2020年3月31日火曜日

祭政一致と仏教

 祭政一致とは、祭祀と政治とが一体化していること。祭政一致の祭は、「まつり」であり宗教を意味する。政は「まつりごと」、政治を意味する。ということです。
古い原始時代のことに思っていましたがそうでもないような気がしてきました。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月を見ています。
 この本の第2章に梁の武帝(在位五〇二~五四九)が信仰心から菩薩戒を受けていて、捨身(帝位を退く)→涅槃業解説→還御(帝位に戻る)→大赦・改元をして、仏教による国家の結集を図ったという、高度に政治的な行為であったという(p。55)。周辺諸国は、中国に対し、仏教を活かした朝貢を行なうということである(p。57)。というようなことが書かれています。これは、仏教による祭政一致であろうと思われます。ということは、日本での仏教公伝というものも、単なる宗教の伝播ではなく政治体制に直結した仏教による同盟国家生成のものであったことが考えられます。
 六〇〇年の遣隋使の時には日本側には仏教の雰囲気はありません。隋書東夷伝、倭国条には
「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、夜明け前に出でて政務をとり、跏趺《かふ》して座し、日が昇ると政務を停め、『我が弟にゆだねよう』と言っております」と説明し、高祖(文帝)は「たいへん義理(道理)のないことである」と言ったとのことである。この本には、日中でやりとりに誤解があったかもしれないが、仏教色は希薄であると書いてあります(p.69)。この時代(七世紀まで)の日本が原始宗教的であるように思われ、仏教公伝が五三八年とか五五二年とかにあったとは考えられません。
 六〇七年の遣隋使には仏教を受容するものになったようです。ここで、鴻臚卿(鴻臚寺の長官。寺だが、外国使節の接待および朝貢などをつかさどった役所のこと)が出てきますが(p.76)、「寺=役所」であれば、これは仏教を取り込んだ祭政一致の社会のような気がします。
 孝謙天皇の時の遣唐使では、鑑真を招き、聖武太上天皇・光明皇大后・孝謙天皇たちは菩薩戒を受けている。3人の受戒は、唐の皇帝たちが、鑑真の師匠筋の僧侶から菩薩戒を受けたことを先例とするとあります(P.162)。日本でも、祭政一致が完全に仏教に変化しています。
 平安時代に、神仏習合というものが現れますが、これは遣唐使を廃止し、唐の影響が小さくなってから段々と広がっていったことに対応していて、「唐の支配=仏教の支配」が神道派の盛り返しで、成立しなくなったと考えられるのかもしれません。

2020年3月27日金曜日

大宝二年の中国と日本

 大宝二年の遣唐使というのは正確ではないとのことです。当時、中国の王朝名が唐から周に変わっており、中国唯一の女性皇帝、則天武后(在位六九〇~七〇五)に使者達は驚愕したという(『続日本紀』慶雲元年七月甲申条)。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月、一三五頁ぐらいからを見ています。
 遣唐使が則天武后に国号を「日本」と改めたい願い出て、それを許可されたとある。この日本の意味であるが、かっては太陽の昇るところを意味し、唐に対する対等ないしは超越を主張したとの通説があった。それが当時の唐では中国から見た極東を示す言葉にすぎず、この「日本」は、中国の世界観を受け入れることで、唐(大周)の国際秩序に極東から参加する国としての立場を明示する国号であった(東野治之)。これは、多分東野治之「日本国号の研究動向と課題」、(『史料学深訪』岩波書店、二〇一五年、初出二〇一三年にあると思われます。決して唐への対等、優越を示したものではなかった。
ということのようです。
 一四三頁には、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の一代一度の事業としての側面があったと認められてよいのではあるまいか。使者の任命が、天皇の即位からほどなくして、ないしは皇位継承者が決定した時点であることが多いのも注目に値する。遣唐使が天皇の代替わりと関連して派遣されたとすれば、これはまさしく朝貢国にふさわしい態度である。・・・とあります。
山尾説は、これも多分ですが、
山尾幸久、「遣唐使」(井上光貞ほか編『東アジア世界における日本古代史講座6 日本律令国家と東アジア』学生社、一九八二年)のことだろうと思います。
 則天武后の時代が持統天皇(在位六九〇~六九七)と重なります。『日本書紀』での持統天皇の神格化でアマテラスが生まれたのも、遣唐使の影響を受けたからではという気がします。日本書紀は中国の唐向けということになります。その後も、女性の天皇が多く出てきますが、則天武后の影響が大きく、続いたような気もします。聖武天皇の時代も実際は不安定であって、遣唐使を通じた唐の権威を頼らなければ成立しない時代であったかもしれません。

