2022年7月28日木曜日

難波と飛鳥を結ぶ幹線ルート

 『飛鳥への招待』、飛鳥学冠位叙任試験問題作成委員会、中央公論新社 (2021/3/25) の「難波と飛鳥を結ぶ幹線ルート」を見ています。

その中に図があります。以下です。

図 推古時代の推定経路


推古天皇が実在したとは考えていませんが、『日本書紀』六〇八年(推古一六年)、中国・隋の使者、裴世清が来日したとしている推定路が示されています。もう一つが、『日本書紀』の六一三年(推古二十一年)の記される「大道」です。岸説と安村説の二説が紹介されています。
岸説

そのルートを難波宮から真南にのびる難波大道と、これに直交する竹内街道とみて、さらに二上山南側の竹内峠を越え、横大路を通って飛鳥へ入ると推定しました。このルートが定説になっています。

安村説

推古天皇の時代にはまだ難波宮はまだ難波宮はなく、難波大道が造られたのも七世紀中頃以降であることが、発掘調査でわかりました。さらに、難波宮の下層で見つかった建物跡は、正確に南北に沿って建てられたのではなく、上町台地の地形に合わせてやや斜行していることも判明しました。 これらのことから安村氏は、起点は難波津ではあり、上町台地の地形に合わせて斜行する道路を考え、四天王寺(大阪市天王寺区)辺りで南東に曲がり、旧大和川に沿う通称「渋川道」を通り、龍田道で大和に入り、斑鳩から太子道を飛鳥へと向かうルートを想定しています。この道沿いには、四天王寺や法隆寺(斑鳩町)など古代寺院が立ち並んでいました。したがって、こちらのルートが蓋然性が高いといえます。

推古天皇が実在しないのに、これらのルートの意味があるのかとなりますが、『日本書紀』が想定した古代ルートとして、難波宮から飛鳥に至る経路は孝徳天皇と天武天皇の関係を示していると妄想されるので意味あると思います。最初は法隆寺経由であったのが、岸説の直線的な経路に変化したかもと思いました。

2022年7月27日水曜日

飛鳥宮の位置

 『飛鳥への招待』、飛鳥学冠位叙任試験問題作成委員会、中央公論新社 (2021/3/25) の「飛鳥と藤原京の道路計画」の図に飛鳥宮があります。 以下です。


飛鳥宮位置関係の図

図では飛鳥川があるのですが、コピーで消えてしまいました。

東西道路を東に向かうと、川原寺と橘寺の間を通過して、飛鳥宮の「エビノコ郭」西門に着きます。エビノコ郭は、天武¥持統天皇の宮だった飛鳥浄御原宮の大極殿との説もある宮殿です。東西道路は、九六年の調査の後も側溝が数カ所で確認され、谷を埋めて道路を造っていることから、下ツ道まで一直線につながっていたと考えられます。道路に面して寺院や宅地が配置され、高官の邸宅跡とされる五条野向イ遺跡とも進入路で結ばれていました。

新古の山田道では迂回することになり、新しい道が必要になり、

そこで造られたのが、今回の東西道路です。下ツ道から飛鳥宮まで、幅一二メートル一直線の道路、まさに飛鳥宮へのメインストリートとして、斉明天皇の時代に造られたと考えられています。

エビノコ郭の意味がわからなかったのですが、この図から、西よりやってくる客人のための儀礼の場であることが理解できます。もちろんこの場所が手狭で、後に藤原京に発展していくのも当然に思えます。

2022年7月26日火曜日

三内丸山遺跡の第26号掘立柱建物跡

 『文化財が語る日本の歴史』、會田 康範 (編集), 下山 忍 (編集), 島村 圭一 (編集)、雄山閣 (2022/5/31)

この本に縄文時代のことが書かれています。 大型の六本柱の遺跡、第26号掘立柱建物跡です。これに、建物説と巨木柱列説があり、復元されたものは折衷案として屋根なしの3層構造のものになったそうです。 大田原潤説では、巨大柱列を、二至二分(夏至冬至春分秋分のこと)に関係し、

4.2mの等間隔に配置された3本2列の長方形に配置されたその柱穴の長軸方向は、夏至の日の出、冬至の日の入りの方位を示す(図1)。対角線の一方は東西を指し、春分、秋分の日の出の、日の入りの方位となっている。夏至には2列の間に日が上り(図2)、冬至には2列の間に日が沈むことが確認される。・・・・

なお、二至二分に関する事例を大田原の事例を元に著名な三内丸山遺跡に求めたが、ほかにも同様に認められる縄文遺跡は多々存在する。・・・

そのように二至二分に関する事例は枚挙に暇がなく、偶然の一致を脱しているとの判断は強ち間違いではなさそうだ(小林編2005)。

図1,2(『文化財が語る日本の歴史』33頁)


掘立柱建物だろうとは思いますが、天文学的な知識が古い時代からあったとして、文明の発生と同じ時代のような気がしてきます。

2022年7月20日水曜日

最古の文字は弥生時代か?

