2023年3月31日金曜日

ガラスの知識

 以下の本からのメモ書きです。 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19)

8頁、「ガラスの原材料と生産」です。

ガラスはシリカ(SiO₂)(二酸化ケイ素)を主成分とし、溶融剤を加えて作られる。溶融剤は、シリカ原料を溶けやすくし、ガラスの粘度を下げるなど作業性を良くする働きがある。シリカに溶融剤とさらに着色剤などをいれて高温で加熱すると、これらの材料からガラスへと変化する。一度ガラスへと変化すると、冷えても、また再溶融しても、ガラスはガラスのままである。

シリカの代表的なものは石英《せきえい》である。石英は岩石や砂、土などの中に広く分布し、ガラス原料として適したものとしては珪石《けいせき》や珪砂《けいさ》がある。溶融剤には、鉛やソーダなど様々な物質がそれに使われる。シリカと溶融剤からガラスを生産するには、おおよそ一二〇〇度以上の温度を必要とする。これはちょうど鉄の製造において必要な温度である。つまり鉄生産技術のない日本では、弥生時代にガラスの原料からの生産技術は無かったことがわかる。

一方、一度作られたガラスを加熱して鋳型などで形を作り直すのは八〇〇度程度から可能である。これは実は青銅器の製造温度と重なるのである。

鉄の製造技術はないが、温度の低い青銅器の製造技術がある、というのは古代において中心的な文明の周辺にある諸文化においてみられる状況である。そのような周辺の社会において、高度な文明から入手したガラスを利用して、独自のスタイルのガラス製品が製作(再加工)されていくのである。まさに我々の弥生時代の文化がそれに当てはまる。

13頁に溶融剤が地域によってさまざまであることが書いてます。

例えば古代ローマやエジプトなど地中海沿岸ではナトロン(天然ソーダ)を溶融剤として使用し、ナトロンガラスが作られた。

一方で中国の戦国時代から漢代には、バリウムを特徴的に含んだ鉛バリウムガラスが作られた。このためガラスの化学分析をすると、その基礎ガラスの化学組成から、このガラス素材がどこで作られたかがわかる、というわけだ。

問題は、「ガラスの生産地=そのガラス製品の製作地」とはならないことがあるとのことです。一次製品とか二次製品とかは考古学の手法によってクリアになるとのことです。

今まで気にしてなかったですが、陶磁器も焼成温度とかで関係ありそうです。釉薬とかにガラス質のものが含まれると一二〇〇度とかの温度が作れないと出来ないことになります。

2023年3月24日金曜日

ガラスの来た道

 『ローマ文化王国ー新羅』の可能性がありますが、

新羅のトンボ玉のことがあり、 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19) を借りてきました。

後半に新羅のガラス器のことがあります。214頁から

中国大陸全体が動乱の時代であったこの魏晋南北朝と同じ頃、朝鮮半島では三国が鼎立する初期国家時代、三国時代(四世紀頃~六六八年)を迎えていた。この三国時代の古墳から多数の西方製ガラス器が副葬品として出土している(表8)。大半が新羅《しんら》の都である慶尚北道慶州とその周辺の古墳から出土しており、高句麗《こうくり》・百済《くだら》の墓からいまだ出土していない。出土した慶州の古墳は王陵と王族の墓がほとんどで、五世紀後半頃から六世紀前半までに築かれた積石木槨墓《つみいしもっかくぼ》であった。王陵の皇南大塚南墳北墳から出土した一二点をはじめ、約一〇基の古墳から二〇点強のガラス器が出土した(図59)。

図や表は省略してます。少し飛ばします。

新羅の古墳から出土した文様を持つガラス器は、皇南大塚北墳出土の円形切子杯(ササンガラス器)以外は、その器形と類例から後期ローマンガラスであると考えられている。多数の類型品がユーラシア各地から出土しており、特に黒海沿岸、南ロシア、カフカスといった地域に出土が多い(由水一九九二b)。