2020年3月23日月曜日

若宮八幡宮 (京都市山科区) のご祭神

 若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)という名前の神社は日本全国にあり、若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ)や若宮八幡社(わかみやはちまんしゃ)、若宮八幡宮社(わかみやはちまんぐうしゃ)と称する神社もある。 社名の通り「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、八幡神・応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀るものである。他に、「八幡宮本宮から迎えた新宮」の意味の「若宮」もあり、この場合は応神天皇が祀られている。
 こちらの若宮八幡宮(わかみや-はんちまんぐう)は、音羽森廻り町(おとわ-もりまわりちょう)にある)。祭神は 第16代・仁徳天皇(にんとく-てんのう)、第15代・応神天皇(おうじん てんのう)、神功皇后(じんぐう-こうごう)、須佐之男命(すさのおのみこと)、第40代・天武天皇(てんむ-てんのう)の5神を祀る。
追加して須佐之男命と天武天皇が祀られている。須佐之男命=天武天皇と考えるものにとっては一つの証拠のように思える。境内には宝篋印塔(供養塔)2基が立てられている。右は大津皇子、左は粟津王の墓とされる。写真参照



これらは、後世の鎌倉時代後期(室町時代初期とも)のものという。この宝篋印塔は、粟津家末裔により立てられたという。上図左の粟津王はよく見ると、右の宝篋印塔と比べて基礎の部分にほかの宝篋印塔のパーツを持ってきていてさかさまに据えられ間に合わせ感が強い。粟津王のために制作されたものとはいいがたい。粟津王が大津皇子の子であることも不明であって(コロナウイルスのため図書館で調べ物ができないので確認できない)、もやもやは強い。もちろん宝篋印塔が天武天皇の時代にはなく後世のものであるので、信用度は低いとは思われる。あえて考えれば、出雲神社の須佐之男命が合祀され、そこに出雲に関係した天武天皇の子孫を意識した粟津氏がやってきて若宮八幡宮が生まれたと考えられなくはない。天武天皇と出雲のつながりがあってこの神社の祭神が構成されたかもしれない。神社には粟津姓の提灯があり、まったくのでたらめの話ではないようにも思われる。須佐之男命=天武天皇を示すものはほかにもあるかもしれない。

2020年3月20日金曜日

遣唐使と政治状況

 遣唐使は日本から中国の唐に派遣した使節であるが、中国の先進的な技術や政治・文化、ならびに仏教の経典等の収集が目的とされた。とされます。そうであろうかという気がしてきました。
 大宝二年(七〇二)の遣唐使の時ぐらいから考えますが、大宝元年の大宝律令施行により、倭国ではなく日本として新しい体制をアピールしたと思われます。この時は文武天皇の時代で、父は草壁皇子で、天皇になってはいません。天武天皇からの直系を考えれば、後継者は他にも多くいて、文武天皇で無くても良かったと思われます。持統天皇の力によって文武天皇が皇位についたものの、反対勢力を無視できにくい状況にあったのではと想像します。文武天皇の正統性をアピールするための手段として、唐のお墨付きを求めたのが遣唐使ではないかという気がしてきます。単なる想像ですが、この遣唐使では日本の主張は思うほどには認められなかった。そして日本の主張をきちんと述べるものとして、古事記が和銅五年(七一二)作られ、これでは駄目だと言うことで日本書紀の原型が作られ、次の遣唐使の養老元年(七一七)で示され、養老四年(七二〇)にまとめられた。と考えることが出来ます。
この時には元正天皇から譲位を霊亀元年(七一五)に受けた元明天皇ですが、万人の納得のいくものでなく微妙なものに思われます。首皇子(聖武天皇)がまだ若いためにつなぎ的に思われます。和銅七年(七一四)には首皇子の立太子(跡継ぎ決定)がありました。つまり他に皇位継承者がいるにもかかわらず、聖武天皇の皇位継承を目指し、皇位を他の系統に譲らないということなので、反発する人も出てくるはずです。唐のお墨付きを得て正統性を主張しようとしているように思えます。
 次の天平五年(七三三)の遣唐使は聖武天皇の時になります。聖武天皇の即位は霊亀元年(七一五)でした。初期には長屋王が政権を担当していましたが、神亀六年(七二九)に長屋王の変が起こります。政権が不安定化したかもしれません。聖武天皇の正統性を訴えるために遣唐使を送り、唐のお墨付きを求めたように思われます。唐からの先進知識などの導入が遣唐使の目的にあったと思いますが、そのタイミングは国内政治に影響を受けていたと感じます。

