2020年12月31日木曜日

楯築墳丘墓

 『岡山県の歴史』の「古墳時代の吉備」を見ています。楯築墳丘墓について書かれています。

倉敷市矢部と西山にまたがる低い丘陵宇rにまたがる楯築弥生墳丘墓は、弥生時代の後期後半の吉備における最大の墳丘墓である。あえて絶対年代で示すと、二世紀後半から三世紀前半の時期にあたり、『魏志』倭人伝が「倭国大いに乱れる」とした時期から、卑弥呼が邪馬台国に君臨したときである。・・・岡山大学の発掘調査で全容が明らかになっった。・・・
 楯築墳丘墓は径45メートル高さ5メートルの円丘部を中心に、北東と南西に台形の突出部を設けていて、それをあわせると墳丘の推定全長は80メートルを超えるものになる。規模からいうとのちの前方後円墳とくらべ遜色がない。・・・

長くなりますが、

多くの研究社は、墳丘墓のなかでも群を抜いて大きい楯築墳丘墓に葬られた人は、吉備全体にかかわる朱鳥と見る。

とありましたが、卑弥呼の墓としたそうに感じます。私もそうかもしれないという気がしてきました。 この本では、「造山・作山古墳はだれの墓か」とありまあすが、吉備の巨大古墳が、造山・作山・両宮山の三つあるのも、卑弥呼の時代から引き継いだ歴史があったと考えてもおかしくありません。

 ブラタモリで以前に岡山県の特集で「楯築遺跡」が取上げられていました。あまり記憶にないのですが、youtubeに関連の動画がありました。それと古墳の映像もあったのでリンク先を示しておきます。吉備の国は七世紀の段階でも勢力を保っていたと考えられるので、内容に全面的に納得したものではないです。あちこち出歩けないのでありがたい映像です。

倉敷市 日本最大の弥生墳丘墓「楯築遺跡」 - 高梁川流域デジタルアーカイブ

吉備王国の繁栄 

2020年12月29日火曜日

吉備国の歴史

 山川出版の県史33『岡山県の歴史』の最初のところを見ています。3頁10行目からの引用です。

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『記・紀』に見える吉備国は政治的にも文化的にも大和朝廷に対峙する勢力圏を一時的には形成していたようである。崇神朝における四道将軍大吉備津彦命と若日子建命ら兄弟の派遣、仁徳天皇と吉備の黒比売との相愛の神話も名高い。歌枕で有名な吉備の中山から総社市にかけて、今、観光で有名な吉備路があある。周辺には弥生遺跡、日本で四番目に大きい造山古墳に代表される古墳群、備中国分寺と国分尼寺跡、七世紀後半と推定される吉備の山城・鬼ノ城など、古代吉備王国の繁栄をしのばせる史跡がるいるいと連なっている。・・・ーーーーー

 その後の引用は端折りますが、吉備津彦神社と吉備津神社、桃太郎と地域神話について書かれています。
鬼退治の話では、
 平安時代の『梁塵秘抄』の一節に「一品聖霊吉備津宮、・・・艮みさきはおそろしや」と文献での鬼退治の初見である。一品聖霊吉備津宮とは一品の神階をうけていた備中一宮の吉備津宮をさし、「艮みさき」とは当社本殿の東北(鬼門)を守護する丑寅御前のこと、と神話の説明があります。吉備津神社の東北の方向に吉備津彦神社が位置していて、対立関係があったのかとかの意味を持つようにも思われてきます。

 先の引用に戻って、崇神朝の「崇神」ですが、この意味は神を崇拝するというイメージではないかと思われます。天皇で神と結びつくのは神武天皇ですが、結局は天武天皇です。天武天皇の時代に神道が形成されたと思っているので、崇神天皇にも天武天皇の時代が盛り込まれている可能性があり、吉備と大和の対立は天武天皇の時代であると思われてきます。崇神天皇は、「はつくにしらすすめらみこと」ともあります。神武天皇と同一と考えてもよいとも思えます。

 また仁徳天皇ですが、孝徳天皇の母は吉備姫王で、吉備の黒比売の話とつながります。吉備との関係からも、仁徳天皇=孝徳天皇を示しています。七世紀の出来事を古い時代にいろいろ移しているのではということです。これは古い時代に何かしらの事実があって、話を具体的にするために七世紀の物語で表したのではなくて、七世紀の話をそのまま古い時代の話としたと考える方が良いように思われます。

 

2020年12月25日金曜日

蘇我馬子と入鹿

 日本書紀の編纂者はどのような気持ちで書紀を作成していったのでしょうか。このような空想物語のようなものに馬鹿馬鹿しく思っていたのでしょうか。「馬鹿」が「馬子」と「入鹿」に分散されていたとの俗説があります。「馬鹿」の語源について、安直ですがウィキペディアに