これまでは東地中海地中海、またはライン川流域などで作られたローマンガラスがこの地まで運ばれたと考えられていた。が近年行われたこれらガラス器の化学分析から、皇南大塚南墳出土ガラス器が中央アジアにおける製作の可能性が浮かび上がってきたのである(谷一・工藤二〇一一)。とはいえ器形は明らかに後期ローマンガラスの形式を継いでいる。このため、ローマンガラスの工房の工人が中央アジアに移住して製作を行ったのか、といった疑問も生じる。中央アジアのガラス製作の詳細は不明であり、謎が深くなるばかりである。

続いて、ガラス器の搬入ルートです。

この新羅の五~六世紀半ばの古墳からは、ガラス器以外にも西方系の遺物が多数出土している。ーーー例については省略ーーー

新羅自体はその馬具や金製装身具などからも北方遊牧騎馬集団との密接なつながりがあると考えられており、これらガラス器や搬入金製品も北方遊牧騎馬集団とのつながりの中でもたらされたと考えられるものである。ーーー省略ーーー

当時ガラス器だけでなく多数の西方の文物が、草原ルートで新羅にもたらされたと考えられている。またオアシスルートで中央アジアに入ってのち、天山山脈近辺で北上し草原ルートに合流するルートも考えられよう。中央アジアで製作されたガラス器ならば、製作地の場所次第でどちらのルートを通ったか明らかだろう。

シルクロードのことは、最初の3頁にあります。 地図があるので見れば良いのですが、 オアシスルートは、中央アジアのオアシス都市を結ぶルートです。海上ルートは船を使うルートです。草原ルートは一応文章を写します。

草原(ステップ)ルートは黒海沿岸を起点とし、南ロシアの草原地帯からカザフ高原、アルタイ山麓、モンゴル高原を経て中国の北方長城地帯に至り、平城《へいじょう》(現在の大同)に達するルートである。ユーラシアの大草原(ステップ)地帯を通るため、この名が付いている。

これらのルートは組み合わせて使われる場合もあるとのことです。

シルクロードの先はどうなってるか、新羅の朝鮮半島にどのように入ってきたか、草原ルートから中国には入らず高句麗をへてもたらされた可能性も十分にあるとのことです。 ただ、金官伽耶の遺物に鮮卑族とのつながりがあり、北朝の鮮卑族を経由した可能性もあるとのことです。

ようやくトンボ玉の話になります。トンボ玉は装飾珠と表記されています。三国時代の装飾珠について、219頁です。

この他、西方製ガラス製品として装飾珠が出土している。その数量は多くない。最も興味深い装飾珠は、慶州の味趨《みすう》王陵地区C地区4号墳(五~六世紀)から出土したものだろう。王とみられる被葬者がつけていた首飾りの珠類の一点として出土した。直径一・八㌢のガラス珠は、紺色ガラス地に白い鳥・人面・花の枝などが文様として象嵌されている。この珠は黒海沿岸や、地中海周辺における製作などが想定されるものである。ガラス器と同様、ローマ文化圏で製作された珠が新羅に伝来したものだろう。アジアではこのような文様を持つモザイク珠は日本の香川県多度津町盛土山古墳(五世紀)や、ジャワ島(六世紀)で出土している。この他、縞文の珠が、百済の忠清南道公州市武寧王陵や南西部の墳墓、慶州の古墳などから一〇点ほど出土している(古代歴史文化協議会編二〇一八)。縞文の中でも雁木文の珠の類例は広くアジア各地でも出土しており、日本の福岡県こうしんのう塚古墳(六世紀)や、ベトナムのオケオ遺跡などから出土している。特に雁木文の珠は西方製だけでなく、南海製の可能性も考えられる。

これらの装飾珠は東南アジアから出土していることから、海上ルートでも伝来も考えられている。しかし人面装飾のあるモザイク珠は、ガラス器などとともに草原ルートを経て新羅へもたらされた可能性が高いのではないだろうか。
ーーー新羅では六世紀半ば以降に出土しなくなった話になりますが、省略ーーー

これからの調査研究になりますが、トンボ玉も海上ルートの可能性もありそうです。

しかし、この本では草原ルートのことが詳しく述べられています。熟読していないので、ミスってるかもしれませんが、80頁には

紀元前三世紀を過ぎると強大な国家が登場する。西方社会の巨大化していく国家がローマであり、東方のそれが漢えある。さらにその頃、中央アジアにおいても遊牧騎馬民族を出自とする巨大国家パルティアが登場、北方草原地帯には遊牧騎馬民族国家匈奴が登場し、ユーラシア全体のつながりとシルクロードの発達の上で重要な役を演じる。

