2019年2月25日月曜日

吉備国の包囲網の修正

 マンガ見たいな包囲網の図を作りました。概略わかると思います。ヤマトとキビの勢力の対立があった場合に大陸に向かうルートで瀬戸内海は通りづらくなります。特にキビが倭国で、キビとアワが一体と考えれば、不可能になります。以前に遣唐使の南海航路を考えていましたが、四国の南側を通り周防とかに向かうことも可能になります。こちらが重要だったかもしれません。また日本海側から出雲を経由して、青の点線の陸路を通れば、一応の包囲ルートが完成します。周防の拠点を確保すれば、ツクシへのルートも問題無くなります。最初は北と南のルート、続いて赤のルートを考え、最終的に黒のルートになったのではと妄想します。周防国がキビに対する基地ということだけでなく、新羅・唐に対する海軍基地のようなものになっていったということです。



2019年2月24日日曜日

地域王国と日本語の形成

 七世紀に日本が地域王国であったということは、いろんなところに影響があります。日本語の問題にもつながってきます。以前、良くわからないままに、日本語がどうして出来たのかとか考えていましたが、ヤマトの勢力が各地域にあった王国を併合していき、その出先機関を大和周辺配置し、そこでの言語衝突により日本語が作られたと考えれば、突然変異的に日本語が生まれたことも納得できます。以前にも述べたと思いますが、枕詞などの繰り返しに近い用法もコミュニケーションを確実にするためのものであったということです。言向けということも、相手にヤマトの意図を伝えるということで大事になり、軍事貴族であった大伴氏も歌の世界に優れているのも必要にせまられたもので当然であろうということです。最近は浮かれた文章になってますが、七世紀の日本は日本の原点であったと思ってきています。
日本語はクレオール語だったのか?

2019年2月23日土曜日

前期難波宮と藤原京

 この二つの都の関係が今まではっきりとしてはいませんでした。しかし、後の南北朝のように二つに分かれていたと考えれば、問題ありません。藤原京の構成が唐の都の長安と合っていないのも、おそらく前期難波宮が唐風スタイルを目指したのに対抗した可能性があります。天武天皇の時代にヤマトの勢力がキビの勢力と対立していたことと整合性があります(これぐらいの時から)。平城京に遷都して、唐の都の長安をモデルにしたのも、キビの勢力を併合していったからだと思って矛盾はありません。東アジアの緊張が高まる中、外交政策の対立(唐との関係)が国内の対立をもたらしたと考えられます。皇国史観で単一の王朝のように考えれば、前期難波宮がなにやらわからないものになりますが、まだこの時点で地域王国が残っていたとすればすっきりとしてきます。これは前期難波宮のグループとキビの勢力が同一か同盟関係にあったことが前提となります。現時点ではこの考えで行きたいと思います。もちろん、考え方が極端ですので、たとえば、長岡京に遷都しようとしたときに、造長岡宮使の藤原種継が暗殺されています。このような政権内での対立であって分裂まで至ってないのかもしれません。

2019年2月22日金曜日

白鳳

 白鳳文化とかで使用される「白鳳」です。七世紀半ばより平城京遷都七一〇年までの時代に相当しますが、時代区分では使われないようです。

 日本書紀、孝徳天皇の治世で用いられた「白雉」の別称とのことです。記録上、続日本紀神亀元年十月一日条、「白鳳以来、朱雀以前」とあり、白鳳→白雉、朱雀→朱鳥と考えられるようです。しかし藤氏家伝には白鳳十六年があり、扶桑略記の天武二年三月条に白鳳は十四年続いたということです。(坂本太郎「白鳳朱雀年代考」では信憑性は注意が必要であるとのこと)
(この部分、平成二十七年開催の白鳳展図録より)