1)サンスクリット(梵語)説
 主要な国語辞典に採用されている説とのこと。

2)史記の「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」の故事を語源とする説
 これが私にはしっくりきます。以下引用。

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秦の2代皇帝・胡亥の時代、権力をふるった宦官の趙高は謀反を企み、廷臣のうち自分の味方と敵を判別するため一策を案じた。彼は宮中に鹿を曳いてこさせ『珍しい馬が手に入りました』と皇帝に献じた。皇帝は『これは鹿ではないのか』と尋ねたが、趙高が左右の廷臣に『これは馬に相違あるまい?』と聞くと、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えた。趙高は後で、鹿と答えた者をすべて殺したという。
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 日本書紀編纂者は『史記』(しき)を知っていたということになります。
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書です。空想物語の名前でも「蘇我馬鹿子」というようなものはちょっと使えませんが、「馬」と「鹿」を分割し、「馬子」と「入鹿」として、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないとしたのだという気がします。大化改新を含めて、日本書紀の虚構性を示していて、これがわからない者は大馬鹿者だとのメッセージだった。「蘇我蝦夷」もちょっと変な名前だなとかで追求せず、わかってなかった私は(ほかの人もそうだとは思いますが)大馬鹿者だったということになってしまいます。

 追記:R021226
馬子と入鹿ですが、「馬の子に鹿の字を入れた」と読めるような気がしてきました。

追記:R021229
「馬子入鹿」として「子」は親子関係の子で、「続く」ような意味になるのではと思います。すると「馬の字に続いて鹿の字を入れろ」となり、額に字を書くときにこの指令に従えば「馬鹿」となります。こちらの方がすっきりします。


2020年12月24日木曜日

清寧天皇

  雄略天皇の子とされます。雄略天皇=天武天皇として、雄略天皇の第三皇子=清寧天皇、天武天皇の第三皇子=大津皇子と見立てることができます。「清寧」ですが、世の中がやすらかに治まること。 また、そのさま。とのことです。清らか丁寧なイメージを持ちます。清寧天皇には大津皇子のイメージが投影されています。この「清寧」という名を付けたのが淡海三船です。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)です(ウィキペディアより)。日本書紀の長い名前では分かりませんが、清寧天皇とすることで関係がわかりやすくなります。淡海三船の撰とされる懐風藻に大津皇子に仮託された漢詩があるようです。淡海三船の大津皇子に対する思いが日本書紀の清寧紀にあらわれているように思われます。雄略天皇の「雄略」からは英雄と戦略のイメージを淡海三船は持たそうとしています。これは天武天皇のイメージで、大津皇子も清寧天皇にイメージとして投影されていて、淡海三船に近い人がこの部分を担当したような気がしてきました。

 逆に言えば、書紀の記述では、淡海三船のような人がいて、それぞれの天皇の部分をその天皇の名前を決定し、それからみんなで分担して記述したのではと思われます。天武天皇→雄略天皇、大津皇子→清寧天皇ということです。まだよくわかりませんが、天武天皇も、別名の神武天皇や雄略天皇にして天武天皇の事績を基に天皇の名に合わせて記述されたということです。このような記述をすると、現実との辻褄あわせが出来にくくなります。つまり雄略天皇の話、清寧天皇の話と続ければ、どこかで打ち切らないといけません。つなぐための工夫がいります。これが例えば継体天皇とかになります。「継体」も体制を継ぐ天皇の意味になります。以前に、孝徳天皇=仁徳天皇としましたが、孝徳天皇の事績を見るときに(難波宮の話など)、仁徳天皇を参照することがありましたが、「徳」で共通化して見るように淡海三船はいろいろ考えてくれていたと思って来ました。

2020年12月22日火曜日

感染症 古文書に知恵絞る

  日経2020年12月20日(日曜朝刊)の記事です。

 江戸時代に疫病の予防法や病気中の心得などの出版物が多数刊行されっていて、過去の実態を解明しようとのプロジェクトの紹介が書かれています。21年に公開されるようですが、「みんなで翻刻」という京大古地震研究会開発のシステムが使われるようです。このシステムのことも説明がありました。東北大学で疫病退散プロジェクトを始めたとあり、「ひかり拓本」という技術を使うとありました。当方には理解できてないですが、メモ書きにしときます。「荼毘室(やきば)混雑の図」というのがありましたが、国文学研究資料館所蔵とあります。