パルティアのところは省略します。

さらにユーラシアの北方草原地帯には強力な騎馬遊牧集団である匈奴がその勢力を広げていた。匈奴はモンゴル高原を本拠地とする遊牧騎馬集団で、中央アジアの草原ステップ地帯を強力な政治力ではじめて統括した。前二〇九年には冒頓単于《ぼくとつぜんう》によって統一され、オアシス諸国家を抑えた匈奴は強大な勢力となった。ユーラシアのハイウェイである草原ルートとオアシスルートの双方を抑え、東西交渉にまさに大きな役割を担ったのである。

匈奴を中華思想の影響で蛮族という偏見を持っていました。ウラル・アルタイ語族とか軽視してましたが、間違ってたと思います。

2023年3月22日水曜日

桃太郎伝説と温羅(うら)伝説

 桃太郎伝説と温羅伝説がコンパクトにまとまっています。 岡山シティミュージアムのところにありました。


桃太郎=吉備津彦、鬼=温羅の戦いと混然一体となった話です。 今までの記事で、桃太郎伝説の影響を受けてしまってるかもしれません。エンタメ的な話になっていて、観光とかでは良いのですが、大和朝廷とか渡来人の扱いなど迎合しているところとか、郷土愛的なものとか混ざっています。ギャップは感じます。思い込みを排していかないといけないとは思います。

以下の本に書いてあったのをメモ書きします。

『民俗学読本―フィールドへのいざない―』髙岡 弘幸 (著, 編集), 島村 恭則 (著, 編集), 川村 清志 (著, 編集), 松村 薫子 (著, 編集)、晃洋書房; A5版 (2019/11/10)

「桃太郎」と伝説の「語り直し」
として、孫 嘉寧 氏が書かれています。

桃太郎伝説は、岡山県だけでなく、香川県にもあり、熊野神社に伝わる鬼退治によって地名が鬼無《きなし》になったという地名説話からとのこと。桃太郎の鬼退治に結びつき、神社も熊野権現桃太郎神社となったなどのことからの展開です。

「初めてこの地域の桃太郎伝説を唱えた人」という2人のキーパーソンが書いてあります。

岡山の温羅伝説桃太郎=吉備津彦説は、岡山の彫塑・鋳金家の難波金之助によって初めて提唱されたのである。難波氏は1930年に『桃太郎の史實』を著し、歴史文献や地元の口伝などの考察から、全国的に有名な桃太郎の鬼退治という説話の原型が岡山の温羅伝説であると提起した。

香川の鬼無ー女木島桃太郎伝説は、香川の小学校校長の橋本仙太郎によって最初に体系立てて提唱されたのである。橋本氏は1930年に新聞『四国民報』(のちの『四国新聞』)に「童話『桃太郎』の発祥地は讃岐の鬼無」という記事を連載し、地名と桃太郎の内容を関連付けて鬼無とその周辺を桃太郎の舞台と説いた。

ともに1930年の意味があるのかということについてですが、
岡山では、この年は、昭和天皇の行幸と陸軍特別大演習が控えており、郷土意識が高まった。岡山の伝説と桃太郎の説話を結びつけるのは、当時の皇国史観に合っていた。1930年代から日本は国際観光局を設立し、瀬戸内海での観光誘致合戦のようなものがあったのではとのことが書いてました。省略します。

2023年3月13日月曜日

うるち米の語源

 サンスクリット語をちょっと知りたいなと思い、借りてきました。 『サンスクリット語・その形と心』、上村勝彦、風間喜代三、三省堂 (2010/2/10)
勉強するのは大変そうですが、「雑学のよろこび」というコラムがおもしろいです。そこしか読んでないです。

