしたが、トンパ文字の例から、祭祀儀礼に使われていた様子が具体的なイメージとして持てました。

このトンパ経は、トンパ文字を使いますが、トンパという宗教者の覚え書きのイメージです。他の人に読んでもらうものではないので、「てにをは」とかがありません。自分がわかればよいので、話言葉と同じ必要はありません。 甲骨文字も同様に思われます。中国語が、祭祀儀礼の中の文字を取り込む過程で、膠着語と呼ばれる重要でない部分を取り除いて孤立語に変化していく流れが納得できます。

トンパ文字には彩色されたものもあり、色が意味をもつことから、例はなく思いつきですが、馬とか白く描かれ、これで白い馬を表した可能性が可能性があります。白馬で「馬は白い」とするか「白い馬」とするかはそのときの状況によるとしたら、タイ語での馬を形容する白いが馬の後に来る語順も絵文字の痕跡だったかもしれません。

トンパ文字についてほかにも、いったい何なんだろうかと思うことがあります。 先の本の中で、昔話の記録 Record of Old Stories の中に絵物語があります。絵文字は省き、解釈のみ抜き書きします。

鷹のくちばしに、血も骨も肉も羽毛も、何もついていなければ、鷹はまだ何も悪いことはしていないと言えるでしょうか。
 ある赤い牛は、虎に食べられました。そこで別の牛は、これは虎の罪だと言いました。そのとき、虎はパッとその牛に飛びかかりました。その影は森林にはっきりと映りました。森にいる牛は驚いて、虎に罪をかけることをしなくなりました。

これが昔話なのかと思いますが、牛はナシ族の人で、虎は外部の勢力、侵略された様子を、間接的に、わかりにくいトンパ文字で記したような気がしてきました。チベットの文字とか漢字とか文字は知っていたはずなのに、トンパ文字を作る出したのは、民族の自立的な何らかの強い意図があったと思えます。

先の本の中で、ナシ族の生活や習慣が日本と似ているとありました。 以前の記事を思い出しましたが、ナシ族とミャオ族は関係なさそうです。 北国の春 ミャオ語 

2021年8月10日火曜日

ローマ数字の起源

 ローマ数字で、10がⅩのように表されます。漢数字は十なので45度回転すれば同じです。 漢字では一,二、三となります。途中飛ばして十ですが、これは10本の横棒を束にしてひとまとめにしたイメージです。整合性があります。ローマ数字ではⅠ、Ⅱ、Ⅲと進みます。途中を飛ばして10ですが束ねるイメージでは十にならないと合ってきません。十字架のイメージで十を避けて45度回転にしたのかとも思います。もう一つ漢字のイメージにあってるのが漢字の九です。これは十のクロス(ナみたいな部分を十と見ます)の十に一個のひげがついた形です。10の一つ前が9であることをイメージしています。ローマ数字の9がⅨと10がⅩでひとつ前の形で発想は同じです。ローマ数字は漢数字をベースに考えられたように思えます。10のⅩですが、上半分をとれば、Ⅴになります。数字の5なので漢数字よりあとと思われ、洗練されています。 中国とローマに交流があったことが前提の思いつきです。

ウィキペディアでは羊を数えることからローマ数字が生まれたとの説があります。

ローマ数字の歴史 

2021年8月9日月曜日

タイ語のこと

 声調があるということで中国語とタイ語は同類であるとのことでした。本当だろうかと思い、タイ語の本を借りてきました。

声調とは一音の中で音程が変化することを言います。同じ「あ」の中で音の高低が変化します。日本語では雨と飴で違いがありますが、「あ」の中では音が高くなったり低くなったりしません。それが中国語やタイ語では変わります。種類は中国語では4声、タイ語では5声ですが似たようなものに見えます。 ウィキペディアの「タイ王国」で

タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった

とあります。中国語の影響を受けていると思えてきます。 疑問文での語順を考えたいので、グーグル翻訳でみると

「これは何ですか」をタイ語では

นี่คืออะไร
Nī̀ khụ̄x xarị

で、最初の「นี่คือ」(Nī̀ khụ̄x)が「これは」、「อะไร」(xarị)が「何ですか」の部分になり、語順は日本語や中国語と合っています。 細かくいうと「นี่」(นี่)の部分が「これ」のようです。
タイ語では句読点がないようで、見にくいです。また、丁寧表現が文末につく時、男性と女性で異なるとかあるようです。

このタイの文字ですが、母音と子音で構成されます。子音が中心で母音がその前後左右に配置されるようです。サンスクリットみたいな感じになります。タイは仏教の国で、中国からやってき来た人が、インドの影響をもろに受けて、タイ語ができたように感じます(個人の感想です)。

驚いたのが、形容詞は名詞の後ろからかかるようです。 『らくらく話せる!タイ語レッスン』、小野健一、ナツメ社、2016年4月1日、32-33ページ

グーグル翻訳の助けを借ります。

おいしいタイ料理
อาหารไทยอร่อยๆ
Xāh̄ār thị yx r̀xy«

「อาหารไทย อร่อยๆ 」の前半がタイ料理で、後半がおいしい となるようです。うしろから解釈して「おいしいタイ料理」となります。

これは、次の、主語+形容詞の場合と区別できなくなります。

タイ料理おいしい
อาหารไทยอร่อยๆ
Xāh̄ār thị yx r̀xy«

グーグル翻訳の結果で確認しましたが、同じようになってます。上記の本では、話の前後関係からどちらかなのかを判断しますとのことです。
「おいしいタイ料理」と「タイ料理おいしい」は全然違うように思いますが、どちらも同じようなものでたいした違いはないのかもしれません。

2021年8月7日土曜日

中国語と日本語の疑問文と韓国語

 次の本の受け売りです。

『中国語はこんなに日本語と似ている』、樋口真二、リフレ出版、2014年12月28日

疑問文での疑問詞の位置が似ているとのことで、そうだと思います。 「これは何ですか」という文があります。

中国語の入力ができないので、グーグル翻訳に頼ります。

これは何ですか
Korehanandesuka
这是什么
Zhè shì shénme

と対応しています。这→これ、是→は(~です)、什么→何 となっているので、「これ は 何」という語順になっています。 英語では、
What is this?
なので、「なに です これ」ということで、まったく別物です。 逆に、日本語では、「なんなのこれ」みたいで、詰問調になってます。 英語で、 This is what? と言えば、×になりそうです。グーグル翻訳では これは何? と訳してくれますので、間違いではなさそうですが。 ほかの文例もありましたが、省略します。とにかく英語では疑問詞が文頭に来て、中国語や日本語と違います。

中国語と日本語が似ているとの話に洗脳されていると思いますが、朝鮮の言葉はどうだろうと気になりました。 グーグル翻訳では、日本語→韓国語の変換です。

이것은 무엇입니까
igeos-eun mueos-ibnikka

となってます。ハングルを理解してませんが、「이것은」→「これは」、「무엇」→「何」、「何ですか」→「무엇입니까」になっています。しかし、「ですか」→「인가」と変換されるので、助詞的な部分で違っていそうで間違いがあるかもしれません。とにかく「これ」と「何」の語順は中国語や日本語と同様です。元からこの語順だったか、中国周辺の国が中国語の影響を受けて変化したかのどちらかだろうとは思われますがわかりません。ついでに、韓国語(朝鮮語か?)では、否定の副詞は動詞の前につくようです。中国語や英語のように動詞の前に否定がきます。こうしてみると日本語は疑問文だけでなく、否定文でも否定の言葉は文の最後に置かれ、語順を保持しています。より単純化の方向に進んだクレオール的な言語だなとあらためて思います。

さてハングルですが、ぱっと見では変な文字です。 『やさしい例文で学ぶ朝鮮語の基本会話』、権 在淑、ナツメ社、1992年 この本で、最初の「朝鮮語とはこんなことば」が簡潔でわかりやすいです。その中で、朝鮮語の文字について