『ここまで解けた 縄文・弥生という時代』山岸良二、河出書房新社 (2022/5/30)の中に 上記のタイトルで書かれています。 文明の存在するところに「文字」があるはずなので、参考になると思っています。

以下149ページの抜き書きです。

島根県田和山遺跡は弥生時代の多重環濠集落遺跡として著名なもので、山丘上からは数百個の「石つぶて」が出土し、この集落がなんらかの防御施設だったのではないかといわれています。しかも、山上では九本柱穴遺構が発見され、なんらかの「祭祀」「儀礼」的 建物だったと推測されていました。

この遺跡から弥生時代中期後半(紀元前後)の「板状石硯」「硯状石製品」が発見され、その表面に墨書で漢字のような文字が書かれていたことが二〇二〇(令和二)年、研究者 からの指摘で判明したのです。「子」か「午」という字と、「戊」か「戌」という字になる のではないかという説が出されています。

しかし、赤外線観測では明確な字形は検出されていないため、この文字説を疑問視する意見も残っています。従来、日本での最古文字例は福岡県や三重県で出土した紀元後二~三世紀代土器に書かれていた「墨書」のような字が指摘されていました。

日本では現在まで石川県八日市地方、大阪府古曽部、芝谷、奈良県唐古・鍵、兵庫県七日市、福岡県三雲・井原遺跡など全国各地で、この「板状石硯」「硯状石製品」が二〇〇点以上発見されています。近い将来、従来説より二〇〇年古い明瞭な「文字」が発見される可能性は残っています。

日経新聞で、「弥生時代」「すずり」で検索すると出てきました。
高知で弥生時代のすずりか 四国初、文字の使用示唆?
吉野ケ里でも弥生期すずり 有明海沿岸でも文字使用か
以下略。 新聞をよく見てませんでした。高知県とかもあるので、各地域で文字による交流が行われていた可能性を感じます。

「板石硯」に関して、以下の講習会があったようです。

風土記の丘教室「弥生時代における「文字使用」の可能性と「板石硯」について ~田和山遺跡など島根県出土資料を中心として~」 2022年7月16日(土)  14:00~16:00


従来、日本列島における「文字使用」の開始は、5世紀頃(古墳時代中期)とされるのが通説でした。しかし、『魏志倭人伝』では中国王朝や「諸韓国」との外交や貿易(「賜遺之物」)において「文書を伝送し」と明記されているように、文書でのやり取りは漢と倭の交渉の開始から行われた可能性があります。 一方で、「文字使用」の可能性の証拠として、これまで「砥石」とされた遺物の一部に、「板石硯」や「研石」の可能性が高いものがあります。今回は、主に漢代の板石硯や研石の使用痕との比較から、弥生時代日本での硯の使用の可能性について解説します。 また、田和山遺跡出土の板石硯の裏面にある「文字」から、当時「簡讀」が列島にも存在した可能性についてもお伝えします。

[参考]かんとく【簡牘 jiǎn dú】(世界大百科事典 第2版)
 中国で紙が普及する以前に用いられた書写材料。竹のふだを竹簡,木のふだを木牘といい,両者をあわせて簡牘とよぶ。 

2022年7月13日水曜日

四大文明の起源はメソポタミア文明

 中国文明ですが、メソポタミア文明から派生したのではと思っていましたが、
 『高地文明―「もう一つの四大文明」の発見 』山本紀夫、中央公論新社 (2021/6/25)の終章「大河文明」の見直しに迫るーーが面白いです。

何度も言及した伊東はメソポタミア文明、エジプト文明、インド文明、そして中国文明をいずれも基本文明と位置づけている。しかし、この点に関して、私は大きな疑問をいだいている。それというのも、遺伝学者の佐藤洋一郎によれば、エジプト文明もインダス文明も、そして黄河文明も「ある時期にはコムギという、それぞれの文明圏から遠く離れた地を起源地とするいわば外来植物を食料の礎《いしずえ》にもっていた」といわれるからだ。このため、「他の文明からの影響を受けたものを文明と呼ばないというなら、黄河文明もエジプト文明も、どちらも古代文明と呼ぶにふさわしくない」と述べているのだ。これは重要なポイントである。

