NHKの番組で、英雄たちの選択「追跡!古代ミステリー “顔”に隠された古代人のこころ 」という番組がありました(10月20日)。
その中で、設楽博己氏が画面で出演されていました。メモっておきます。 テレビの内容は面白かったので、関連してる本を図書館から借りてきました。 『魏志倭人伝の考古学』(岩波現代文庫)佐原真、岩波書店、2003年8月 この本を、番組を思い出しながら見ています。
縄文時代中頃以降の土偶(粘土で作って、焼き上げた人形)の顔の左右の目の下に、両方で八字形となる線を引いた入れ墨とみられるものがあります。黥面(げいめん)です。
私たちにとって大切なのは、魏志倭人伝の黥面に関連する可能性のある考古資料です。三世紀から四世紀(弥生時代Ⅴ期~古墳時代初期)にかけて、土器・土製品・石棺の蓋などに表した四十数例の顔に入墨らしき表現があり、設楽博己さんの研究があります。
額から頬にかけて、並行する弧線外開きに引き、鼻を対称軸として、左右対称に配します。色をつけた化粧かもしれません。しかし、入れ墨で正解でしょう。福岡県前原市の上鑵子遺跡(じょうかんすいせき)、つまり魏志倭人伝の「伊都国」の領域で、木の板に刻んだ顔の実例(紀元前一世紀)が加わることによって、九州・中国・四国・伊勢湾沿岸・関東まで基本的に同じ紋様の黥面の習俗があったことがわかりました。ただし、畿内には発見例はありません。
この本では、黥面の分布図として、『三国志がみた倭人たち』、設楽編、山川出版社、2001年より引用されています。ネットで似た図は見つかります。確かに畿内には分布がありません。
設楽さんは、その後さらに研究をすすめ、縄文時代の中頃から終わりにかけて連綿と連続する目のまわりを取り囲む入れ墨が変化した形で前三世紀(弥生Ⅰ期)に取り入れられ、これが三世紀の黥面につらなり、そして、五,六世紀の埴輪の入れ墨にまで受けつがれると見るにいたっています。
「もとを正せば入れ墨は入れ墨は採集狩猟民である縄文人の習俗であった。弥生時代に男子は皆その習俗をしていたと魏志倭人伝もいうように、一時的には農耕民にもひろがったものの、支配者層の農耕民はその習俗を捨て去り、やがて本来の入れ墨習俗の持ち主であった非農耕的な仕事にたずさわる人々の習俗に回帰した。そして、列島の南北にいまだ支配に服さずにいる人々の野蛮な習俗として支配層から差別的な扱いを受けるようになり、入れ墨は江戸時代に復活するまで日本の歴史から姿を消した。入れ墨に対する記紀の記述のなかに、支配者層の政治的な戦略としての日本版中華思想の萌芽を読み取ることができる」
これが本書のために設楽さんが寄せてくれた結論です。視野は日本の南北に及んでいるので、ここで北と南を見ておきましょう。ーー以下略ーー
倭国=吉備説に合致しています。倭国にやってきた渡来人で黥面の習俗を受け入れられなかった人たちは大和地方に住んで、コロニーのようなものを形成した。そして、天武天皇の時代は、大和の開発が進み、辺境の地である、鳥が飛び回る鳥葬の墓地の飛鳥が開発されていった。ということだろうと思います。記紀の時代にも黥面の習俗を持つ人が多くいた。白村江の戦いのあと、渡来系の人が中心となり、倭国を再建したということなのかもしれません。古墳時代から律令制の時代の断絶があったということが、黥面から理解できます。
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