『キトラ・高松塚古墳の星宿図 (ものが語る歴史シリーズ)』泉 武 、同成社 (2018/1/25)の第5章に野口王墓古墳(天武・持統合葬墓)のことが書いてあります。 その前に、野口王墓についてはここ
以下、先の本の引用です、214頁。
1 特異な古墳立地 当古墳が立地するのは、今城谷の東西方向の丘陵に、西から梅山古墳(前方後円墳・六世紀後半)、金塚古墳(方墳・七世紀中)、鬼の俎・雪隠古墳(長方形墳・七世紀後半)と続く東端に位置する。これらの三基は、古墳背後の丘陵頂部(標高約一一一から一一七メートル)には築かれず、南斜面をコ字形に造成して築造されている。梅山古墳は後期古墳の範疇であるが、金塚古墳と鬼の俎・雪隠古墳は終末期古墳に通有の立地である。
ところが、このなかで最後の古墳といえる野口王墓古墳は、標高一〇九・八メートル(古墳裾部)の独立丘陵頂部に築かれている。これは、終末期古墳の立地のセオリーを無視した占地であり、明日香南西部の丘陵地のなかで高い位置である。
コ字形の話ですが、以前のブログ記事で「キトラ古墳と川原寺」が、関連していると思います。野口王墓については埋葬儀礼の反響音などを無視していることになります。この場所でなければという別の強い理由があるということです。
219頁に、分布上の特徴として
岸が(一九七二)、その中軸線(※藤原京の中軸線)を南に延長すると、その線上に天武・持統を合葬した檜隈大内陵が正しく位置することを指摘した。野口王墓古墳からは、藤原京を目視することはできないが、現在の測量技術でも、この古墳は藤原京中軸線の延長線上に正しく位置するという(小澤・入倉二〇〇九)。
野口王墓古墳ですが、ジッグラッド のように見えてきます。占星台です。ここで天文観測を行った象徴的なポイントに思えます。書紀によれば、天武天皇は天武4年に日本で始めての占星台を作ってる可能性があります。
野口王墓がたまたま藤原京の南にあったのではなく、一連の流れの中で、このポイントがあって藤原京が造営されたことが考えられます。天武4年には都の計画が動いていたかもしれません。藤原京が残っておれば、宮都の基準点として大事にされ、都の計画・造営に主体となった天武天皇と持統天皇の記念碑になっていたはずです。
藤原京造営の基準点がここで、天武天皇は完成を見ることがなかったのですが、守護のポイントの占星台に王墓が作られたと考えるとすっきりします。天文遁甲の天皇としてふさわしいお墓であると思います。持統天皇が合葬されたのも当然な気がします。
参考
岸俊男 一九七二 「文献史料と高松塚古墳」奈良県教育委員会・奈良県明日香村『壁画古墳高松塚』調査中間報告
小澤毅・入倉徳裕 二〇〇九 「藤原京中軸線と古墳の占地」(財)飛鳥保存財団『飛鳥』一一一
大和名所図会に野口王墓が描かれているとのことですが、どこにあるのかわかりませんでした。どうも「倭彦命の窟(いわや)」がそうらしいです。メモっときます。自由に見学できた様子が描かれています。 大和名所図会の野口王墓?
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