57頁からの、「2.米の話」です。

米は日本人の主食だが、インドの人たちもヴェーダの昔から米を知っている。その大切さを示唆するものとして、まず「米、稲」をあらわす語をみてみよう。

われわれは、餅に対する米をあらわすのに「うるしね」(粳稲、シネはイネの古形)、あるいは「うるち」(粳)という言葉をもっている。この「うる」には、「うるおう」とか「うるわしい」などとの関連が予想されるけれども、それは推定の域をでない。

米はうるち米ともち米に分かれるようです。

それよりもおもしろいのは、サンスクリットのvrīhi-「米」からの借用説である。もちろんその借用の経緯はわからないが、東南アジアや台湾の土着の言語にも明らかに同じ借用を思わせる形が指摘されているから、それらの1つが米の文化とともに日本列島にもたらされたと考えることができよう。

文中の「vrīhi-」は「ブリーヒ」で、スペルとか自信ないです。vrīhi-「米」からの借用説は、本当かと思われる人もいるでしょう。さらに続きます。

このサンスクリットの語形は、インドの東ばかりか西の方にも広がっている。というのは、われわれになじみ深い多くのヨーロッパの「米、稲」をあらわす語、たとえば英語rice、ドイツ語Reis、フランス語riz、イタリア語riso、ロシア語risなどの源をたずねていくと、どれもがこのvrīhi-にゆきつく可能性があるからである。これらの近代の諸言語は、いずれもまずラテン語のoryza、さらにはその源となった古典ギリシャ語の同じ形にさかのぼるが、この2つの古典語そのものが、じつはインドからか、あるいは直接でないとすれば、早くから古典世界と接触のあった イラン系の言語の話し手を介して借用されたものにちがいない。

このインドとイランの両語派の人々は先史時代に非常に親密な関係にあり、1つの集団をなしていたことは確かだが、それでもこの「米、稲」の語形に関するかぎり、イラン系の言語の形には、中期ペルシア語のbrinj、近代ペルシア語のbirinjにみられるように、-n-が入ってきている点でvrīhi-とは微妙なちがいを示している。ということは、この2つの語派の人たちは、第三者から別々に「米」をその文化とともに借用したのだろう。その意味では、この語彙はいわゆる「文化語」の類で、それまでインド・ヨーロッパ語族としては未知だった食べ物をこの両派の話し手がはじめてこの語彙とともに受け入れ、歴史時代になってそれを西欧世界に教え広めたわけだが、同時にわれわれ日本人も、インドにつながるこの「米」の文化を名実ともに担っているということができる。

「うるおう」とか「うるわしい」とか説得力が全然ないなと思えます。日本の稲作伝来も、現物の米と言葉が同時に伝達されたと考えるべきかもしれません。

また、ご飯のことを「しゃり」といいます。これはśali-という語形があり、通説では「(仏)舎利」(サンスクリットśarīra-「身体」、ふつうは複数形を使用する)の転用とのことのようで、このコラムは続きますが、省略しました。

2023年3月9日木曜日

日本語の助詞「は」とサンスクリット語の名詞の主格?

 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10) にありました。

安然は唐に渡った円仁から教えをうけ、五〇音図の原型の「アイウエオ」の並び方を発明したという流れのあと、144頁からです。

サンスクリット語のみならず、古典ギリシャ語やラテン語を始めて、最初に現れる難関が、名詞の格変化である。
日本語の場合には、主格には「は」、目的格には「を」など助詞がつくことで「格」を判別させるが、サンスクリット語の場合は、名詞が八格に変化する。 主格、呼格(呼びかけ)、対格(~を)、具格(~によって)、為格(~の為に)、奪格(~から)、属格(~の)、処格(~において)八つである。

たとえば、「deva(デーヴァ)」(「神」の意)は、
主格 デーヴァハ
呼格 デーヴァ
対格 デーヴァム
具格 デーヴァーナ
与格 デーヴァーヤ
奪格 デーヴァート
属格 デーヴァースヤ
処格 デーヴェー
のように変化する。

