2018年5月12日土曜日

観心寺の出来た理由

 観心寺は、河内長野市にある古刹。古義真言宗・高野派の寺、大宝年間、役小角が開創し雲心寺と称したが、弘仁年間、弘法大師空海が再興して寺号を観心寺と改めたといわれます。実質的には一番弟子の実恵大徳で、工事はその弟子真紹ということのようです。観心寺が定められたのは、その位置が、高野山と京都の東寺の道中にあることにあり、この寺が真言宗にとって重要な寺との証明であり、以後の寺の隆盛の原因で、後世、摂津・和泉が開かれてからも観心寺が高野山から下りて諸国に広がる、いわば扇の芯のところとなったようである。高野山と観心寺の間は約四十五キロ、一日の行程である。観心寺で一泊、次の宿泊は大和飛鳥の川原寺(弘福寺)、そして奈良東大寺、四日目に東寺に入った。
このようなことが、古寺巡礼 西国2観心寺、淡交社発行に書かれています。
 平安時代には、寺のネットワークで、移動が確立されていたということだと思います。直接に高野山から東寺に移動するのは大変ですが、泊まる地点を確保すればかなり容易になると思います。戦国時代に各地を僧侶が自由に移動できたという話がありましたが、寺の経路が、律令制度の崩壊の後も残っていたのかもしれません。

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