2020年3月18日水曜日

大化改新の「畿内」

 日本書紀では、大化改新は新生日本をイメージするものとしたいと思っています。
日本のもととなった原始日本の地域であると日本書紀が意識しているとすると(倭国ではない)、
「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」
と記述しています。つまり、近江や吉備などは含まれていません。その後の時代に他の地域を含めていって、日本が成立したことを暗に示しているように思えてきました。白村江の敗戦のあと(その前の隋の高句麗遠征とかを見ていたかもしれませんが)、小国家の分立ではだめだということで、畿外の国を含めて統一され、実際には文武朝の時代にようやく日本が成立した。しかし理想とする大化改新が、現実に引きずられてしまって畿内が作られた可能性があります。畿外は
どうなのかということになりますが、大化改新で律令制度が完備されたことを示したいので、統一の物語は神話の部分に移されてしまったのではということになります。

2020年3月15日日曜日

孝徳天皇系図

孝徳天皇の系図です。



 推古天皇からあとの世代では、押坂彦人大兄皇子の次に舒明天皇で、皇位継承が一世代とんでいます。舒明天皇は重要でこの天皇がいなければこの後どうなったかわかりません。イメージ的には推古天皇と舒明天皇の関係が、持統天皇に対する文武天皇の関係と似ていて一世代あいています。押坂彦人大兄皇子が草壁皇子にあたります。舒明天皇ですが息長足日広額天皇《おきながたらしひろぬかのすめらみこと》で、「息長」は近江国坂田郡の地名で、天智天皇の近江に勢力圏があったことと合致しています。
 日本書紀は文武天皇の正統性を主張したものとしているので、文武天皇の系図を見ると舒明天皇から異常にまとめられているように見えます。ここでは天武天皇は関係ないとして点線でしめしています。系図で見ると孝徳天皇がワンポイント的な扱いになっていますが、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇を別系統と考えた方がすっきりとします。

2020年3月12日木曜日

郡評論争とついでに茅渟王

 乙巳の変により孝徳天皇が即位し、大化二年(646)、改新の詔が発せられた。その中に国司・郡司を設置とある。ところが、発見された木簡では郡ではなく、評であった。書紀の述べることと異なっている。これは、郡と評が並列的に存在したとしておかしいというのでは無く、時代的に異なるとのようである。
 以下の本にあったので、抜書きすると、
郡評論争に決着をつけたのは
藤原宮跡(奈良県橿原市)から出土した木簡であった。文武四年(700)以前の木簡にはすべて「評」と記され、大宝元年(701)以降の木簡には「郡」と記されていた。つまり、大宝律令を境に「評」から「郡」に変わったことが明らかになった。
とある。『日本書紀』では、天地開闢以来続くと主張している文武朝の正統性を、中国の唐に示したいとしているので、制度の変更により政権が変わったと誤解させることを嫌ったと考えられる。逆に言えば、孝徳朝は、文武朝とは全く別物であることを隠したいと考えていたことが考えられる。
  『日本史の論点』、第1章古代論点3、「大化改新はあったのか、なかったのか」、
   倉本一宏、中公新書2500、2018年8月
 上記の本では、大化改新の主導者を中大兄皇子や中臣鎌足としている。孝徳天皇は軽王という呼ばれ、名前の「軽い」イメージで、重要ではない人物のように記述している。日本書紀の印象操作のようにも思えてくる。上記の本でも、父も祖父も即位したわけではない三世王にすぎない。と書いてある。しかしこれも『日本書紀』の作為に思えてくる。大化改新の事業は、乙巳の変で突然出てきたものではなく、ある程度の長期的な計画に基づいていたはずで、孝徳天皇が即位するにあたって、例えば前期難波宮のそれまでのものとは隔絶した宮城が出てくることなど、連続性を持った政治権力であると考えるべきであろうと思われる。傀儡政権的なもので改新政治が行なわれることがあるのかという気がする。何が言いたいかというと、孝徳天皇の父の茅渟王がどのような人物か、『日本書紀』では良くわからないが、業績が隠されているのではと思われる。証拠はないが、遣隋使の返使が、男子王にあったとされているのが推古天皇であったことになっている。私は推古天皇は存在しないとしているので、この時の王が茅渟王か又は彼に近い人物であった可能性を考えられると思う。『日本書紀』では孝徳天皇を改革の関係者に持ってきたが、その元となる茅渟王には触れたくなかったと考えても話として成立するように思う。乙巳の変から大化改新への流れが不自然なのが解決出来るようにも思う。「思う」が連続してるが現時点では思いつきなので仕方がないとは思う。

2020年3月2日月曜日

法隆寺献納宝物(ペルシャ)

 法隆寺には古い白檀や沈香の香木が伝わっていた。現在は東京国立博物館に所蔵されているが、この内、白檀の香木にはパフラヴィ文字とソグド文字の焼印が確認された。
古代史料を読む、上、103ページ
この元となる、遣唐使と正倉院には、中期ペルシャ語後期の書体とあった。
ペルシャと日本のつながりを感じさせるものである。
以前にもこんなことを考えていました。稗田阿礼はペルシャ人2世かもしれません。

平城京の宮廷ではイラン人の役人も勤務していた

古事記の稗田阿礼はインド人か?