日本古典と感染症で紹介されています。

2020年12月20日日曜日

紀国造と紀州徳川家

  紀国造は天武天皇の時代の話です。紀州徳川家は徳川御三家の一つです。どちらも紀州を重要視していますが、共通項があると思います。

 御三家は尾張、水戸と紀州ですが、将軍家が断絶した時に、養子を出すとのことです。尾張や水戸は江戸の防衛に対して有効ですが、紀州は西日本から江戸に向かう場合に大坂を通るコースであまり意味が無いように思えます。豊臣のあった大阪城を監視するためということでしょうが、理由としては弱い気がします。家康には信長の時代の石山本願寺攻めの記憶が元になったことが想定されます。元亀元年(1570)に信長と三好三人衆が戦っているときに、打倒信長で決起したことから石山合戦が始まり、天正八年(1580)に和議が成立し、本願寺明け渡しまで十年かかっています。信長は本願寺周りに付城を造り兵糧攻めに出るが、海上封鎖が完璧で無く、毛利などの援助があり、本願寺との争いに時間がかったようです。本願寺の方の信長包囲網を構築するのに対し、信長は、四国の長宗我部、九州の大友宗麟と結びつくのも太平洋側の航路によって連絡を取れたのだと思われます。紀州は西日本の太平洋側の重要拠点であったと家康は認識しており、土佐藩に家康の功臣とされる山内一豊が配されるのも紀州徳川家と連動しているように思われます。

 妄想になりますが、石山本願寺=難波宮とします。おそらく石山本願寺と同様に孝徳天皇の時代も瀬戸内海の制海権を持っていたはずで、倭国が吉備であって河内との連合政権的な意味で都を難波宮にした。対抗する大和の天武天皇は倭国(吉備)に対して瀬戸内海を避けて他の西国との連携を図るために太平洋ルート確保で紀国を重視したということです。信長も海軍的なものが必要で、伊勢の九鬼水軍に頼ったとされます(村上水軍に頼れなかったので)。天武天皇の時代にも伊勢神宮とかあるので、東方ルート確保のために伊勢との結びつきが強かったことが想像されます。


2020年12月13日日曜日

日本書紀、国生み神話

  日本書紀神代に大八洲国の誕生の話があります。順番は、淡路州、大日本豊秋津州(大和)、伊予の二名の州(四国)、筑紫州(九州)、越州(北陸道)生んだ。次に大州(周防の大島か)を生んだ。次に吉備子州(備前の児島半島)生んだ。これによって始めて大八洲の国の名ができた。・・・とあります。

 一書とかで少し違ってきていますが、大体似たようなものです。これらの地域は今までは気にしていなかったのですが、今の人間から見ると違和感があります。つまりイメージとして西日本に重心が偏っています。淡路島に意味があると下記の本に指摘がありましたが、忘れていました。これは、倭国=吉備と考えるとすっきりとします。吉備周辺の重要な地域が取り入れられているように思えてきます。淡路島がトップで、終りの方に吉備の児島が出てくることなど、書紀の創られた当時、吉備の勢力が復活し、倭国=吉備であるとの意識が現れてきたのかということではなくて、書紀編纂者の誰もが無意識に倭国=大和であるという設定を忘れていたのではと思われてきました。児島半島が加えられたのは八が聖数であって、数あわせとも考えられますが、神話の世界の話なのでチェックがあまくて、採用されてしまったのかもしれません。少なくとも書紀編纂にいろんな人が関与し、この部分は吉備=倭国のイメージを持つ人が担当したと想像されます。

 これは、『日本神話の迷宮、続 幾千年の時空の彼方へ』、藤井勝彦著、天夢人発行、二〇二〇年八月に記述の、「なぜ淡路島が筆頭にきたのか」ということからの発想です。海人族の話が出てき、四世紀や五世紀の時代の影響があったように述べられていますが、「倭国=吉備と阿波含む」とすれば海洋国家ですので、昔に遡るのではなく、この時代の話です。


2020年12月6日日曜日

乙巳の変と韓人

  乙巳の変は、645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変で、その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。となっています。私は、日本書紀の創作物語と考えています。

1.歴史の繋がりを良くするために考えられた。

 聖徳太子はフィクションですが、その後継である山背大兄王が滅亡したものの、蘇我氏というフィクションが終わっていないので、乙巳の変で、入鹿や蝦夷など蘇我氏一族の滅亡させたと考えます。蘇我氏の専横を理由としています。蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した、として証拠隠滅をはかっています。聖徳太子や蘇我氏の話のつながりを考えずに次の展開に進ことができます。

2.孝徳天皇の評価

 大化改新を作り出すことにより、孝徳天皇はそれほど評価されないような歴史観になっています。急に出てきたのではなく、おそらく遣隋使を派遣した流れの中で孝徳天皇もあるはずです。日本書紀の時代の文武天皇の正統性を考え、そこにつながる天智天皇を入れたと考えることができます。大化改新での郡評の違いも含めておかしな話になってると思います(まだ単に思ってるだけです)。

