2022年7月6日水曜日

日本書紀と辛酉、神武東征

 辛酉とはウィキペディアで

辛酉(かのととり、しんきんのとり、しんゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌である。・・・辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。

『日本書紀』は辛酉を意識してると思えてきます。ウィキペディアで見ると、辛酉の年に721年があります。『日本書紀』は養老4年(720年)に完成したといわれます。つまり辛酉の前年です。これを外せば六十年後になってしまい、急いでいたことが想像されます。

ウィキペディアの辛酉の項のコピペですが、

明治時代の学者那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、「革命勘文」にある鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲為一元 四六二六交相乗 七元有三変 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」を挙げ1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年には大革命があるとし、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を立てた。

また、「革命勘文」の鄭玄の注では1320年と記述されることから60年×22回=1320年周期説もあり、その場合は辛酉の3年後甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年西暦664年(甲子)を基点として、西暦紀元前660年とされる。

単純には、『日本書紀』は唐への日本の立場を示したものと考えられるので、唐との争いの白村江の戦いが基準であるるとした1320年周期説の方が良さそうです。

神武天皇(ウィキペディアより)

辛酉年1月1日、橿原宮に初代天皇として即位した。

とあります。60年単位で考えると、イメージとしては『日本書紀』完成の翌年に神武天皇即位ということになります。ということは、神武東征の話は、大伴旅人の話をベースにできるということです。
鹿児島の古代から神武東征の話 
大伴旅人と神武東征の話 
大伴旅人と日本書紀神話 
神武東征の道臣命 

日本書紀の暦法ですが(ウィキペディア日本書紀より)、

即ち、『日本書紀』は神武天皇の時代から儀鳳暦によって暦日を記述しており、5世紀以降は元嘉暦に切り替わっている。

『日本書紀』編纂の時代は儀鳳暦です。神武東征の記述で変換の手間がかかりません。

日本書紀の暦 

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