元寇の話です。
ウィキペディアを見ていると、北条時宗は強硬策をとってますが、鎌倉時代の禅宗の僧などが南宋に行ってます。南宋の影響下に当時の日本があったことが、鎌倉幕府に強硬策をとらせ、間接的に元寇を招いた感じがあります。
さて、白村江の戦いですが、当時の巨大な唐に対抗しようとどうしてしたのかということで、元寇と同様に中国の影響があったかもしれないと思いました。しかし、単なる思いつきのようで、中国南部の勢力が倭国の外交に影響を与えたことは見つかりません。
白村江の戦いは663年です。隋が滅んだのが618年で、その後も混乱が続き、唐朝の第2代皇帝、太宗 李世民(たいそう り せいみん)によって、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。
30年以上経っているこの時代には、ある程度中国情勢がわかってないといけないはずなので、関係あるようには思えません。。
次の唐の第3代皇帝、高宗(こうそう)は、在位期間 貞観23年6月1日 - 弘道元年12月4日 (649年7月15日 - 683年12月27日) とあります。
高宗の後半は、武 則天(ぶ そくてん)、中国史上唯一の女帝が出てきます。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照(曌)。(ウィキペディアの抜き書き)
この時代は、日本側に中国状勢の見極めに混乱があっても仕方が無いとは思います。少し前の時代に戻って、
隋の中国の南北統一がなったのが、589年に陳の都の建康の陥落したこととすると、倭国(俀國)の遣隋使(けんずいし)が600年(推古8年)で、
この時は、案外に中国の状況の見極めが速いように思います。 倭国が中国南部と交易関係を持っていて、情報が入ってきていて、様子を見て判断したのだろうと想像されます。
それにしても、白村江の戦いの決断がわかりかねます。唐と倭国の間でなんらかの交渉があるはずですが、謎です。元寇の遠因に中国南部の影響があったのと同じく、白村江の戦いにも何かしら中国南部の影響があったのかと思いつきましたが、なさそうです。天武天皇の時代には南方方面の外交はあったようなので、どういうことだろうと思います。
何を書いてるかわからない内容なので、ボツにしようと思いましたがアップします。
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