3.「韓人が鞍作(入鹿)を殺した」問題

 乙巳の変で私宮へ逃げ帰った古人大兄皇子が、韓人が入鹿を殺したと述べたと言うことです。韓人は朝鮮の人間のことで、この変で誰かが関与したということです。最終的には乙巳の変の実施した中大兄皇子になると思います。私は天武天皇は韓人の可能性大になってますが、天智天皇も韓人であろうかいうことになります。書紀は唐向けのものであって、天智天皇は戦争犯罪人の扱いとしています。従って責任転嫁で、天智天皇を韓人として、当時に唐と対立した韓に押しつけようとしたかもしれません。乙巳の変は、三韓の調をたてまつる日で、これにかこつけて殺された(日本書紀③、小学館、日本古典文学全集3の注)とあります。わかってないので間違って理解してるかもしれません。ただ、乙巳の変は天武天皇のイメージで語られていて、韓人ということを、天智天皇に押しつけた可能性はあります。


2020年12月3日木曜日

日本書紀は外交文書か?

  日本書紀は何ための文書だろうかということです。今まで歴史を記述していると考えていました。多分違うであろうと思います。書紀にはかなりの潤色問題があります。これは当時の日本の人たちは、歴史書と考えてないことで、正確ではない記述でも納得していたということではないかという気がしてきました。

 書紀、推古天皇十五年、秋七月三日、大礼小野妹子を大唐に使わされたとあります。実際は隋です。「唐」の客との表記を出てきています。どうしてこのような国の表し方になるのか考えました。例えば日本とアメリカで条約が結ばれる時に、実質は日本の政権とアメリカの政権の交渉であって、ちょっと古くなりますが、安倍首相とトランプ大統領との間で何かしら結ばれたとしても、安倍・トランプ条約とはなりません。日本書紀は隋ではなくて一般化した中国としての「唐」を用いているように思われます。中国の隋は、日本にとって政権であって国ではないとの認識ではと思います。日本書紀は中国の唐に日本をアピールするための文書であって、当時の日本側の人間はこれを歴史だとは考えておらず、中国側への説明文書としたように思います。潤色は当然であろうと言うことです。

 もちろん、推古天皇十六年秋八月の唐の皇帝の書簡に「皇帝、倭皇への挨拶を述べる」とあり、「倭皇」はありえず、「倭王」を改作したものとあり、さらに「皇帝問某王」は藩臣である藩王にあてたものかとあります。(新編日本古典文学全集3日本書紀②、小学館、258頁の注)。藩臣は格下を表すようです。従って書紀は、完全に唐に示したものでなく、微妙に直せるところは変更しているように思われます。小幅な修正にとどまり、大幅な修正はあきらめているような雰囲気を感じさせます。


2020年12月1日火曜日

神武天皇=天武天皇?

  素戔嗚尊=天武天皇、雄略天皇=天武天皇とすれば、神武天皇も天武天皇ではないかと思われます。今は、小学館の新編日本古典文学全集2の日本書紀①を見ています。ここでの神武天皇という漢風諡号は淡海三船の撰(釈紀・述義五)とあります。神と天の違いなので同一と考えろよと言われている気がします。神武紀には橿原宮の造営の記事があり、畝傍山の東南の橿原の地に都を造ろうあります。藤原京は畝傍山の東側で少し方向が違いますが、橿原宮のイメージとしているように思われます。橿原宮=藤原京です。詳しく記述されますが、次の綏靖天皇は葛城に宮を定めたとあるが軽く述べただけです。次の安寧天皇は都を片塩に遷され浮孔宮というとあります。神武天皇とは扱いを変えています。

 神武東征についてですが、日本書紀の編纂に百済滅亡の時に日本に逃れてきた人たちがいることが考えられます。その人たちの逃亡ルートが瀬戸内海であろうと思われます。従って神武東征にこのコースが含められることはあり得ますが、天武天皇が渡来人でなかったらこのような話が受け入れられたとは思えません。つまり天武天皇が渡来人であることによって生まれた神話と考えられます。そうすれば出発の地は百済にすべきであろうということになり、日向からのスタートはおかしいことになります。しかし日本書紀は日本を唐にアピールするためのものです。自己完結するためには、百済出発はありえません。神武東征のスタートとゴールも迷走する感じですが、天武天皇の時代の勢力範囲になったところと想像されます。コース中に吉備に三年間滞在します。おそらく軍事行動を起こす場合これぐらいの時間が必要との認識があったと思いますが、吉備を意識していることも吉備との対立があってと想像します。

神武東征について以前に同じようなことを言っています。反復学習なのかもしれません。
神武東征について(H31.03.22時点)