朝鮮語の文字は韓国では普通<ハングル>と呼ばれている。これは「大いなる文字」の意であるとされている。しかし、この呼称は北朝鮮では一般的でなく、北朝鮮では普通<ウリグル>(私たちの文字)と呼ばれている。
 さて、ハングルは、文字通り独創的で人工的な発明品としての文字である。朝鮮王朝、いわゆる李氏朝鮮の四代目の王・世宗(セジョン)とその学者たちによって1443年に完成され、1446年に「訓民正音(くんみんせいおん)」という名で公布された。そして文字と同じ名前を持つ「訓民正音」という本が現在まで伝わることによって、今でも我々はひとつひとつの文字の成り立ちを文献の上できちんと知ることができる。このことは世界の文字の中でも大変めずらしいことだろう。子音は発音器官の形をかたどって、母音は天(・)、地(―)、人(|)をかたどって作られ、制字原理には、李朝時代の支配思想であった朱子学的な世界観が反映されている。当時の中国音韻学の理論に学んだところも多かったようだが、文字の形は漢字やローマ字などとはまったく異なった独創的なものである。
 ハングルは表音文字かつ音節文字であるという点では日本語の仮名と同じである。しかし、ひとつじとつの音節がまた子音字と母音字はアルファベットのようにそれぞれ1字母が1音を表している。 例では「ka」が「k」の部分と「a」の部分とで合成されている図があり、要するにハングルは仮名のような音節文字的な性格と、アルファベットのような性格を両方兼ね備えているのである。

引用が長くなってしまいましたが、ハングルは一五世紀に開発され、紆余曲折はあったでしょうが、6000万人レベルの言語として存在しています。たとえば日本でハングルを日本語の発音形態にあわして国語にしたくてもできないと思われます。強権的な国家的な力がなければ文字使用はできません。これは漢字でも同様で、簡体字(かんたいじ)は、1950年代に中華人民共和国で制定された、従来の漢字を簡略化した字体で、強権的なものに思えます。古い時代の漢字も、大きな国が生まれて、意思伝達に文字が必要となり作られたような気がします。ただ歴史が残ってなく、最初に文字が生まれた時には、単語につく「てにをは」的な部分にまで手が回らず、無視されてそのままになって発展したのが中国語で、日本語とかではなんとかならないかと仮名ができた修正バージョンの気がしてきました。

2021年8月3日火曜日

「中国語は英語に似ている?」

 中国語の勉強で挫折しました。そんなでいろいろと本を借りてきて読んでいます。

『つながる中国語文法、一週間で基本をざっくりマスター』、林松濤、ディスカヴァー トゥエンティワン、2012年01月
「はじめに」のところで 「中国語は英語に似ている??」として

これから中国語を勉強しようとしている方は、まず英文法の常識を捨ててください、ということです。・・・「なんでも英文法と照らし合わせて理解しようとしてしまう」のは、中国語学習者が陥りがちなワナでもあるのです。・・・ 要するに「中国語の考え方は英語に似ている!」という思い込みを捨てて、「むしろ日本語に似ている!」と考えて見てはいかがでしょうか。

多分そうだろうと思います。
「中国語は英語に似ている?」に関して 次の本の受け売りです。
『中国語はこんなに日本語と似ている』、樋口真二、リフレ出版、2014年12月28日

この本の中で、中国語と英語の比較されています。
「どうして中国語が、より英語に似ていると言われるのか」に対し、例文は省略しますが、SVOとSVOOの二つの形がにているが、それだけを取り上げるのはどうだろうか。SVCの形では、どれも似ているとのことです。例文をグーグル翻訳で確認しましたが、