当時、これらの格変化は、「八転声」と呼ばれていた。

ただ、安然は、これを「格」の変化と考えず、動詞の活用のように考えたようである。

なぜかと言えば、当時主格を示す助詞「は」はまだ十分に発達していなかったからである。

サンスクリット語の八格の説明で、為格と与格のどちらなんだということがありますが、与格は違うようです(未確認)。

名詞の変化ということで、面倒だと思い、今まで文法的なことは避けていたので、気づかなかったと思います。主格に「ハ」がついています。実際にはサンスクリット語の名詞の変化は複雑で「ハ」だけではありませんが、日本語の「は」の起源になっても良いのではと思いました。安然の時代には助詞の「は」が未発達ということは、時代的にはあってきます。

八格すべてが、日本語の助詞に影響したとは思えませんが、名詞の格変化が、「名詞+助詞」に変化した可能性は十分あります。


追記:R050317
名詞の格変化ですが、日本語では統一されていないようです。

特に格については、日本語の用語が統一されていないという問題点があり、 たとえば従格は奪格、為格は与格など、さまざまな別名があります。 そこがサンスクリットの先生方の嫌うところとなっているわけです。(https://www.manduuka.net/sanskrit/ogi/index.cgi?doc=e2101)

 1格~7格というのもありました。(『ニューエクスプレスプラス サンスクリット語』、石井裕、白水社 (2021/4/15))

2023年3月7日火曜日

稗田阿礼のイメージ

具体的なイメージが稗田阿礼という名前だけではでてきません。 當麻寺で、ひょっとしてそうかなというイメージを見つけました。広目天立像が稗田阿礼のイメージです。

以前には、以下の投稿記事があります。阿礼は「アリ」の漢字名ではとの 古事記の稗田阿礼はインド人か?  があります。

當麻寺の創建ですが、ウィキペディアで

以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。

とあります。聖徳太子は伝説的な話でおいといて、當麻寺講堂解体修理の際に塼仏《せんぶつ》の断片が発見されており(同じ物か不明ですが中ノ坊霊宝館に展示されていました)、これが白鳳時代の痕跡に思われます。天武天皇の時代あたりなのは確かそうです。竹内街道から當麻寺にいたる参道の痕跡は現在ではわかりませんが、当時には河内と大和を結ぶ結節点で、重要視された国を代表する寺院として海外の要人の接待する休憩場所的なところとして、竹内街道とつながっていたはずです。

さて、當麻寺の四天王立像ですが、ウィキペディアで

重要文化財。金堂須弥壇の四隅を護る。持国天立像、増長天立像、広目天立像の3体は日本最古の乾漆像である。日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に次いで2番目に古い。また、日本における乾漆造の作例としても最古に属する貴重な作品である。後世の四天王像が一般に激しい動きを表し、威嚇的ポーズを取るのに対し、當麻寺の四天王像は静かな表情で直立しており、その顔貌には異国風が感じられる。各像とも補修や後補部分が多く、多聞天像は全体が鎌倉時代後期頃の木造に代わっている。他の像も後補部分が多く、増長天像は下半身のすべてと両襟、両袖などが木造の後補であり、広目天像は頭部、両襟、両手の前腕部などに当初のものを残すほか、体部の大部分が木造の後補である。比較的当初の乾漆層を残すとされる持国天像も下半身や両袖などには大幅に修理の手が入っている。

何を言ってるのかわかりにくいと思います。 「當麻寺四天王の魅力を探る」に写真があります。 

多聞天立像は別物という印象です。全体に後補が多いようですが、顔の容貌は本来のものに思われます。金堂では、弥勒仏の周りを守る側近のイメージで配置されています。家康の側近、徳川四天王のイメージですが、当時では天武天皇の周りを固めた人たちをモデルにした気がします。 とくに、広目天立像は筆と巻物を持っています。稗田阿礼のイメージにピッタシです。

『古事記』では稗田阿礼が表音文字のサンスクリット語で書いていたのを、読み出し、これを太安万侶が表意文字の漢字を使って書き直したのではとの想像です。

以下にも関連記事がありました。

天武天皇、ペルシャ人? 

乾豆波斯達阿? 

