キトラ古墳の近くに、於美阿志神社があります。ここには檜隈寺と呼ばれる古代寺院があったとされ、現在も阿知使主を祀ったとされる於美阿志神社や、重要文化財である平安時代に造られた十三重石塔があります。現存は十一重になっていて、十重目は角が丸くなり、一番上の十一重は屋根の形をとどめていません。相輪も欠損。高さは4.3メートル。凝灰岩製。木造塔基壇跡に建てられていて、石塔の解体修理の際、基礎下の旧塔心礎より、平安時代末の納入品が発見され、石塔がこの時代と見られています。倒れてきたら危ないのか大きめの柵に囲まれ、近づくことはできません。塔身の梵字には、顕教え四仏の種子を刻んでるようですが、実力無く解読できません(ここは日本石造物辞典を参考にしています)。 塔がなくなったあと、石塔で代替されたようです。
於美阿志神社の入り口付近の解説版に伽藍配置があります。
写りが悪いですが伽藍配置図 |
写真の図では左上の方角が北です。図の中央下の中門を入ってすぐに塔があり、左右に金堂と講堂が配置されています。門と塔が直接に並ぶのは川原寺と同じに見えます。 川原寺伽藍配置
檜隈寺の伽藍配置は、中軸線が西方に振れ、塔を挟んで南に金堂、北に講堂が位置し、中門は西側に位置する特異なものであったことがわかった。塔跡の南方に位置する土壇は、発掘調査前には中門跡と考えられていたが、実際には三間四面の仏堂の跡であり、塔の西側に位置する礎石建物が、その位置や規模からみて中門であるとみられる。伽藍主要部は回廊で囲まれ、回廊の西辺に中門、南辺に金堂、北辺に講堂が位置し、回廊内の東寄りに塔が位置していた。こうした特異な伽藍配置の意味については丘陵地に位置する地形上の制約によるものと考えられている。(ウィキペディア「檜隈寺」より)
『日本書紀』の朱鳥元年(686年)8月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る」と見えるのが文献上の初出である[1]。『書紀』のこの記事から、当時檜隈寺が存在したことがわかるが、この寺名が正史にみえるのはこの時のみである[2]。(ウィキペディア「檜隈寺」より)
檜隈との関連で、キトラ古墳の四神の館の展示で、「飛鳥への最初の渡来人」として、檜隈民使博徳の名前が出ていました。
檜隈民使博徳
『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇は自分の自分の心だけで決断し、「誤りて人を殺したまふこと衆(おお)し」と言われた。世の中という。天下の人たちは天皇をそしって、とても悪い天皇である、というふうに評された。そのような中で天皇が寵愛したのは、身狭村主青と、檜隈民使博徳らのみだったという[1]。
上記のように、博徳は身狭青(むさ の あお)とともに雄略天皇の側近として重用され、史部(ふひとべ)としてつかえた。雄略天皇8年(西暦に直すと464年)と12年に青とともに呉国(くれのくに、華南)に派遣され、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)らをつれて帰国したという[2]。(ウィキペディア「檜隈民使博徳」より)
雄略天皇には天武天皇の事績が多く取り入れられているので、檜隈の地は天武天皇と密接につながっていたと想像されます(どこまでが事実かわかりませんが)。
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