 日本書紀にはこのような年号はなく、白鳳があったとすれば、私年号のようなものになるようです。ウィキペディアによれば、
「私年号とは当時の王朝に対する反対勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い」
ということで、キビの勢力とヤマトの勢力の対立があれば、二つの年号があってもおかしくありません。南北朝の時代のイメージです。どうだかなというようなことを言っていますが、日本書紀では、
孝徳天皇の時代の「大化」があり、続いて「白雉」になります。
白雉四年に中大兄皇子と孝徳天皇の対立があり、中大兄皇子らは飛鳥に戻ります。
白雉五年に、孝徳天皇崩御、斉明天皇になります。
斉明天皇七年に、百済応援のため九州まで遠征し、朝倉宮で崩御、
    皇太子の中大兄皇子が政務をとります。
天智二年には唐や新羅と戦い、白村江での敗戦を迎えます。
 日本書紀では、大化・白雉が孝徳天皇で、そのあと、元号がなく、天皇名で年が表されています。天武天皇の時、朱鳥となりますが、文武天皇の時代の大宝まで無いようです。元号がこの期間に無いのはどういうことだろうということですが、分裂していた時代(この戦いでは戦うグループ(天智天皇派)と、非戦のグループ(孝徳天皇派)に日本の中が分裂していたように妄想します)を書紀は反映していると感じます。
 寺の伽藍配置がいろいろなタイプがあるのと同じで、図録掲載の白鳳仏を見ても、統一感は感じません。童子のようなお顔は共通するように思えますが、身につけているものなど多様で、これも複数のルートから複数の地域王国のようなところに到来したように思えます。この時代、まだ日本は統一されてはいなかったと考える方が、矛盾はなさそうな気がします。

2019年2月21日木曜日

蘇我倉山田石川麻呂

 山田寺に関してです。大化四年三月、蘇我臣日向の中大兄皇子に讒言し、蘇我倉山田石川麻呂は嫌疑をかけられ、天皇は使いを出したところ、天皇に直接申し述べたいと返事があり、天皇は軍兵で大臣宅を包囲させようとしたところ、山田寺に逃げ、自殺したという。皇太子(中大兄皇子)は間違っていたことで嘆き悲しまれたということである。この後に、日向臣が筑紫大宰帥《つくしのおおみこともちのかみ》に任用した。世の人は語らって、「これは隠流《しのびながし》か」といった。とのことです。(新編日本古典文学全集4、日本書紀➂、小学館)
 かなり物語風で潤色の多そうなところです。この後に、皇太子の妃蘇我造媛《そがのみやつこひめ》、が父の死に悲しみ死んでしまったとあります。ここで、その子に太田皇女、鵜野皇女《うののひめみこ》がいます。後の人が持統天皇になります。従ってこの部分は持統天皇ベースの内容になっていると思われます。この山田寺も持統天皇の時代になり、手を入れられた可能性はあります。ここでの関心事は、このことではなく、天智天皇七年に、蘇我倉山田石川麻呂の娘がああり、遠智娘《おちのいらつめ》という。ある本に、美濃津子娘《みのつこのいらつめ》という)。とあって、御野津子だったのが、御野《みや》→みの→美濃になったかと書いてあります。書紀の編纂者にとって倉山田石川麻呂が美濃地方と繋がりがあって勘違いしたように思われました。私だけそう感じているのかもしれませんが.。
 日向臣が筑紫大宰帥になるというのは、皇太子派が唐との戦いに備えて筑紫を押さえたと考えれば、この時点から孝徳天皇と皇太子の間に、日本の外交政策に対立があったことを示しているのかもしれません。
一応メモ書きです。

2019年2月20日水曜日

山田寺

 奈良県桜井市山田にある古代寺院のことです。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成したとのことです。山田寺は、伽藍配置で山田式伽藍配置とする見方とこれを四天王寺式に含めてしまう考え方があります。
(図は「わが国古代寺院の伽藍配置」より)