じつは、わたしも大河文明に疑問をいだいたのは、この点に大きな疑問をいだいたからであった。それというのも、先に紹介したように伊東は、文明を「基本文明」と「周辺文明」にわけ、基本文明は「それみずからのユニークな文明のスタイルをもち、またその文明が自立的に発展し、かつ文明の寿命も長い(一〇〇〇年以上)ものをいう」と述べている。もし、そうであれば、エジプト文明はメソポタミア文明の影響を直接にうけたと思われる文明で、主穀類もコムギとオオムギであったとされる。しかし、コムギもオオムギもメソポタミア原産の作物であり、そのッ栽培化はメソポタミアでおこなわれたことが明らかである。また、インダス川流域に栄えたインダス文明もコムギに支えられた文明とされてきた。このコムギもメソポタミア原産である。さらに、黄河文明でも、初期の頃にはアワなどの雑穀が登場するものの、殷や周の頃になるとコムギにとってかわられるようになる。このコムギもメソポタミア原産のものなのである。

この点に関して、あらためて第1章の図1-2を眺めていただきたい。・・・

元図はGlyn Daniel: The First Civilizations: the Archaeology of their Originsのもののようです。 似ている図をリンクしておきます。メソポタミアとエジプトがわかれているので(図1-2)は一体になっている)ので違います。

参考図

四大文明は、コムギやオオムギなどの「メソポタミア農耕圏」で、穀物主体の考え方であって、イモ類・トウモロコシなどから始まる文明が「高地文明」になるというということで、考えが穀物中心過ぎるとのことのようです。 図で見る限り、文明は、メソポタミア→アフリカ→南北アメリカの流れに見えてきます。

ホモサピエンスがアフリカを出立して世界に広がったとの話では、メソポタミア→アジア→アラスカ方面→アメリカのルートとなっていて、違っています。文明の伝播では、天文・土木・農耕栽培などの技術が一体となって伝わらないと成立しないような気がします。高地文明も根本的にメソポタミア文明の影響があるのではないかと思います。神殿建築がこれらの文明で出てきて、建設の発想が伝達されたように思われます(思ってるだけで根拠はありません)。集団移住によって文明が伝わるとすれば、アフリカ出立とは違ってくるのかもしれません。

参考(ウィキペディアの現生人類の拡散より) 参考図2


以前に「歴史は繰り返す」とか言ってましたが、バッタはすでに農地があるところに広がって行くのであって、人間の場合は新天地を開発していくので話が違っています。そのまま同じにはできないと思いました。 

2022年7月6日水曜日

日本書紀と辛酉、神武東征

 辛酉とはウィキペディアで

辛酉(かのととり、しんきんのとり、しんゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌である。・・・辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。

『日本書紀』は辛酉を意識してると思えてきます。ウィキペディアで見ると、辛酉の年に721年があります。『日本書紀』は養老4年(720年)に完成したといわれます。つまり辛酉の前年です。これを外せば六十年後になってしまい、急いでいたことが想像されます。

ウィキペディアの辛酉の項のコピペですが、

明治時代の学者那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、「革命勘文」にある鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲為一元 四六二六交相乗 七元有三変 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」を挙げ1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年には大革命があるとし、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を立てた。

また、「革命勘文」の鄭玄の注では1320年と記述されることから60年×22回=1320年周期説もあり、その場合は辛酉の3年後甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年西暦664年(甲子)を基点として、西暦紀元前660年とされる。

単純には、『日本書紀』は唐への日本の立場を示したものと考えられるので、唐との争いの白村江の戦いが基準であるるとした1320年周期説の方が良さそうです。

神武天皇(ウィキペディアより)

辛酉年1月1日、橿原宮に初代天皇として即位した。

とあります。60年単位で考えると、イメージとしては『日本書紀』完成の翌年に神武天皇即位ということになります。ということは、神武東征の話は、大伴旅人の話をベースにできるということです。
鹿児島の古代から神武東征の話 
大伴旅人と神武東征の話 
大伴旅人と日本書紀神話 
神武東征の道臣命 

日本書紀の暦法ですが(ウィキペディア日本書紀より)、

即ち、『日本書紀』は神武天皇の時代から儀鳳暦によって暦日を記述しており、5世紀以降は元嘉暦に切り替わっている。

『日本書紀』編纂の時代は儀鳳暦です。神武東征の記述で変換の手間がかかりません。

日本書紀の暦