2023年3月1日水曜日

論語と千字文の伝来

 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10)の感想です。

65頁に「百済から伝わった『論語』」が書かれています。

仮名が漢字の影響を受けて創られたと同様、我が国の文化は中国の文化を大きく受けて形成された。

なかでも中国の南北朝時代に南方にあった梁という国は、ようやく国としての統一ができて国家の基盤を創り上げようとしていた日本に大きな影響を与えたのではないかと考えられる。

伝説的な話として、『古事記』と『日本書紀』には、応神天皇の十五(二八五)年、百済の王仁が我が国に『論語』と『千字文』を伝えたと記されている。

『千字文』が梁の周興嗣(470年~521年)によって作られたところからしても、伝来の年号が日本の歴史を古く遡らせてあることは明らかであろう。

『日本書紀』などの記述はおかしいわけで、年代だけでなく、百済というのもおかしいと思われます。つまり、梁から直接に伝来したのではなく、朝鮮半島経由とした理由があるはずです。おそらく唐に慮ることがあるのか、朝鮮半島との結びつきを強調したいのかだと想像します。

またここに記される『論語』も同じく梁の学者、皇侃が著した『論語義疏』を指すものと考えられる。

また、67頁の「『玉篇』という字書」にも梁のことが書かれています。読みは(ぎょくへん、ごくへん)とのことです。

梁の時代には、顧野王《こやおう》(五一九~五八一)によって画期的な『玉篇』という字書が作られた。「玉」は「霊」を意味する。つまり、漢字を「霊」として、「存在」と一対一対応するものという考えで、漢字を並べ字書としたものである。

そして、『玉篇』という名称は、これ以来、「字書」の代名詞として、我が国では明治時代まで、朝鮮半島では今日まで使われている。 ーーー 途中省略 ーーー はたして、『玉篇』は、我が国で八三三年に編纂された『令義解』や八六八年頃に編纂された養老令の注釈書である『令集解』など「令」の解釈に使われている他、永観二(九八四)年に朝廷に献上された平安時代の医学書である『医心方』、その他の仏教の経典などに夥しい引用がされている。

つまり、奈良時代から平安時代の人々は、我々が『広辞苑』などの辞書を使うと同じように『玉篇』を使っていたのである。

少し、飛んで、69頁には、「文は『文選』」とあります。

さて、梁の時代に作られた『玉篇』『千字文』の両書が我が国に漢字を教える重要な書物であるとしたら、『論語』は、孔子という聖人が人のあり方を教えるものとして我が国に伝わった。 そして『千字文』や『玉篇』が言葉を教え、『論語』が人倫の理想を伝えるとするなら、それを利用して思いを伝える文学の書物も、梁には作られた。 梁の武帝の長子であった昭明太子、名を蕭統《しょうとう》(五〇一~五三一)が編纂した『文選《もんぜん》』である。

ーーー 途中省略 ーーー

そして、我が国では平城宮跡、秋田市秋田城跡などから『文選』を写した八世紀頃の木簡が発見されている。また、『日本書紀』や『万葉集』には『文選』を利用して書かれた部分が相当あり、平安時代には『枕草子』に「文は『文選』」と訳され、文学の教養を身につけるための書物として重要な役割を果たしていたことが知られるのである。

梁の影響の大きいことが述べられています。いろんな文物を朝鮮半島経由と考えて良いのかと感じます。

また、このあとの70頁には、「皇帝菩薩」と呼ばれた武帝として

以上のように後世に大きな影響を与えた書物を作った梁は、中国の南方(現在の上海から南京)の肥沃な大地を背景に発達した国であった。 『三国志』で知られる中国三国時代に、孫権が長江流域に建てた国は「呉(二二二~二八〇)」と称され、都は現在の南京に当たる建業であったが、梁は、ほぼこの「呉」の国をそのまま版図にした国である。 中国西北の長安を中心とした「漢」に対して、この地方は「呉」と呼ばれ、方言も、それぞれ「漢音」「呉音」と異なっていた。ーーー 以下省略 ーーー

仏教の発展に寄与したのが武帝とのことです。

梁の武帝は、仏教を信仰して中央集権化による国家体制を確立することに努めた聖徳太子にも大きな影響を与えているのである。

と書いてます。理想の人物として『日本書紀』にモデルとして取り入れられたということだと思います。

武帝の時代は、ウィキペディアでは(502年5月1日 - 549年6月12日)となっていて、時代的にもあってきます。