似ていると言えば似ていますが、講堂が回廊に含まれるかどうかで別物と考えて、それで違いがなければ含めてよいとは思いますが、まだ含めて考えるまでには到っていないとは思います。
 この寺の発願者ですが、名前は蘇我+倉+山田+石川+麻呂と考えられます。石川については石川県の関係か、大和川に合流するという石川とかが考えられます。それは置いといて、山田の方です。どうして山田寺になったかという疑問があります。蘇我倉山田石川麻呂の名前に関連していると思われます。山田という名字は岐阜県に多く、安田の名字の者にとっては親近感があります。蘇我倉山田石川麻呂の母の名に御野の文字があり、これが宮の意味であるとの事でしたが、私は母方が美濃国の人ではないかと思いました。ウィキペディアには、岐阜県各務原市蘇原寺島町に山田寺(さんでんじ)があるそうです。もちろん結びつくものはないとのことですが、関連あると思われます。
『上宮聖徳法王帝説』という聖徳太子のことが書かれたものがあり、これができたのは、8世紀末から9世紀の始めと考えられていますが、この本文ではなくて、裏書に、山田寺のことが書かれているようです。ヤマトの勢力に併合された地域王国の出先機関があり、そこに仏教が個々に導入されてきている状況があって、複数のルートから導入されたと考えると伽藍配置の多様性があってもおかしくないと思われます。また山田寺の場所ですが、美濃国からやってきて、そこで身繕いを整えてから会見を望む場所として飛鳥の北の方にあり、整合性はあります。
 法隆寺もやはり、飛鳥の北の方にあり。岡本というところで、岡本の名字は岡山県に多いところです(「名字:岡本、岡田」での分布図を再度見ると、そこまで言えるかということはありますが、言ってます)。吉備国と関連がありそうな所です。もちろん位置的にも飛鳥に対して吉備に近い方にあります。これだけでは断定しにくくてもっと他の例が必要ですが、傾向的にはおかしくはありません。くどくど話してますが、ヤマトの勢力が、各地の地域王国を併合していくなかにあって、それぞれの地域王国が出先機関をヤマトの(飛鳥の近く)のどこかに構えていく中で、ランドマーク的な寺院をそれぞれの地域が造っていったと考えています。従って統一的な伽藍配置にはならず、それぞれの地域王国の朝鮮などの関係によって異なった伽藍配置が導入されたものと考えます。もちろん結びつきの強いところは同じようなタイプになることが考えられます。

2019年2月16日土曜日

高市皇子は天皇だったか

 長屋王の変から、日本書紀のことを考えていて、天皇の名前のことを思い出しました。神話で天照大神(実際は持統天皇)を強調するのは、天武天皇の後継としての立場が弱かったことを示しているように思えます。天武天皇亡き後も書き換えられているかもしれません。持統天皇とか当然のように考えていましたが、ひょっとして違うかもしれません。元のつく天皇が本当だとすることで、それ以前の怪しい天皇に持統天皇も含まれるということです。持統天皇が実際に天皇ではないとすれば、高市皇子が天皇になります。長屋王もトップの後継者と考えられていたかもしれません。日本書紀で大幅な書き換えが行われて否定されたということです。厳しい統制が行われたことでしょう。その中で、反発する人(淡海三船?)が、天皇の名前で残したのではと想像します。
天皇の系図については、東大寺のところを見てください。
参考記事:東大寺

追記(H310218):実質的に太政大臣では、天皇のような気もしてきました。
日本書紀からの年表
六七九年(天武八)五月、吉野の盟約
   吉野宮に行幸。天皇、皇后と草壁。大津・高市らの皇子に詔して、誓わせる。
六八一年(天武一〇)二月、天皇・皇后、律令を定め、法式を改めることを詔する。
   草壁皇子を皇太子に立てる。
六八五年(天武一四)一月爵位の号を改める。
   草壁皇子尊に浄広壱位、大津皇子に浄大弐位、高市皇子に浄広弐位、・・・
六八六年(朱鳥一)九月天皇崩御、皇后称制。大津皇子謀反。
六八八年(持統二)十一月天武天皇を大内陵に葬る。
六八九年(持統三)四月、皇太子草壁皇子薨ずる。
六九〇年(持統四)一月、皇后即位する。高市皇子を太政大臣とす。
六九三年(持統七)一月、浄広壱を高市皇子に賜う。
六九五年(持統九)一月、浄広弐を舎人皇子授ける。
六九六年(持統一〇)七月、高市皇子薨ずる。
六九七年(持統一一)八月、天皇、皇太子軽皇子(文武天皇)に譲位する。
七〇二年(大宝二)持統上皇没
(七〇七年(慶雲四)文武天皇没)