今回、「キトラ古墳壁画の十二支像」です。解説があります。
その中の以下の文章をもとにネット検索しました。
キ トラ古墳壁画は、天丼に天文図、四周の壁面 に四神と十二支を配す。それらが示す悠久の時空 世界の中心に死者を安置し、その魂を鎮めるため のものなのだろう。こうした中でのキ トラ古墳の 十二支像のありかたは、中国のものと共通する。 その一方、武器を取る姿は、新羅の十二支像と類 似する。ただし、新羅のものは、墳丘の周囲に設 置される外護列石に浮彫され、外向きに立つもの が多 く、より守護神的な要素が強い。 このように、キトラの十二支像は、唐・新羅両 国のものとも異同点を指摘でき、壁画古墳に関す る諸問題を考える上で重要な手がかりを与えてく れる。また、 6世紀後半に中国長江中流域で出現 し、その後、広範囲に流行した獣頭人身十二支像 の伝播と変容を考える上でも貴重な事例といえる。
十二支像ですが、すべてがキトラ古墳でそろって見られるので無く、朝鮮や中国のものから想像されています。
前記のPDfの図で、「金庚信墓外護列石浮彫」が紹介されています。この像はキトラ古墳とは違い墓の外側で役割がちがいますが、同じ宗教観によるものだと思います。
ここで、「金庚信」とはどのような人物なのかと思われます。以下のコピペです。
「生涯」は
647年、毗曇の反乱が起こる中で死んだ善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた。新羅は648年に高句麗と百済の麗済同盟に対抗するために唐に救援を求める。660年、唐と共同で百済へ進軍し(唐・新羅の同盟)、黄山伐の戦い(英語版)で百済の将軍階伯を激戦の末に破り、同年、百済を滅ぼした。その戦中、何度か蘇定方とトラブルを起こす。663年に白村江の戦いで倭と百済の残党勢力を排除した後、668年に高句麗に出兵し(唐の高句麗出兵)、高句麗も滅ぼした。(ウィキペディアより)
「家系」は
『三国史記』金庾信列伝には、金庾信は首露王の後裔であり、その祖先は中国黄帝の子・少昊金天氏であり、それ故、金姓を名乗っていたとある[2]。
とあり、さらに「首露王」は
首露王(しゅろおう、수로왕)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。妃は阿踰陀(あゆだ)国の王女と伝わる許黄玉[1]。阿踰陀国についてはインド、タイ、中国、日本などの説あるが、インドのアヨーディヤーが最有力である[2]。伝説ではクジボン(クジの岳)に降臨したという。(ウィキペディアより)
インドのアヨーディヤーが有力とのことです。そうすると、金庾信(きん ゆしん)の名前ですが、「きん」は平凡なので無視して、ゆしんの「シン」から、プロレスラーの「タイガー・ジェット・シン」を思い浮かびます。「シン」はインド系の名前で、金庾信はインドからやってきた人物のように思えてきます。
キトラ古墳に埋葬された人物ですが、金庾信が白村江の戦いに関与したことから、同じく倭国側について唐や新羅と戦ったことが妄想されます。 関ヶ原合戦のとき、真田家では昌幸・信繁(幸村)と信之(信幸)がそれぞれ西軍・東軍に分かれて戦ったということがあります。両者が白村江で戦ったこともあり得ます。
高松塚古墳では、男女群像であるのに対し、キトラ古墳では獣頭人身像でした。考え方が大きく変化しています。多分、埋葬された人物、一代限りの特殊な墓であったと思います。オリエントまではつながりません。
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