  • 彼はとても忙しい。
  • He is very busy.
  • 他很忙。

の例があります。日英中国語の同一内容の文です。「彼は」の「は」は「is」と同じとすればSVCです。中国語の、「他→彼、很→とても、忙→忙しい」なのでVは出てきません。「很」をつなぎとすれば、SVCみたいなものになります。この文型は日本語、英語、中国語が、語順が似ている文型ともいえるので、英語と中国語で、文型が二種類似ているからだけで似てるとまではいえないのではないかということです。さらに中国語ではSVOの形でも、Oが重視される場合、osvの形になり、語順が厳格なものではないようです。
もうひとつ、英語と中国語の類似点として否定形があり、否定語の「不」が動詞の前にくるとのことです。あと、前置詞(中国語では違う言葉だったか)も似ているようです。似てる部分はあるのだが、英語と中国語で似ている点は限定的。
とのことです。

根本的に、漢字を使う点で、中国語と日本語は似ていると思います。というか、日本語に中国語が入ってきて、その影響は大きいと考えるべきではないかという気がしてきました。「中国語は英語に似ている」というのは、「中国語と日本語は似ていない」ことを言いたいためなのかと思います。独立独歩の日本をイメージさせる国粋主義的な意識を感じます。二冊の本とかから「中国語は英語に似ている」は俗説のように思いました。だれがこんなことを言ったのか、江戸時代は中国の影響が強かったので、おそらく明治以降は確かですがが、詳しいことはわかりません。

2021年8月1日日曜日

言語とコミュニケーション

 ヒューマニエンスというNHKの番組で

「“目” 物も心も見抜くセンサー」という「目」の特集の回を見ました。 文書化された内容は以下のリンクにあります。きちんと視聴している人がおられてありがたいです。 

教養ドキュメントファンクラブ

色の識別の色覚のセンサーが人により異なり、人類は三種類持つのだが二種類の人も少なくない。 個人差があり、結局は人によって見え方が異なるとのことです。 コミュニケーションに目が重要な役割を持っていて、

日本人は目で感情を読み取る  さらにこの視線のコミュニケーションには文化の違いもあり、特に日本人は目から感情を読み取ることが多いのだという。
 それが端的に現れているのが顔文字だという。
日本の顔文字は
(^^)(><)(*_*)(;_:)(@_@) 
などすべて目で感情を表現しているのだが、これがアメリカでは通じないのだという。
 アメリカ人の顔文字は
 :)  :(  :>  :<  :P(いずれも90度回転させて見る)
など全て感情を口で表現するものになっている。
 そこで実験として口が笑っているけど目が笑っていないなどの矛盾した顔文字を作って日米の学生に見せたところ、口だけが笑っているものは日米どちらでも笑顔として反応したのに対し、目だけが笑っているものは日本だけが笑顔と認識したのだという。

感情を露わにしない日本人は、本音が出やすい目から感情を読み取る習慣が身についてきたのだろうという。これがマスクに対して日本人よりも欧米人が抵抗が強い理由ではないかともしている。

コロナに関して、外国ではマスクに反発してデモとか起こっています。番組を見ていてそうかもしれないと思いました。口に注目するか目に注目するか人種によって違いがあるようです。 コミュニケーションに占める言語の割合は大きいとは思いますが、すべてではありません。SVOとかSOVとか考えていましたが、それだけではなく、視線とかがコミュニケーションの一部になっていることをわかってませんでした。「彼は日本人で・・・」と聞いたときに、その後に「す。」か「ありません。」のどちだだろうと思います。ただ話者の表情・視線に注目すれば想像することはできます。言語だけでは伝わらなくて欠陥ですが、全体として補えれば問題とならないように思えます。

このような{口」か『目」かというアメリカ人と日本人の違いはどこからでてきたか妄想すると、目の色が違うことが考えられます。番組では目の部分の白目比率を取り上げていました。それからの発想ですが、青い目と黒い目では、目の動きは黒色の方がはっきりとします。目のコミュニケーションがとりやすいことから、日本人では「目」に注目するようになったことが考えられます。拡大解釈すると、アジアでは目の黒い人が多く、欧米では青い目とが多いです。アジアと欧米の言語の違いに黒い目と青い目の違い、つまり目のコミュニケーションのとりやすさの違いが影響した可能性があります。
NHKの番組を見ていると妄想が広がります。