『飛鳥への招待』、飛鳥学冠位叙任試験問題作成委員会、中央公論新社 (2021/3/25) の「難波と飛鳥を結ぶ幹線ルート」を見ています。
その中に図があります。以下です。
図 推古時代の推定経路 |
推古天皇が実在したとは考えていませんが、『日本書紀』六〇八年(推古一六年)、中国・隋の使者、裴世清が来日したとしている推定路が示されています。もう一つが、『日本書紀』の六一三年(推古二十一年)の記される「大道」です。岸説と安村説の二説が紹介されています。
岸説
そのルートを難波宮から真南にのびる難波大道と、これに直交する竹内街道とみて、さらに二上山南側の竹内峠を越え、横大路を通って飛鳥へ入ると推定しました。このルートが定説になっています。
安村説
推古天皇の時代にはまだ難波宮はまだ難波宮はなく、難波大道が造られたのも七世紀中頃以降であることが、発掘調査でわかりました。さらに、難波宮の下層で見つかった建物跡は、正確に南北に沿って建てられたのではなく、上町台地の地形に合わせてやや斜行していることも判明しました。 これらのことから安村氏は、起点は難波津ではあり、上町台地の地形に合わせて斜行する道路を考え、四天王寺(大阪市天王寺区)辺りで南東に曲がり、旧大和川に沿う通称「渋川道」を通り、龍田道で大和に入り、斑鳩から太子道を飛鳥へと向かうルートを想定しています。この道沿いには、四天王寺や法隆寺(斑鳩町)など古代寺院が立ち並んでいました。したがって、こちらのルートが蓋然性が高いといえます。
推古天皇が実在しないのに、これらのルートの意味があるのかとなりますが、『日本書紀』が想定した古代ルートとして、難波宮から飛鳥に至る経路は孝徳天皇と天武天皇の関係を示していると妄想されるので意味あると思います。最初は法隆寺経由であったのが、岸説の直線的な経路に変化したかもと思いました。